真夜中図書館・所蔵図書試用版


境界線上物語

II

空色の電車

 

いちげあいこ

 

「エンゲージリングをあげますよ、そら、ね、あすこの四つならんだ青い星ね」
「ええ」
「あの一番下の脚もとに小さな環が見えるでしょう、環状星雲ですよ。あの光の環ね、あれを受け取って下さい、僕のまごころです」

 

 夜の電車。
 それも都心から郊外へ向けて走る終電間際の私鉄の急行。
 澱んだ空気。酔客の吐くアルコールを含んだ空気。混んだ車内のドブネズミ色の背広たちから出る熱気。
 たくさんの人がこれだけの密度を作っているのに、静かだった。
 ただ、電車だけが規則正しい音を奏でていた。
 正面の窓には、自分と同じように無表情に並んでいる顔たちがある。
 彼は、大きく息を吐いた。そして、また一日が始まってしまう、と思う。家に帰って休む前だというのに。
 時折、咽び泣くような音をともないながら、隣の線路の電車がすれちがう。この時間、都心に向かう電車は空いている。その、一瞬で過ぎ去る閑散とした明るい窓をぼんやりと眺めながら、ふと、誰も自分のことを知らないところに行きたいと思った。誰も知らないところで、一からやり直したい。しかし、そんな勇気のないことは自分でもよくわかっている。今を惰性で過ごしていくのは楽なことだ。
 よほど疲れているのだろうか。吊り革に掴まりながら、視界が一瞬暗くなった。
 きつく眸を閉じ、脳味噌の奥に潜む羽虫を追い払うかのように小さく頭をふりながらゆっくりと眸を開く。
 目の前には、ガラスに映った三十前の疲れた男の顔があった。
 見慣れた顔だ。
 しかし何か違和感がある。
 どうしてだろうか。疑問がはっきりと言語になる前に電車がぐらりと揺れた。反射的に吊り革を握った右手に力をこめる。大きく体が動いた。肘が直角に曲がったまま、体が大きく宙を切る。
 倒れかけた体を支えるものは何もなかった。慌てて左の掌を大きく開いて正面のガラスにつく。
 彼は先刻の違和感の正体を悟った。
 車内には誰もいなかった。
― どうなって…。
 擦れた声で呟いて、あたりを見回し、ゆっくりと歩きはじめた。電車の進む方とは逆に、吊り革を一つずつ右手でたどりながら進んでいく。
 窓硝子に映った車内の行き先掲示の逆さまの電光板が、遠い場所を告げていた。
 窓の外遠くには電車と平行に走る高速道路のオレンジ色のライトが並んでいた。線路間際に建っている古い文化住宅のベランダの引き戸のすき間から、テレビのブラウン管のちらついた青白い光が覗いていた。
 そのとき、彼の進んでいる方の連結器のドアが開いた。
 彼は立ち止まった。
 現れたのは少女だった。
 夏の水色のセーラー服を着た、おさげ髪の少女。白い手首に黒の細い腕時計をしていた。
 不機嫌そうに肩にかけた鞄を持ち直し、彼とは視線を反らせて、彼の横を通り抜けようとしていた。
 彼は、思わず声をかけようとして、しかしそのまま喉の奥で声をとどめたまま、彼女を凝視していた。
 その視線に気づいたのか、少しだけ首をかしげ、少女は彼を見た。
 視線が交差する。
 彼女は一瞬後、悪戯っぽい目つきをし、唇の両側をあげ、微笑し、声を出すために口を開いた。
 途端。
 次の駅を告げる車内アナウンスが響き、彼女の口の動きだけが感知できた。
 彼は何と言ったのか問い返そうとした。
 それなのに満員の電車の中、彼女は紺色の背広の背中のむこうに消えた。
 ゆっくりと電車は停止する。扉が開き、彼は人の波にもまれ、プラットホームに押しやられる。彼は、その少女を見失うまいと目を凝らしたが…。
 嘔吐感。
 それは神経を不快にさせるだけで、彼を少しでも楽にさせようという行為に走らない。
 口の中は粘つき、脂汗がにじむ。
 降りた電車の向かい側で、彼が乗るべき普通電車が止まっていた。そのままその電車に乗り込み、空いた座席に腰をおろした。
 頭の中がぼんやりとしていた。
 先刻の少女はどうしただろう。
 何を言おうとしていたのだろう。

 

つづく



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