平等 天は人の上に人を造らず

 

 人は生まれながらに貴賎貧富の別なく平等である。わが国の憲法にも「基本的人権」として平等を保証すると明記されている。

 職業の貴賎や社会的身分の上下を否定し、機会均等法による男女平等を主張するのは当然であると思える。学校教育の現場でも落ちこぼれを造らない、運動会の徒競走でも順位をつけず全員を表彰する、など「平等」を基本とする考えがはびこっている。しかし、男女平等といっても女性が男性に伍して厳しい重労働につけるだろうか。もちろん男性が子供を産むことはできない。また、中学高校で十分な基礎学力をつけずに大学へ入学した学生が大学教育についてゆけるはずもなく、その学生を救いあげるために特別補習講義を大学で行うのも、さらに大学での学業不良学生のための補習講義も平等思想の実践というのだろうか。もはやこれでは大学とはいえない。わが国には、本来の大学といえる大学はいくつあるのだろうか。

 実社会では厳然とした競争とその結果としての不平等が存在しているのはなぜか。その不平等を解消し社会の底辺にいる被搾取者である労働者階級の理想郷を実現するために建設された国家が共産主義国家であった。しかし、それは儚い夢にすぎなかったことが既に証明されている。ではなぜ、理想と考えた国家造りが失敗し、社会的不平等が存在し続けるのだろうか。遊びモノのキリギリスが働き者のアリを殺しその財産を奪ったという童話と同じく、共産主義者であってもそれは人間の性のためであろうか。ただ単に自分の取り分を多くしようと不平等を唱えるのは遊びモノのキリギリスとなんら違わない。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とは福沢諭吉先生の言葉としてよく知られている。世の人たちはこの平等をうたった言葉の真の意味を理解せずに平等を主張している。自分の優位さをひけらかし相手を蔑みたり、逆に自分より少しでも幸せな同僚や家庭を妬み嫉みからの陰湿な苛め、村八分、それが亢じてついには殺人までもが行われる昨今。もう一度先生のことばを読み返し、考えてみたい。

 

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されど人の世は賢き人あり、おろかな人あり、貧しき人あり、富めるもあり。人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧乏となり下人となるなり。・・・独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。独立とは自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引き受くる者はなかるべし。この国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は千人の智者にて、よきように国を支配し、その余の者は悉皆(しっかい)何も知らざる客分なり。既に客分とあれば固より心配も少なく、ただ主人にのみ依りすがりて身に引き受くることなきゆえ、国を憂うることも主人の如くならざるは必然、実に水くさき有様なり。」              おわり        AD 2000