真夜中図書館・所蔵図書試用版
緑の雪
grune Schnee
阪神V-MAX
一九六二年、八月。
サンパウロ、マラカナン・スタジアム。
その瞬間、二十万の視線が彼の体を貫いた。
大観衆の巻き起こす圧倒的な雄叫びが、地鳴りのようなサンバに代わって巨大なスタジアムを轟かす。
大歓声は反響し合い、重なり合い、熱狂のうねりとなって、黄色と緑のブラジル国旗で埋め尽くされた場内を呑み込んでゆく。
ここは、灼熱した太陽の照りつける、鮮やかな芝のフィールドの上。カメリア・イエローの地元ブラジルと、白地に黒、黄、赤のラインを配したユニフォームの西ドイツが、大詰めを迎えたワールドカップ決勝戦を、渾然としながら戦っているのだ。
スコアはブラジルが一点をリード。しかし、残り時間もほとんどなくなったこの時間帯で、両チーム共にフィールド中央での混戦状態から抜け出せず、最後のボールの支配権を争って死力を叩き付け合っていた。
選手が入り乱れ、自由にパスを回す事ができない。
ゴール前にボールを上げても、精度が低いため簡単に相手に弾き返されてしまう。
双方とも抜群の個人技を持つ選手を擁し、また、彼らを束ねる組織力が完璧に機能を発揮した結果、相手の攻撃が本格化する前に全てを潰し合ってしまう。おそらく、スポーツ祭典の最高峰であろうワールドカップだが、この決勝戦は近年希に見る高レベルのチーム同士の対戦となったため、最終的にフィールドプレイヤーの全員が中盤に集中する大混戦を形成していた。
もし、両チームの特徴をあえて強調するとすれば、個人個人の技術がチームを引っ張るブラジルに対し、西ドイツは組織力の高さを挙げる事ができるだろう。そして、体力、精神力の疲労がピークに達するこの最終局面において、ほんの僅か、組織に裏付けられた個人技の高さ、そして強靭な精神のもたらす集中力が、西ドイツに好機を与える事となる。
一瞬の出来事だった。
円熟期の天才ストライカー、ペレへのパスを、小柄な西ドイツ選手がスライディングでインターセプトした。それは後半に入って何度となく繰り返されてきた光景だったが、直後のこの小柄な選手の行動は意表を突いた。彼は、立ち上がり様パスコースの確認もせずに、相手ゴール前へと強烈なボールを蹴り込んだのだ。それは、急激な攻守の切り替えを選手達に強制し、ボールは立ち往生する彼らを嘲笑うように、僅かな隙間を縫いながら、生き物のように見えないルート上を正確にトレースしていく。
この突然のボールに反応した者がいた。一人の西ドイツのフォワードが、黄金色の髪を激しく振り乱した長身の選手だけが、この見えないルートを完全に見極め、最短距離を駆けていたのだ。
大歓声が、一瞬で悲鳴に取って代わる。
事態の急展開に出遅れたカメリア・イエローの選手達が、自分達を縛る慣性の力を引き千切るようにして、体を反転させてゆく。しかし、彼らの視線の先を独走する大柄な選手の背中は、絶望的に遠かった。
「勝負だハインリッヒ!」
誰かの叫びが、彼に向かって辺りを切り裂く。
ボールはもう目の前にあった。
チームを同点に追いつかせる、最後のチャンスとして。
つづく
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