みにくいあひるの子

 

沙風吟

 

 

 孵った時のことは覚えていない。
 最初の記憶は、自分をまじまじと見つめる母鳥の丸い瞳と、まわりに群がる黄色くて小さな兄弟たちの声だ。
 おい、なんだありゃ。
 見ろよあいつ。
 でかくてぶかっこうで、おまけにきたない灰色だぜ。
 そうなのか、それが己(おれ)か、と彼は考えた。

 

 最初から兄弟たちには馴染めなかった。彼らが水辺で慣れない泳ぎにはしゃぐ様を、彼は距離をおいて眺めた。水に入るのは好きになれなかった。
「おまえはあひるなのだから、泳ぎができなくてはならないよ」
 母鳥がため息をつきながらそう云う時だけ、彼はしぶしぶ池に入った。彼の灰色の羽毛は兄弟たちのように水を弾いてはくれなかった。無様に水中に広がり、陸に上がれば肌にまとわりついた。
 水辺に住む他のあひる達は皆、彼をあざ笑い、馬鹿にした。彼の出来損ないのくちばしをつつき、水かきの不十分な足を踏みつけた。彼が羽をばさばさやることが出来ないと判ると、回りを取り囲んで風を起こし、砂ぼこりをたてていじめるのだった。
 母鳥だけは彼の味方だったが、彼女にできることはそう多くはなかった。

「あの子は、生まれてこない方が良かったんだろうか。あんなに惨めな姿で孵るよりは、卵のままでいた方が良かったんだろうか」
 丸い月の晩だった。寝静まった鳥たちの中で、母鳥はそう呟いた。
 あひるの子は目を開いていた。
 そうは思わない、と彼は考えた。こんな灰色の身体だが、己は己を嫌いではない。けれど。
 音もなく彼は立ち上がった。月明かりが作る影が眠る兄弟たちの上にかかり、孵った頃よりも彼が遙かに大きくなっていることに、母鳥は気づいた。
「さよなら」
 振り向かずに、あひるの子は短い言葉だけを残した。母鳥は動かなかった。

 

 最初の夜は沼で過ごした。
 朝になると二羽のがんがやってきて、あひるの子をじろじろと眺めた。二羽とも最近孵ったばかりのようで、世界が珍しくてたまらない様子だった。
「よう、そこの出来損ないのあんた」
 片方があひるの子に声をかけた。あひるの子は思わずため息をついた。やはり誰が見ても、自分の見てくれは良くないらしい。
「俺たちと来るかい? あっちにがんの集まりがあるんだ」
「ありがとう」
 あひるの子は丁寧に答えた。
「だけど、遠慮しておくよ。己はあんた達に馴染めないだろう」
「そうだろうな」
 二羽のがんは揃って肩をすくめ、飛び立ったかと思うと、空中でもんどりうって、湿った地面に身体を打ちつけた。続けざまに銃声が二つ響き、飛び散った血の臭いが沼地に広がった。
 なにが起きたか判らないまま、あひるの子は身を翻していた。姿勢を低くして、疾風のように草むらを走った。
 あひるの子を狙った弾丸が幾つも宙を穿ったが、どれも彼の灰色の身体には届かなかった。

 

 何日か旅をした後でたどり着いたのは、打ち捨てられた百姓家だった。
 年老いためんどりと陰気な猫が先に住み着いていた。彼らはあひるの子を強い雨の降る外へ追い出そうとはしなかったが、歓迎もしなかった。
「おまえはたまごを生めるかね?」
 めんどりは立場の上下を常にはっきりさせておかないと気が済まない生き物だった。彼女の問いに、できないと彼が答えると、それだけで自分の優位を決めつけた。
「喉をごろごろ鳴らすこともできないんだって? よろしい、あたしも猫さんもお前より偉いんだから、身の程をわきまえて、あたしたちの云うことをよくきくことだね」
 あひるの子は、それも一理あると考えたので特に逆らわなかった。たまごを生むのは確かに優れた能力だし、喉を鳴らすことだってそうかもしれない。
 もっとも、梁の上からじっと彼を見つめていた猫は、決して喉を鳴らしてみせたりはしなかったのだが。
 湿った柱が夜通し軋むような、今にも崩れそうな小屋だったが、それでも落ちつく場所ができたと思えば有り難かった。幾日も経たないうちに、出ていってくれ、とめんどりに云われるまでは。
「理由を聞かせてはくれないか」
 努めて穏やかな口調であひるの子は訊いた。
「猫さんがさ、気に入らないんだよ、お前を。生理的に受け付けないんだとさ。お前は鳥にしちゃあずいぶん不格好だからね」
 石のような瞳で自分を見る猫にちらりと目をやって、あひるの子は小さく息を吐いた。
「わかった。己は出ていこう。世話になった」

 

 秋が過ぎ、冷たい風が吹きはじめても、彼のまわりに仲間と呼べるような生き物はいなかった。あひるの子は独りで湖のほとりに住み、虫や魚を取って暮らした。
 やがて太陽は日ごとにその明るさと熱を失ってゆき、灰色の空の下で湖が凍り出した。これは世界の終わりだろうか、とあひるの子は考えた。初めて迎える冬は、全ての生き物を拒絶しているようだった。食べ物にまったくありつけない日が続いた。どこへも行くあてがないので、彼は岸辺の灯心草のしげみにじっと身を潜め、生命を奪うなにかをやり過ごそうとした。
 言葉もなく、慰めもなかった。ましなものなどなにひとつなかった。
 けれど絶望はしなかった。

 

 何かを感じて眠りから覚めた。顔に当たる柔らかいもの……それは日差しだった。確かに、昨日よりも暖かい。
 しげみに座り込んだまま、彼は呼吸した。空気が緩んでいる。何かが変わった。そう、木々は新しい芽をふき、ひばりが高く鳴き、湖の氷が解けはじめている。世界は息を吹き返したのだ。
 そして、己もまた生きている。
 あひるの子は立ち上がった。幾分ふらつくものの、十分しゃんと立てる。それどころか、新しい力が湧いてくるように思えるのだった。
 そろそろと歩きだし、小走りになり、それから本気で走った。前よりもずっと迅く、ずっと力強く走れる。林を抜けて、小川を飛び越え、湖の反対側のほとりまで走った。こちらがわの氷はすっかり解けてしまっている。嬉しくなって思わずきらきら光る水面に飛び込んだ。大きな飛沫が立った。
 それから、その美しいものに気づいた。
 白い、雅びやかな鳥が二羽、しっとりと青い水に浮かんでいた。上品な薄い黄色のくちばしを彼に向けて、黒い丸い眼で、あひるの子を見つめていた。
 あひるの子は、白鳥のあまりの美しさと、己の姿を見られている気恥ずかしさで水中に潜りたくなった。けれど、胸を張った。あの鳥たちは掛け値なく美しいが、しかし己が恥じ入ることはないのだと思った。今日まで生き抜いたのは頭を垂れる為ではないのだ。
 すっ−−と、白鳥の一羽があひるの子の方に泳いで来た。すぐにもう一羽が後を追う。純白の羽をふんわりとふくらませた優雅な姿に見とれたが、あひるの子は少しも怯んではいなかった。
「さあ、私を食べて」
 寄ってきた白鳥は、震える声で、けれどうっとりとそう云った。
「へ?」
 彼は呆気にとられた。後からやってきた方の雄の白鳥が彼の前に回り込んだ。
「食べるなら僕にしてくれ」
「……なんだって?」
「あなたがあんまり見事なので、彼女は参っちまったのさ。逃げるのも忘れて寄って行く始末だ。だけど僕は彼女を死なせたくない。求婚してるんだ。僕を食べていいから、彼女のことは見逃してはくれないか」
 雄の白鳥は堂々と語った。あひるの子はすっかり困惑して、幾度も瞬いた。
「待ってくれ、己の何が見事なんだ。どうして己があんたらを食う?」
 白鳥は目を大きく見開いてあひるの子を見つめ、それから長く細い首を何度も振った。
「あなたは、自分の姿を見たことがないのか?」
 あひるの子は白鳥たちと同じくらい丸く目を見開いて彼らを見つめ、それから水面に視線を落とした。そこに映る自分の顔を見た。
 そして知った。
 彼はあひるの子ではなかった。
 くちばしも水掻きも翼も、最初からありはしなかったのだ。灰色だった体毛はすっかり黒い毛に生え変わっている。水中でゆらめいているのはふさふさした大きな尻尾だ。
 しなやかで引き締まった、彼は漆黒の狼だった。

 

 森の奥を歩いていると、大きな樹のうろから、赤みがかった毛皮の若い狼の娘が現れて、彼を呼んだ。
「見ない顔だね。新入りかい?」
 彼は頼りなさげに娘の狼を見た。自分と同じ種類の動物だと認識した。
「判らない」
「なんだい、そりゃ?」
 娘は無遠慮に彼に寄ってきて、彼の毛皮に鼻面を寄せた。
「……あんたには、己は何に見える?」
「とびきり綺麗な黒い狼の雄に見えるよ」
 精悍な若い狼の首筋の匂いを嗅ぎながら、娘は思った通りを口にした。彼は肩を竦めた。
「己は今朝まで自分はあひるだと思っていた」
 雌狼は笑った。
「なんだってそんな馬鹿なことを考えたのさ」
「己はあひるに育てられた。あひるとして生きているつもりだった。今日になるまで誰にも狼だなんて云われなかった」
 娘はまじまじと彼を見つめた。全身を眺め回し、それから彼の瞳を覗き込んだ。軽く息を吸い、厳かに云った。
「あんたは狼だよ。間違いなくね」
「だが、」
 若い雄狼は呟いた。表情が陰る。
「狼としての生き方を知らない」
 そしてもはやあひるとしても生きては行けない。孵る雛たちの中に自分がどうやって紛れ込んだのか判らないが、ろくなことではなかった、と思う。
「いいさ。あたしが教える」
 雌狼は低く、きっぱりと云った。
「獲物の捕まえ方を。肉の引き裂き方を。森で生きていく術を。あたしが全部教えてやる。すぐに慣れるよ。心配いらないさ」
 尖った歯を見せて、彼女は笑ってみせた。
 雄狼は動揺した。今までに味わったことの無い気持ちだった。母鳥に庇護されていた時とはまた違う、嬉しいような、泣き出したいような奇妙な感情が、彼の黒い毛皮の中いっぱいに湧きだしていた。
 仲間ができたのだ。
「……ちょっと、なんて顔してんのさ」
「すまん。どんな顔をしたらいいのか判らんのだ」
 まず笑い方を覚えなくては、と狼は思った。大丈夫、きっとそんなには時間はかからない。
 暖かな風に尻尾を軽く泳がせて、二頭の狼は森の中へと足を向ける。
 春の日差しを抱く黒い森。狼の黒い身体は溶け込むようにしてそこに馴染んでゆくのだ。

 

(おわり)

 


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