知性と知識

 

 「嘆かわしい財政スキャンダルに加担した高級官僚や私企業の上層部に、東京大学の卒業生がまじっていたのはまぎれのない事実であり、それを否定することはできません。まだ裁判さえ始まっていない段階なので無責任な言動はつつしむべきとは思いますが、わたくしは、かつてこの大学に学んだ、ほんの一部の者たちの愚かな振る舞いに、東京大学に籍をおく者の一人として、国民の一人として深い憤りと屈辱を覚えずにはいられません。

 また、そうとは断言しえませんが、かりに彼らの破廉恥な言動に東京大学独特の風土が何らかの意味で反映しているというのが事実であるとするなら、例外的な少数者の愚行とはいえ、そのことを深く反省しなければならない立場に私自身が立っていることになります。彼らは知識や情報に恵まれていたが知性だけを欠落させていた。知性は蓄積がきかない。他人とともに考え行動することで初めて知性の質を高めることができる。」(サンケイ・夕刊、3月27日)

 3月27日、蓮実重彦東京大学総長は安田講堂で行われた卒業式で、一連の大蔵・金融スキャンダルに東大卒のエリート官僚らが関係したことに触れる異例の総長告示を行った。

 「知性」を広辞苑で見ると、「1知的な能力 2新しい状況に対して、本能的方法によらずに適応し、課題を解決する性質(心)」とあり、そして「知性・叡知を人間の本質」とみて人類にHomo sapiensと名付けたのである。人間は「知性人」(Homo sapiens)「叡知人」である。単なる知識(intelligence)は人間だけでのものでなくintelligent な動物もいる。

 「sapiens」の意味はwisdom、知恵、英知であり、仏教でいう般若のことである。つまり人間は、本来知性をもった生物であるはずなのに、生活環境や心掛けによっては知性の質を落とし、あるいは欠落してしまう。

 評論家・立花隆氏は文芸春秋四月号の「東大法学部卒は教養がない」の中で、「それは輸入学問の上に築かれた日本の高等教育が、実は実学の部分のみを輸入し、哲学(道理)は意識的に排除したためだ」と指摘している。明治以前の日本では実学よりも「道理」の教育が相当行われていた。四書五経などの漢籍を通じての道理教育が教育の中心であり、漢学の学問としての目的は「君子不器」というように人格の完成が究極の目的であった。孔子の説いた教えの究極は「仁」である。君子が目指す最高の目標は、完成された人格として仁の徳の実現であり、論語の学問というものも結局はそれを志すことであった。明治維新後の高等教育のスタートにあたってそれまで道理教育を担っていた漢学を捨て、実学の部分のみの輸入に走ったのである。しかしこの事は法学部だけの話ではない。

 すでに明治時代「学問と人格は別のものである。学問の目的は真理功究であり、人間はただ真理を功究する一つの道具である。人格などはどうでもよい」という議論をする専門学者に対して「人間すなわち器ならず、真理を研究する道具ではない。君子は器ならずということを考えたならば学問の最大かつ最高の目的は、おそらくこの人格を養うことでないかと思う。すべての点に円満なる人間を造る事を学問教育第一の目的としなければならない」と新渡戸稲造博士は反論されている。

 明治9年(1876)6月、東京医学校の生理学教師として明治政府に招かれたDr. Erwin Baelz(1849〜1913)は、その後内科学専任教師として1902年までその職にあって医学の指導に貢献され、我が国医学の基礎を築いた。ベルツ博士は「日本の学生達は良く私の教えを理解し知識を吸収してくれた。しかし残念なことに、彼らが西洋文明の精神を理解することはなかった」との言葉を残して離日された。医学研究者といえども、その臨床実技や基礎研究に長けていても基礎教養としての人格に欠陥があっては真の学問として医学は成り立ちえない。

 知性の欠落した者たちは東京大学法学部の卒業生に限らないことは、我々の周りを見回してみるまでもなく目につく。30年前の某大学・某学部・某教室の話を思いだした。

 ○○博士号を希望する人がいた。自分で研究し論文を発表する意志は全くなく、ただ学位が欲しいという人である。主任教授は前例に従って快く学位取得を引き受け、研究生として在籍することを許可した。大学への学納金、毎月の教室研究費、そして盆暮れの付け届けを数年間にわたって支払い、その間研究室へ顔を出したのは数回であった。めでたく学位が授与されると、さらに多額の謝礼金を支払い、主任教授はそれを受け取った。学位取得までに支払った金額は想像を絶する。博士様は自分の研究論文の内容については全く理解できていなかった。知性によらず本能的欲望のままに欲しいものを手に入れようとする話は、今でもありそうである。

 目の前にある誘惑に惑わされない心は、知性である。そして誇りと恥を知るのは良心であり、知性である。

 

 我々は本当にHomo sapiens と言える生物なのだろうか? April 1998