麻酔とその安全性

 

 茨城県東海村での放射性物質ウランの臨界事故(criticality incident)は起こるはずのない偶然の事故(nuclear accident)と関係者はいう。なぜ起こるはずがないと云えるのだろうか。 放射能の次は山陽新幹線・北九州トンネルでの、落ちないはずのコンクリート塊である。「普通に工事していれば落ちないはずの場所」とJR西日本はいう。ここでも偶然性を主張している。なぜ普通に工事していなかったのだろうか。

 

  人間は多彩な能力を持っているが、同時にその能力を発揮する際に過ちを犯すことも多い。また難しいことよりも安易な方を選ぶ性癖もある。何事も過ちなく実施できるという保障はなく、それどころか人間は必ず失敗や過ちを起こすといったほうがマチガイない。

 「人間は何をしても完全にはできない、できるのは神のみであり人間が完全を目指すことは神に対する冒涜である」という考えがある。その典型的な例を挙げよう。

 長時日をかけ緻密な作業の結果作られる豪華なペルシャ絨毯、ベットカバーなどのパッチワーク。その完璧な模様の中に、一カ所出来損ないがあることに気が付く。象の足形の模様はみな同じ図柄であるのに一つだけ色違いがある。これは完全な仕事ができるのは神のみであって人間は完全なものを作ることはできないという考えから、神への畏敬の念を込めて一つだけ色違いにしてあるという。パッチワークの模様も同様である。人間の作る純金とは100%ではなく99.9%のものをいうが、人間には100%の純金は作れない。

 

 医療事故を省みると、中でも麻酔に関連したものがもっとも多いことに気が付く。

 19世紀、近代麻酔が始まってから麻酔薬の副作用や技術的過誤のために多くの人たちが犠牲になってきた。わが国においても20〜30年前までに起きた麻酔事故は、今では想像を絶するほどの惨憺たる状態であった。それらの事故を防ぐための方策が開発整備された結果、現在の麻酔臨床がなりたっているのである。現在の麻酔臨床ではその安全性が高められ、大きな事故の発生は比較的少なくなった。しかし小さな過誤からの事故(minor incident)は必ずしも少ないとはいえない。

 若い麻酔医たちの中にはもはや全身麻酔は安全に行えるようになったと豪語したり(第16回関東臨床歯科麻酔懇話会 平成11年6月)、患者を診ずにモニタ機器の数字ばかりをみている者もいる。ウラン臨界事故と同様、ある日突然大事故が起こることに気付いていない未熟者なのである。予測できず偶然おこるaccident とは違い、重大な医療事故は minor incident の重なりの結果である。

accident:@an event or condition occurring by chance or arising from unknown or remote causes, Ahappenings outside the range of probability which we could term historical 〜s. Webster’s Third New International Dictionary)

 われわれの日常業務つまり全身麻酔での薬物使用量は、ものによっては筋弛緩薬など致死量をはるかに超えて投与する。したがって麻酔医が誤れば患者は死の危険に晒される。麻酔は航空機と同様、絶対安全といえるものではない。薬理学での薬と毒は同義語であるが、患者を薬物中毒の状態にするのが麻酔薬の作用である。薬物中毒は生体にとって害になることとは限らない。患者を中毒状態に晒したり致死量を超える量を投与しても、患者は安全確実に麻酔から覚醒する。術中麻酔医が間違うことなく患者を管理し、適切な処置を施しているからである。術中の患者管理に手違いが起これば、患者は種々の程度の危険に晒される。

 1993年4月 日本麻酔学会は、局所麻酔や全身麻酔という分類に左右されることなく麻酔という医療行為を安全に実施するにあたって必要かつ現時点で応用可能なモニタ指針を提示した。すなわち、日々の臨床において厳しい研鑽をつみあげることは勿論のこと、現代医療の水準に見合ったモニタ導入により医師による主観的評価と、モニターによって示される客観的データを総合的に正しく評価・判断することが不測の事態発生を防ぐことにつながると、その重要性を強調している。

 

 最新のモニタ機器を導入してもそのデータを見逃したり判断を誤れば事故につながる。臨界事故の際の関係者の対応について1二度とくり返してはならない 2対応が遅い 3慢心があった 4徴候があったのに無視し、その意味を理解しなかった、 などの批判が地元の人たちから上がっている。医療事故についても同じことがいえる。

 人間はマチガイを犯す動物である。麻酔管理においても同様で、そのためfail-safe system がとられている。麻酔医たちは薄氷を踏む想いで危険な麻酔業務を遂行しているのである。

 医療事故は起こるべくしておこり、起こるはずのない事故は存在しない。事故は必ずいつか起こる。         (日本歯科麻酔学会誌 27、より)

                                                   Feburary  AD 2000