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          真夜中図書館・所蔵図書試用版 
         
           
         
         
         
         鳥になる日
         
           
         
         沙風吟 
         
           
         
         「もうそんなものいらないでしょ」 
         と、彼女は決めつけた。 
         「あたしたちは、鳥になるんだから」 
         
           
         
          その日の午後、僕たちは街で二番目に高いビルの屋上へ上がり、そのふちに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。 
          僕は彼女を好きでも嫌いでもなかったが、彼女に逆らったことはまだ無かった。そうするのはとても面倒だったからだ。だけど、そのせいで彼女は僕に対してだんだん傲慢な態度をとるようになっていた。駅でばったり出会った瞬間に、それが変わっていないことは判った。 
          十二月の空は宝石を目にあてて透かしたみたいに素晴らしくキレイで、確かにその中を飛び回るのは素敵かもしれなかった。泣きすぎて赤く腫れた目で、彼女はその空を長いこと睨むように見つめていた。 
          僕は後ろの柵に寄り掛かって、ヘッドホンステレオから聞こえてくるノイズに耳をすませた。カセットテープは彼女に会った駅の屑籠に捨てちゃったのだ。高いところにいるのに、どういうわけかラジオの電波はうまく入らなかった。 
          でも、両耳に押し込まれたちっぽけなスピーカーからずっとノイズだけが聞こえてくる、というのはなかなかにヘンな感じだった。すごく有能な通訳さんが、聞こえてくる言葉の全てをタイ語かインドネシア語に翻訳して僕に話してくれるのを、神妙な顔で聞いているような気分だ。 
          ざあああああああああ。 
         「飛ぶの」 
          もう何度目になるか判らない台詞を、僕の右隣で彼女が呟いた。 
          僕はノイズのボリュームを上げた。 
         「鳥になって、この広い大空を思いきり飛ぶんだ。それで、地上の人も車もみんなすごく小さく見えて、きっとすごくすごく気分がいいの」 
          青すぎる空を見つめたまま、彼女は早口でそんな事を云った。右手で後ろの柵をぎゅっと握りしめて。笑い顔で、けれどだんだん泣き声になっていくのが、なんだか演出がかっていて鬱陶しかった。 
          僕は決定的にシラケていたのだ。 
          もう少ししたら、彼女は僕と手をつないで、ここから飛ぶだろう。でも、その前におなかがすいたら気が変わって食事に行くかもしれない。 
          僕じゃない誰かに出会えば良かったのに。そうしたら、説得されて元気に家に帰ってテレビを見たりお風呂に入ったりしたかもしれないのに。 
          けれど彼女が出会ったのは僕だったし、僕はお気に入りのテープを捨ててしまったし、窓から屋上に出るのは簡単だったし、柵もあんまり高くなかったし、空は魅惑的な青に身を染めていた。冬にしては暖かなその午後、彼女はそこから飛ぶことだけを云い続けた。 
          僕は再びボリュームを上げた。 
          ざああああああああああああ。 
         
           
         
         つづく 
         
          
         
          
         
         
         
          
         
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