人須く

     克く働き、好く遊び、善く愛す。

 

 先日ある集まりがあった。その席で「人須く克く働き、好く遊び、善く愛す」を座右の銘としている、そして「善く愛す」ことが最も大切であるという先輩の発言があった。隣人を愛すことができなければ社会は成り立って行かないというのである。地震、大水害など自然災害に襲われた人々への救援、あるいは社会奉仕に協力する、そして日常的にもどんな人々とも円満につきあえることが大切だというのである。私は日頃気になっていた 「仁、即ち人を愛す」という言葉を思い出した。

 

 攀遅仁を問う。子の曰く、人を愛す。知を問う。子の曰く、人を知れ。攀遅未だ達せず。

  (第十二顔淵篇 四七三)

 攀遅が、仁と知との事を孔子に問うと、人を愛して親しむのが仁であり。また、彼は如何なる人物であるかと、先ず人を見分けるが知であると答えられたが、その言葉があまり簡短であった為に、攀遅は分かりかねていた。

 孔子のいう「愛」は単なる愛情ではなく、我が身を愛するように他人を愛せよという平等愛であって、自分のまごころで他人の心をおしはかる温かいおもいやりである。

 

 子の曰く、惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。(第四里仁篇 九七)

 成徳の人は、善い人ならば身分の高下にかかわらず好み愛するが、悪い人ならば少しも交わらない、世の中には悪い人と知りつつ、お世辞をいうて、交わらないと利益が得られぬとか、ひどい目にあわされるなどと、欲の方に考えて交わる者があるが、仁者は決して左様な事はない。 ただ仁の人だけが、本当の意味で人を愛する事もでき、人を憎むこともできるというのは、仁が道徳的判断を誤りなくできるからである。

 

 仲弓仁を問う。子の曰く、門を出ては大賓を見るが如く。民を使うは大祭に承うるが如し。己れ欲せざる所は、人に施すことなかれ。(第十二顔淵篇 四三五)

  仲弓が仁を孔子に問うと、門を出た時は貴き賓客に接する気持ちで、敬を忘れないようにし、人民を国の用事に使う時は、賎しい者だからと軽んじないで、天子の祭りを助ける心持ちで大切にし。己の好まない事は、人も好まないと推察して、いやな事をしてはいけない。

 

 日頃「人を愛す」ことができているだろうか。最近の政界の動きや報道関係者の言動をみると、目先の事に気をとられ利害によってばかり右往左往しているように見えるのはひが目か。それとともにわれわれ自身の周りのことも大切である。他人の落ち度を追究し、あら探しに専念し、それによって利を得ようとしているように見える者がいる。

 孔子のいう「仁とは人を愛す」ことだといっても、それは容易な事ではない。容易な事でないからこそ孔子の教えとして永く後世に伝えられてきたのではないか。どうすれば「人を愛す」事ができるだろうか。それは「教養」が全てであると、私は考えている。

 

 子の曰く、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(第十四憲問扁 五六一)

 昔の学者は仁義道徳を我が身に行わんがために学問したのであるが、今日の学者は、聞けばすぐに人に授けている。全く人に教えるために学問をしているので、まるで学問の取り次ぎ人のようである。学問は自分の才能をみがくためにこそ行うべきもので、他人への売り込みのために行うものではない。

December    1999