アリキリ

 

沙風吟

 

「ねえ、今年の冬で世界は終わるって噂、知ってる?」

 

 雨はもうすっかりあがっていた。菱形の葉の先に残る丸い水滴に入り込んだ陽光が屈折し、時折矢のように目を射る。僕は目を細め、それからもう一度、目の前の少女を見た。
 大きな瞳を真っ直ぐにこちらに向け、微笑んでくる。魅力的に笑ってみせる方法を知っているのだろう。僕は彼女に判らないように、少しだけ身体を離した。
「聞いたことはあるけど」
 ぶっきらぼうに云う。
「それ以上じゃない」
「なあに、それ?」
 彼女は少女らしい高い声で笑い、指先で手元の葉を強く弾いた。水滴が細かく割れて僕の顔に飛び散り、僕は苦々しい表情を作ろうと努めた。
「僕等は、そういう馬鹿げた迷信に動揺したりしない。訓練されてるから」
 冷たく云い放てただろうか?
 少女は、僕の目をじっと見つめた。口許に微笑みを浮かべていたが、いわゆる皮肉な笑いではなさそうなので気にしない。
「あなた、あたしを馬鹿だと思ってるんでしょう」
 僕は目を逸らし、肩をすくめる。遊び歩く事しか考えない娘に答える必要は無いだろう。少女は身を乗り出して、更に僕の顔を見つめた。
「じゃあ、頭のいいあなたに質問。もしもよ。それが馬鹿げた迷信でなく、本当の事だとしたら……疑いようの無い真実だとしたら、あなた達はどうなるの?」
 からかっている口調などではなかった。正当な質問には、真面目に答える義務がある。
 僕は考えた。
「恐らく……勿論それは馬鹿馬鹿しい仮定だけど……最も良い行動を取れるように考えるだろう」
「最も良い行動? 冬になったら皆死ぬのに?」
「最終的には誰もが死ぬ。遅いか早いかの違いだ」
 云いながら僕は顔をしかめた。我ながら陳腐な一般論だ。
 何の前触れも無く(しかし自然な動作で)少女はそよいで来る風にふわりと乗るようにして、舞い始めた。くるくると見事な肢体を露に、二、三度回ってから僕の胸にどん、とぶつかる。僕はよろけないように、彼女を抱き止めなくてはならなかった。
「あなたたちは最良の行動を取っていないの?」
 云いながら両腕を上げ、後ろ向きに僕の首に手をかける。柔らかく弾力のある腰と背中を、僕の腹に押しつけて。それから彼女は顔を空へ向けて、上目遣いで逆さに僕を見て、笑った。
「取っているさ。我々は常に最良の行動を取る」
「冬に備えて。こつこつと食べ物を溜めて。生き残る為に」
 歌うように彼女は云う。今度は確かに嘲笑的意味合いが込められているようだ。
「何がおかしい」
「あなた方は、永遠にやって来ない春の日の下でまた働く為に、働いているのよ」
 僕はむっとした。乱暴に彼女の身体を引き離す。
「迷信だ。我々を妬む君たちの悪ふざけだ」
「妬む?」
 彼女はくすくす笑う。僕は顔が熱くなるのを感じた。
「そうさ!」
「いいえ、妬んでいるのはあなたの方。あたしたちは自由で、気ままで、幸せだもの」
「……どうせ冬までの命じゃないか!」
 彼女を睨み付ける。これは彼女にとって最も痛手になるであろう言葉だ。日々を誤魔化しながら生きている奴らに、真実を突きつける事。
 けれど彼女は怒らなかった。泣き出しもしなかった。聞かないふりも、わめきも、媚びもしなかった。
 少女は僕にそっと接吻し、それから、「判ってるわ」と囁いた。

 

 水色の小さな花が、そのささやかな花びらを開く。慎ましやかに、気付かない程ゆっくりと。瑞々しい輝き。夏の太陽はその薄く柔らかいヴェールを透し、ほんの小さな水色の影を映すのだ。
 それを教えてくれたのは彼女だった。
「たとえこの冬に世界が滅びる事を知っても、あなた方は働くでしょう。私たちは踊りを覚え、歌を作る」
 僕は頷いた。
「来年の春が来ようと来るまいと、私たちは泣き叫びながら死んで、土に還る」

 

 急に背筋がぞっとして、僕は彼女を見つめた。彼女は静かに微笑んでいた。
「……怖くないの?」と僕は訊いた。
「最終的には誰もが死ぬわ。遅いか早いかの違いよ」
 そう云って、彼女はくすっと笑った。僕は笑えなかった。
 僕は、彼女をぎゅっと抱きしめた。んん、とくぐもった声が僕の胸の所から聞こえ、彼女の唇からもれる息づかいが、僕の躰を熱くさせた。
「……ゴメン」と僕は云った。

 

「僕は、君たちをずっと馬鹿にしていた」
 知ってる、と僕の膝の上で彼女は云った。
「何も知らない愚かな連中だと思ってた。ただ騒ぐだけしか脳が無い奴らだって」
 彼女は上を向いたまま目を瞑った。膝枕をしてあげるのなんて生まれて初めてだから、どうしていいのか判らない。僕はなるべく身動きしないよう、身を固くしていた。
「間違ってた。君たちには美意識も思想もある」
「不安もね」
「ああ」
 僕は彼女の頭の下に手を添え、上体をかがめて、柔らかな唇にそっと接吻した。
「ねえ、世界が本当に壊れるとしても、本質的に我々は変われないのかな?」
 僕の問いに、彼女は笑顔で答えた。
「問題をややこしくするのは悪い癖だよ?」
 少し考えてから、僕は云った。
「もし今年で世界が滅びたら、その前に君を探しに行ってもいい?」
 少女は僕の膝から身を起こし、地面に座り込んだままで僕に抱きついた。
「寒さなんて知らないくせに」
 僕の耳に口を付け、そう囁いてから彼女は泣きだした。
「どうしたの?」
「感動してるのよ、馬鹿ね」
 僕等は互いの身体を強く抱き締め合った。君だって冬は知らないじゃないか、と僕は云い、そうね、と彼女はすすり泣きながら笑った。

 

 葉の上の水滴はもうほとんど残っていなかった。最後のそれが蒸発して、空に還る。
 僕は目を細め、それから微笑んで彼女と手を繋いだ。

 

(おわり)

 


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