真夜中図書館・所蔵図書試用版
境界線上物語
I
闇の櫻
いちげあいこ
―
夢はもともといいかげんなもの…。だから、みんないーかげんなものに決まってるよ。
と、その娘は呟いた。
俺がその娘に会ったのは、とある十一月の末の日曜日の朝。阪急甲陽園の駅前で。紺のダッフルコートに、茶色の革靴、髪はおかっぱ。背はそんなに高くない。あまり目立たない、というか、気を付けて見てないと見逃してしまいそうな女のこ。ただ、異様なほど白い顔、細い手足。
その時俺は、ちょっと変わった娘やな、と思っただけ。
― すいません…。あの、切符の買い方教えてくれません?
そう言うと彼女は、少し照れくさそうに笑った。
― へ? 切符の買い方?
―
うん。なんせ電車に乗んのはじめてやから…。はは、ごめんね。
― はあ…、何処行きたいんや。
― え? 宝塚。
路線図を見上げる。宝塚まで…百六十円。
― ん、百六十円ここに入れて…、この百六十ってとこ押す。
― へえ。
彼女、細い指でボタンを押した。
― ジュースの自販機といっしょ、おもしろぉ。
絶句×××
何故にして、ジュースの買い方がわかって切符の買い方がわからんのやっ。
― ほんなら、ありがと。たすかった。
― いえいえ。
― さよなら。
― はあ…、さよなら…。あちゃーっ。
自動改札。彼女はへまをやったのか、チャイムがなり、前後をふさがれ立往生している。
そして、すがるように俺を見た。手には切符を持ってる。…まだ持ってる。
―
あのなー。ここに切符をお入れ下さいって書いてあるやろーが。
― へーっ、そーなん。
駅員がそのやりとりを見て笑っている。俺はポケットから定期を取り
し、彼女といっしょに駅の構内に入った。
― ほんま、ごめんね。
― 電車乗んのはじめて…。
― そう、はじめて。
彼女はうれしそうに言った。
― 宝塚の行き方、知っとるん?
―
知っとるって…、この電車乗ったら宝塚行くんとちがうの?
ホームに止まってる三両編成の電車を指さす。
― そりゃーまーそーやけど、他の電車に乗り換えたり…。
うー、こいつ、まったくわかっとらんな。
―
困ったなあ…。でも他の電車言うたかって、この電車しかあらへんやん。
な、なおさらわかっとらん。
―
この電車は単線で夙川で終点やから、そこで梅田行きに乗り換えて、次の西宮北口…。
不毛だ…。あまりにも不毛だ。
― 宝塚まで連れてったる。
すると彼女、なんかとってもびっくりしましたって顔をした。
― えーの?
― えーって、気にせんでえーって。
― でも、…そのかっこ…。
そのかっこ…。学生服。
― 学校行くんやないの?
あいたあ、今日はクラブに行くのに日曜日の朝っぱらから駅でのこのこしとったんや。
苦悩×××
でもこいつ、ほっといたらとんでもないとこ行きそーやしな。
― いいって、連れてったる。
男に二言はないのだ。
― ありがとう。
と、彼女は笑いながら言った。
プラットホームを少し走って電車に乗る。
数秒後、動きはじめる。
夙川で梅田行きに乗り換え、西宮北口で宝塚行きに乗り換えた時、ことの異常さに気付いた。
何が哀しくて、女のこを連れて電車に乗ってるんだろう。
はっきり言って俺は女のこが苦手である。女のこだけじゃない、他人が苦手…。何を考えてんのかわからんから。気のあう奴らはだいたい何を考えてんのかわかる。だから、はずみで頭の中を覗いたところで、俺はあまりダメージを受けない。けど、他人や女のこは…、「幻滅」の一語につきる場合が多い。
広義では、これをE・S・P・というらしい。でも、あんまりかっこのいいもんじゃない。世界の平和を守るために使うわけでもなく、うっとおしいだけ。せいぜい、人より優れた勘の良さでテストの山賭してみんなに教えてやるくらい…まあ、おかげで成績は学年トップだけども。
サイコキネシス…はは、ティッシュ・ペーパーしか持ち上がらんわい。透視…服ぐらいの厚さしか透けて見えんから、んなもん頻繁に使っとったら、俺はただの変態になってしまう。
― ねえ、名まえ、なんていうの?
彼女、突然思い出したように訊いてきた。
― 長尾。長尾瞭太。
― あたし、香月彩歌、十六才。
― へえ、高一? 高二? 俺、高二やけど…。
すると、少し淋しそうに笑って…。
― ほんとなら、高二やけど…、学校行ってない。
― は?
―
あたしね、小さい時から外に出たことないんよ。病院でずーっと生きてた…。
悪いこと訊いてしまったような…。
―
ああっと、気にせんといてよ。あたしはこれが普通やと思ってるから。
―
そんなら、今、外、出歩いてるってことは…、退院したんか。
―
してへんよ。今かってベッドの中で寝てるんよ。これ、夢の中やもん。
沈黙×××
ゆっくりと電車は止まって宝塚に着いた。俺は黙って席を立つ。
― ここでおりんの?
― あ、ああ。
プラットホームにおりる。
― ほんじゃ、俺、ここで帰るな。気ぃつけてな。
― うん、ありがと。
彩歌はポケットに手をつっこんで、
― はい、お礼。
と、ミルキィを五、六こ俺にわたした。
― 瞭太くん…だっけ? また会えるよーな気がするな。
そして、髪の毛かきあげて少し笑う。
― じゃ、さよなら。
右手を少しふってみる。
その娘は人ごみの中に消えた。
つづく
|