白雪姫

 

沙風吟

 

 

 若い王子の結婚式に招待された時、花嫁があの娘であることは判っていた。
 雪のように白い頬の、血のように赤い唇の、黒檀のように黒い髪の、あの娘。
 嘘をつかない鏡の前で、妃はこの世でたった一人、自分よりも美しい女の事を思った。
 まだあどけない少女なのに。
 どうしても殺すことができなかった。
 それが彼女の力なのだ。生き延びる事。そうして至極の美を持ち続ける事。妃が彼女を殺そうとする事でしか自分を保てなかったように。娘もまた、戦ってきたのだ。
 幼い姫は勝利した。
 狩人に殺させようとした時、娘はその愛らしさでいともあっさり生き延びた。
 森の獣に食われようという時に、娘は守り手である小人たちを見つけた。
 紐で絞めても死ななかった。櫛で刺しても死ななかった。毒のりんごで一度は死んだのに、娘は生き返ったのだ。運命にさえ働きかける、生命への意思の力で。
「鏡よ鏡、壁の鏡」
 妃は呟いた。もう何千回も高らかに唱え上げた文句。そして、鏡に映る自分の顔は憂いを孕んで尚美しいのに。黒い瞳の深い色は、夜の全てが練り込められているかのようなのに。
「この世で一番美しいのは、誰?」
 鏡は決して嘘をつかないのだ。
「妃。あなたは美しい。けれど王子の花嫁は、あなたよりも美しい」
 世界で二番目に美しい女は、目を閉じて一度だけ溜め息をつく。
「そう」
「……行くのですか」
 鏡だけが、妃の覚悟を知っていた。彼女は答えずに、ドレスの裾を翻した。
「妃。けれど私はあなたが好きです。あなたは美しい。それだけではいけないのですか」
 ドアに手をかけながら、女は可愛らしく笑った。
「愚問だよ」

 

 広間へ入ってゆくと、人々の中心に立っているのは、確かにあの白雪姫だった。
 ゆっくりと、彼女の前に進む。ざわめきが止み、人々が道を開ける。花嫁の隣でこちらを睨み付けているの王子は、まだほんの少年だ。
 白い衣装の娘を見つめて、妃は、立ち尽くした。
 最後に訪ねた時よりも、遙かに綺麗になっている。
 雪の白。血の赤。黒檀の黒。それは、美と若さの結晶だった。月の神秘を持ちながら、太陽のように輝いていた。
「おめでとう」
 妃は微笑んで云った。
 娘は凍りついたような表情で、静かに妃を見返した。
 真っ赤に焼けた鉄の靴が運ばれ、妃の前に恭しく置かれた。

 

「私の踊りが見たいのか」
 妃は胸を張って問うた。
「願わくば」
 王子は愛しい花嫁を抱き寄せ、敵を真っ直ぐに見据えて答えた。
 拷問具と妃の周りをいつの間にか逞しい男たちが取り囲んでいたが、妃の眼差しに魅せられたように、誰一人近づこうとはしなかった。
 妃は靴を見た。真っ赤に焼けた鉄は、火と同じ色になる。重い鈍さを降り捨て、透けるような緋となって、光る。
 好ましい、と妃は思った。娘の赤が血の色なら、私は炎の色を纏おう。
 小さな足を、熔けださんばかりの鉄の靴に押し入れる。肉の焼ける音が鳴る。人々の中から悲鳴が上がる。
 白雪姫が、じっと妃を見つめている。
 妃は踊り出した。
 踵が床を蹴る度に、無数の火花が弾けて舞った。爪先が宙を斬る度に、緋色が空気に流れて揺れた。赤いドレスが炎に変わった。それでも妃は踊り続けた。
 優雅でありながら、激しく、華やかに。燃え盛る焔そのものであるかのように。
 妃の瞳には夜の黒があった。その中に、星の白があった。
 全身を火に包まれながら、妃は、笑っていた。

 

 その時、誰もいない妃の化粧部屋で、鏡が震え出した。その鏡面全部に炎の色を映し出し、鏡は絶叫した。
「ああ、妃、今こそあなたは世界で一番美しい!!」
 そして、粉々に砕けて床に散った。

 

 その声は妃と白雪姫の元に確かに届いた。痺れたように妃の踊りを凝視していた姫は、にわかにふらふらと舞う炎の方へと進み始めた。留めようとする王子を振り払って、白雪姫は一人、今や炎の塊と化した妃の前に立った。
「美しいか、白雪!!」
 炎が叫んだ。
「私は、美しいか!!」
 その声は喜びに満ちていた。最後の最後に訪れた勝利に、妃は心から満足していた。
「はい……はい、お母様」
 娘の両の目から涙がすうっと流れて落ちた。
「美しゅうございます……!!」
 そして、花嫁は両手を差し出した。炎を抱きしめようとするかのように、白い手を踊る女に向けた。王子が叫び声を上げた。
 或いはそれは、嫉妬の心だったのかもしれない。至高の座から退かされた者の気持ちを初めて知った少女の、抗いの証だったのかもしれない。生命を燃やす力に負けたのなら、自分もこの身体を紅蓮の炎で焼けば、再び美の最高峰へ上り詰めることができる。白雪姫はそう考えたのかもしれない。それは誰にも判らない。
 けれど、少女が妃に触れる前に、踊りは終わった。
「私に触れたら、雪が解けてしまうよ」
 にやりと笑いながら妃がそう囁いて止まると、全ての炎が、弾けるようにして一瞬に消えた。
 世界で一番美しかった姫が初めて己の死を望んだ時、それは叶わなかった。
 焼け焦げた床に立った女は、目の前に跪いた少女を見下ろし、慈愛とも嘲りともつかぬ笑みを浮かべると、崩れて死んだ。

 

(おわり)

 


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