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          真夜中図書館・所蔵図書試用版 
         
         
         
          
         
         漂流する歌うたいのらせん 
         
           
         
         いちげあいこ
         
           
         
          歌音には、宝ものにしていることばがある。 
         ― 早原さんは、たんぽぽ、だな。 
          多分、言った本人はすっかり忘れてると思うが、歌音は忘れない。きっと、一生忘れない。 
          確かあの時、部室にいた野郎どもが、他の女性部員のことを評して「白百合のようだ」とか「すずらん、だよなあ」とかいうような、むさくるしい面子におよそ似つかわしくない会話を交わしていた。そんな中で、唯一の女性だった歌音は、「お前はさしずめ雑草だね」と言われ、「まあ、そうだよな。いつも男にまちがわれるしよ」と返した直後のこと。 
          夏樹が言ったのだ。 
         ― なら、早原さんは、たんぽぽ、だな。 
          一瞬、沈黙がその場をおおったのを、歌音は今でもはっきりと覚えている。そして夏樹は、驚きの表情で自分の方を見るみんなに、誤魔化すように、 
         ― 俺、たんぽぽ、って好きなんだよな。 
         と続け、再度沈黙を誘った。 
          夏樹は、ああいうことには信じられないほど疎いから、その直後の皆の、 
         ― へえ、そうかあ。芝草って、いい趣味してんな。 
         という嗤いに、きょと、っとしていた。 
          思えば、あのころの夏樹がいちばん好きだ。 
          いちばん、好きだ。 
          ふと、歌音はTシャツをたたむ手を止めた。やっぱり、このままじゃ、いけない。 
          アパートの共同ピンク電話用にマグカップに貯めた十円玉を持って、廊下に出、階段を下りる。 
          電話の前に立っても、まだ思案し続ける。このままじゃいけない。それはそれ。でも、何を話したらいいのか、わからない。 
          でも。 
          意を決してダイヤルをまわした。 
          しかし、耳にコールが繰り返されるだけだった。 
          たっぷり二十回聞いて、何故かよくわからない怒りに、歌音は、受話器を床に叩きつけたい衝動にかられて、でも思い止まって、大きく息を吐いた。 
          思えば出会ってから、今まで電話で夏樹をつかまえようとしたことなど一度もなかった。気がつけば、夏樹はいつでも歌音といっしょにいたのだ。しかし、学園祭以来ここ二週間ばかり、夏樹は変によそよそしくて、歌音にきついことを言ったりしていた。 
          夏樹は気紛れだし、我儘だ。だから、急に歌音のことを嫌いになったのかもしれない。 
          そう。その方が楽かもしれない。 
          でも。 
          溜め息をつくと、歌音は受話器を取って、投入口に十円玉をすべらせた。そしてダイヤルする。四、五回ベルのあと、可愛らしい声が出た。 
         ― あ、未紀?  
         「倉田です。ただ今留守にしておりますので、御用件のある方は……」 
          なんだ。留守か。 
          発信音が鳴って、一気に話す。 
         ―
         早原です。しばらく学校休むから、よろしく。また、連絡する。じゃあね。 
          次、また、十円を投入口にほり込んで、相手が出るのを待つ。 
         ― はい、羽山です。 
          その声の向うから、やわらかな弦楽器の音が、聞こえてくる。 
         ― 悠吾? あたしだ。 
         ― ああ、早原か。なに?  
         ― そっち、芝草行ってないよな。 
         ― 芝草? 来てねえけど。?  
         ― つかまんないんだけど。 
         ―
         珍しい。……ま、腹が減ったらお前のところに行くんじゃないか? 
          羽山悠吾はのんびりと言った。 
         ―
         で、あたしさ、明日からしばらく学校休んで、部屋も空けっから、もし、芝草に会ったら、そう、伝えといて。 
         ― 休む? なんで。 
          悠吾はステレオの音を切ったらしい。いきなり、しんとする。 
         ― いや、ちょっとね。 
         ― まさか、親父さんになんかあった、とか。 
         ― いや、なんにもない。 
         ― うそこけ。 
         ― なんでもないよ。 
         ― いーや、嘘はつくな。 
          強い口調で言い放たれる。歌音は思わず絶句した。 
         ― 親父さん、かなり悪いのか?  
         ― ……うん。 
          かすれた声で応えた。 
         ―
         そうか……。うん、わかった。芝草にはちゃんと伝えとくから。 
         ― ありがと。 
          思わず、目頭が熱くなってしまう。 
         ― 悠吾って、ほんといい奴だね。 
         ― なんだ、急に。誉めてもなにも出てこんよ。 
          歌音はそこで話題を切ろうとした。が、悠吾が続ける。 
         ― いつ出んの?  
         ― 明日の、朝いち。……中央線で帰る。 
         ―
         ふーん、そうか。ま、気をつけろよ。なんかあったら、すぐ連絡しろよ。 
         ― うん、ありがと。 
          今度はゆっくりと、受話器をおく。そして、メモ用紙に六号室の早原がしばらく部屋を留守にする旨を書くと、そのピンク電話のある玄関の下駄箱の上の掲示板に押しピンで留めた。 
          そして、築二十七年のみしみしいう木造アパートの階段をあがり、東角の自分の部屋にもどる。 
          さて、荷物だ。しばらくの着替えと、預金通帳と。 
          歌音は自分の部屋の中を見まわした。二十歳の女子大生が住んでいるにしてはあまりにも閑散とした部屋。家具らしい家具はパイプベッドと本棚、あと小さなステレオ。テレビはないし、箪笥もなし。そもそも入れておくような服もほとんどなし。けれども本と楽譜とCDとテープ。それだけは腐るほどある。 
          歌音はテープのレーベルを探った。その中から一本取り出す。今年、三年の時の春の定例演奏会のもの。悠吾のピアノはドヴュッシー。未紀がヴァイオリン、歌音がチェロで参加した弦楽奏は、パッフェルベルのカノン。そして、夏樹のティンパニー。 
          本棚も捜す。「小説水晶界」と表紙にある雑誌を二冊。 
          それから。 
         ― 早原さんは、たんぽぽ、だよな。 
          そのことばと、それから。 
         
         つづく 
         
         
         
          
         
         
         
         
           
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