局所麻酔


 局所麻酔

 近代の局所麻酔が始まったのは1884年のことである。そして使われた麻酔薬はコカインであった。
 コカインは、海抜1,000〜3,000mのアンデス山脈に生育するErythroxylon coca という喬木の葉に多量に(0.6〜1.8%)含まれているアルカロイドである。現在でもボリビアやペルー高地では約200万人の原住民が草の灰と一緒に噛んだり吸ったりして幸福感を得ている。この場合、草の灰はアルカリ性のため、コカインを口腔粘膜から吸収されやすいように葉から遊離させる役目を果たしている。
 コカの有効成分は1855年Gaedickeによって分離された。さらに1860年Niemannはこのアルカロイドを純粋に単離し、コカインと命名した。  1880年Von Anrepはコカインを皮下に浸潤させると、皮膚は刺激に対して無感覚となることを観察した。
 1884年6月、オーストリアの精神科医Sigmund Freud はコカインが精神的、肉体的能率の増大に役立つとする研究論文を発表したが、痛みを和らげる作用については興味がなかった。Freud はコカインの麻酔作用に気づきながら全くこの方面の研究には興味を持たなかったため、麻酔の専門家になる権利を手放してしまった。
 コカインを初めて臨床に応用したのは眼科医のKarl Koeller である。Freud が歯ぐきの炎症の痛みをコカインで抑える効果を示したとき、コカインが眼に対してもこれと同様の効果を示してくれないだろうかとKoeller は考えていた。彼は何週間もの間手に入るだけのコカインに関する古い文献に読みふけった。そして、彼は蛙とイヌの眼にコカインの一滴をたらし、刺激を加えて麻酔作用を確認した。1884年9月11日立会人なしで、秘密裏に白内障の手術を行い、その成功の喜びに浸った。
 Koeller の局所麻酔法発見の話がニューヨークに受け入れられて以来、短期間のうちにコカインはHall によって歯科領域にとり入れられた。
   さらに翌年1885年、Halsted (ニューヨーク) はコカインが神経幹での伝導を止めることを実証し、外科学における神経遮断麻酔の土台を作った。
1885年の終わり頃、共同研究者のHall が激しい歯痛におそわれたときHalsted は、はじめて、コカインを下歯槽神経に注射した。顎のその部分は約25分間無感覚になった。その間に歯は痛みもなく抜くことができた。

   Halsted の発見の後、1886年から1888年の間にコカインに関する研究が広範囲にすすめられ、歯や下顎の手術、手足の手術、ヘルニアの手術などが局所麻酔のもとで行われた。しかし、コカインの中毒症状から沢山の患者が死亡する結果を招いた。今や、局所麻酔の危険性は急速に批判的な声に追われるようになった。
 1890年の医学雑誌には、コカイン麻酔を歯科治療にまで応用することを非難する、多くの記事が掲載された。それらの筆者たちは、安全に歯を抜くのには局所麻酔を用いずに、より安全なクロロフォルムかエーテルの吸入麻酔を用いることを勧めていた。
 1889年Paul Reclus(1847〜1914、パリ)はコカインによる死亡患者の名簿を丹念に調べ研究し、結果を得た。
 これまでコカイン溶液は30%までというのがきまりであった。しかし、彼は3%溶液でも感覚を無くするのに充分であることを発見した。さらに0.5%の溶液での効果を確かめ、この濃度では副作用は起こらない事を確認した。ほぼ7000回もの局所麻酔を執行した後、ついにその業績を“コカインによる局所麻酔法”という表題で出版したのは、1895年になってからであった。
 しかし、それより1年早く、Reclus の仕事よりかなり進んだ研究がドイツにあらわれた。Carl Ludwig Schleich(ベルリン) はコカインの0.1〜0.01%溶液を用いる浸潤麻酔法を発見したのである。
   Schleich は「神経活動はピアノのダンパー(断音器)であり,やわらかなペダルである・・・」と考えた。ピアノ線は圧力を加えれば音を弱めることができるように,神経線維に食塩の水溶液を注入してやれば,神経の痛みを伝える振動を止める事ができるはずである,と考えた。
 1894年の春彼は,詳細に論じた「無痛手術,非特異性溶液による局部麻酔」と題する本の原稿を書き上げた。Schleich は桧舞台の新しい人物であり,局部麻酔をその頂点まで発展させた。しかし,この浸潤麻酔を支えている理論,とくに「すべての根本をなしている“ピアノのダンパー”理論の誤りを,ドイツの外科医Braun が指摘していた。
 1885年Corning(ニューヨーク)は、イヌと人で脊椎麻酔をつくることに成功したと論文を発表したが、彼の仕事はコカイン溶液や種々の薬物を,ただ脊椎の近くに注入し,脊髄疾患の治療を目的とするものだった。
 1898年8月16日の朝,その患者は手術台に横たわった。August Bier(キール)は,脊椎骨の間から長い中空の針を突き刺した。慎重に中空針後端の留め金をはずした。次の瞬間,2,3滴の脊髄液がその端から流れでた。
 この8年前,Quincke 教授は腰椎穿刺によって脊髄液を流しだし,脳圧亢進患者の治療に成功した。そこでBierは,逆にコカイン溶液を脊髄腔に入れる事もできると考えたのである。

 1900年の春、Heinrich Braun(ライプチッヒ) は動物の副腎からの抽出物について触れている学術雑誌にぶつかった。アドレナリンというこの抽出物は、血管の収縮を起こし、身体組織への血液の供給を低下せしめる傾向を持つと説明されていた。
 Braun は、血液循環を止めることによって、指や足の先端を麻痺させるOberstの麻酔法から、アドレナリンが体のどの部分にでも、同様の効果を起こさせるのではないだろうかという希望を抱いていた。そしてコカインをアドレナリンと混ぜてみたらどうか、と考えた。
 1902年からこの方法の詳細をBraunが発表しはじめたとき、多くの反論が起こった。しかし、最後には、アドレナリン・コカイン麻酔は浸潤麻酔法に適用され、受け入れられた。このコカイン麻酔法の最後の欠点は,アドレナリンの添加によって解決した。