八百長

 

 八百長はよく知られるように相撲界の隠語である。明治のはじめ、相撲部屋を相手に商売をしていた八百屋の根本長造という御仁が相撲会所で行う親方相手の囲碁でわざと負けていたことからきたという。

 ご機嫌取りのために、相手に気付かれずにわざと負けるのも段違いの力の差があってできることである。本来の八百長、つまり八百屋の長造の行為は親方衆の機嫌取りのためであり、そのために不利益を被る者は一人もいない。むしろ喜んでいる者ばかりで誰にも害を及ぼさない。しかし直接の利害からの不正行為は本来の八百長、つまり長造の八百長とは全く違ったものになる。相手をだます詐欺がそれである。

 競技で勝敗を前もって打ち合わせておいて表面だけ真剣に争っているように見せかけるのは、観客をだます行為であって長造の八百長とは別物である。「相撲界では八百長が常識」と巷での噂が長いあいだ続いている。同様に双方が承知の上でおこなう裏取引、贈収賄、粉飾決算、国会議員の利益誘導質問、本音と建前など、八百屋の長造の行った八百長とは比べられない。

 競技や試合でなくて議論の場でも、もっともらしき正論を展開すれば現実を無視したものであってもそれに反対する者はいない。しかもその裏に別の意図が見え透いていても自分との利害が一致していれば、その発言を正すことなくお手盛りの結論に導くことがある。そしてこの見せかけ議論の結果、不利益を被る者が出てくる。つまり敵の敵は己の味方であり、共通の敵を陥れるための方策である。これも八百長の一種であると言ってよい。これを八百長と呼ぶことに長造は嘆くに違いないが、もはや「八百長」は長造の八百長とは別の意味で現在は使われている。

 ドングリの背比べのように教養の低い似たもの同士が集まって、真の意図を隠したまま未熟な理想論を展開すると現実との開きが大きくなり、理想とはかけ離れたまま議論は現実の結論へむかう。その結論は、はじめに唱えた正論とは似てもにつかぬものになってしまう。このような議論は議論ではなく、むしろ八百長と言ったほうがよい。そしてその結論の矛盾に気付きながら頬カブリする、逆に自分の意図が達せられないと知るや破壊的行動をとる卑怯者たちがうごめいているのが現実である。

「コップの中の嵐」「井の中の蛙」「ドングリの背比べ」「目糞鼻糞を嗤う」、みな似たような話である。そして世の中には「上には上」がある事に気付いていないのか、あるいは気付いていない振りをしている者がいる。「自己矛盾」これも教養、低い教養の現れと言うべきものであろう。

 高いつもりが  低い教養  低い人格でも  高望み

 深いつもりが  浅い絆  浅いふりして  深い欲

 厚いつもりが  薄い人情  薄いふりして  厚い面の皮

 強いつもりが  弱い根性  弱いふりして  強引な態度

 多いつもりが  少ない味方  少ないつもりが  多い無駄

おわり  July 1999