真夜中図書館・所蔵図書試用版


ひじり

 

折笠由利子

 

 そもそも私が天城の峠を歩いて越えようと思ったのは、湯ケ島に来ていた母の具合が、本人の言う程悪くもないどころか健康そのものだったという拍子抜けの反動だったのかも知れない。

 

 峠一つ向こうの湯ケ野まで来れば私の婚家の旅館があるというのに、母は一歩手前で待ち仮病まで使って、娘の方からも赴いて欲しかったのだろうか。私が母の伏すという宿に着いてみると、母は二階の部屋の窓を開け手摺りから身を乗り出すようにして、快活そのものの笑顔を湛えて手を振った。母も相変わらずだと、私は肩を落として頬を緩めた。
「女が一人で峠越えかい。お前も勇ましいもんだね」
 五十路に近くなってもなお名妓として知られる母は、娘にも馴染みの粋な調子で言いながら、翌朝私が旅館を立つ前、不器用にもお握りを作ってくれた。
「峠一つ越えるだけじゃないの。観光スポットだから誰でも歩けるわよ」
 私は笑いながら母のそばで、お握りが出来上がっていくのを眺める。旅館で用意させた櫃の米はぽっぽと湯気を上げ、母の小さな手の中でぎこちなく弾んではまあるい形に集められておとなしく落ち着く。艶やかに輝いていた。

 

 私は父が誰であるかを知らない。
 母の許へ会いに来ていた男たちの中の誰かが父に違いはないのだろうけれども、これが父かも知れない、そんな幻想やインスピレイションを与えてくれる男は一人もいなかった。母は、彼らを全て平等に深く愛した。彼らも皆同じくらいの情熱を母に投げ尽くした。
 また彼らは皆同じように私を可愛がってくれた。わが家に彼らが集まる時はよく、私はその広い部屋に酒や料理を運んで入る。初潮も見ぬ子供の頃は、よく男たちが代わる代わる私を膝に抱き、酔いで赤く染まった鼻を私の頬に擦りつけては悦に入っていた。母はその輪の中で、茹でたての卵のように艶のいい頬をほんのり染めてころころとよく笑った。
「鈴は将来きっと、お佳乃にも勝る名妓になるぞ」
「あらいやだ。この子はね、ちゃあんと堅気の、ちゃあんとした奥様に収まらせるのさ」
 十代も半ばを過ぎた娘になると、男たちはやはり皆同じように私を惚れ惚れと眺めた。おさげをやめて柔らかく肩を覆う髪のかたち、スカートの膝を気にしながら畳みに座る仕草、少し低く湿り気を帯びた声、丸く柔らかくなった顔や体の肉付きなど。遠方に住んでいて何年かに一度しか来られない数人の男は、そういった私の成長をいちいち言葉に出して確認した。その頃になるともう、私は膝に抱かれることもなくなった。
 もしかしたら、彼らの誰もが自分こそこの娘の父だと思っているのかも知れない。母をめぐって争うこともなかったのは、母との間に情熱の結晶までが生まれているのは自分だけだという優越感を、皆それぞれが持っていたからなのだろうか。私は成長において、彼らの全てから何らかの形で扶養を受けていた。母もまた彼ら全ての恋人であり妻であり愛人であった。

 

 八丁池を見たいと言って母は、一緒に降りたバス停で私と別れた。私たちはお互いの姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
 緑も鮮やかな夏の初めの風景の中、母の柔らかい白い手がくっきりと映えている。二の腕を見せぬよう、袖口を軽く押さえながら手を振る様子のしとやかさには、商売柄長い間に身についてしまった芸妓特有のものが現れていた。そういったものや日本の女が伝統的に守ってきたしきたりのようなものをのぞくと、母は童女のまま熟してしまったかのような女であり、時折私と母と、どちらが娘だか分からなくなる時もあった。
 母の姿が見えなくなったのを確認すると、私は姿勢を立て直して真っすぐと前方に体を向けた。
 涼しげな上り坂が始まる頃、私は裸足になった。

 

つづく



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