赤ずきん

 

沙風吟

 

 

 森に朝日が射した時、狼は花を摘んでいた。

 

 黒い森のそばの村に、清らかな少女が住んでいた。聡明で心の優しい彼女を愛さぬ者はなかった。少女はいつも赤いビロードの頭巾をかぶっていたので、赤ずきんと呼ばれていた。
 その朝、少女は母に、森に住む祖母の所へケーキとワインを持って行くように云われ、笑顔で頷いた。森を通るお使いは楽しかったし、祖母の喜ぶ顔を見るのも好きだった。
 バスケットにケーキとワインを入れて、昼前に彼女は出発した。森へ入った途端、狼が現れた。黒く大きな狼は、両腕にいっぱいの花を抱えていた。
「こんにちは、赤ずきん」
 狼は低く云った。
「こんにちは、狼。すごくきれいな花ね」
 少女は答えた。
 狼が森や野原で摘んだ色とりどりの花は、日の光を浴びてきらきらと輝いた。狼はそれをそっと少女に渡した。少女の手は狼のそれよりも小さかったので、幾つかの花がこぼれ落ち、花びらがバスケットの中に紛れた。
「あんたにやる」
 狼は云った。そして、花に飾られた少女の顔をじっと見つめた。
 柔らかな髪。長い睫毛。大きな瞳。形のよい鼻。薄桃色の唇と、陽光を弾く白い頬。
「ありがとう」
 少女は微笑んだ。
 狼は無骨なたちだったので、何を云ってよいのか判らなかった。それで、くるりと背を向けて、森の中へと駆け去った。狼は今日中に少女を食べるつもりだった。
 初めて見た時、全身が硬直した。何が起きたのか理解できなかった。それまで彼にとって食料でしかなかった人間の中に、あのように胸を高鳴らせ、息を苦しくさせるものがいたなんて。
 少女は美しく、可憐で、愛らしかった。森の中から見ているだけで幸せだった。いや、見ずにはいられなくなった。やがて、見ているだけでは堪らなくなった。狼は生まれて初めて悩んだ。
 幾つもの夜を考えて考え抜いて、狼は決意した。食う。彼女を食うのだ。他の動物を食べるのが自分の生き方であるのだから、それ以外に方法は無いと思った。何より彼の肉体とその魂がそれを欲していた。ひどく飢えている時に狂おしいほどの焦燥感と奇妙な落ち着きが同居する、あの感覚がもう何日も狼を支配していた。
 森の中を、風よりも迅く狼は走った。少女に道草をくわせる必要は無かった。あっと云う間に老婆の住む小さな家に着く。
 狼はドアに手をかけた。
「だれだい」
 家の中からしわがれた声が問うた。
「狼だ」
 狼は大声で答えた。
「お入り」
 狼がドアを開けると、老婆は寝台の中から静かな目で狼を見やった。この年老いた女性は聡明なひとだったので、いずれこのような日が来るだろうことを知っていた。
「俺は赤ずきんを喰う。年寄りは喰っても不味いから、逃げたければ逃げろ」
 狼は実直な性格だった。老婆は僅かに首を振った。
「わたしは弱っているから、一人では森の外へは行かれない。それに、赤ずきんを待つのをやめる気もないんだよ。かまわないから、わたしからお食べ」
 狼は頷いて、大股で寝台のところへ行くと、老婆を食べた。それから、はぎ取った老婆の寝巻を着込み、ナイトキャップをかぶった。彼の体躯は老婆よりも遙かに大きかったので、脚の半分は着物からはみ出てしまったし、ボタンは一つもしまらなかった。
「滑稽なことだ」
 狼は自嘲的に呟いた。
「間が抜け過ぎて卑劣にもならぬ。所詮は獣の浅知恵よ」
 けれど、狼がそれを脱ぎ捨てる前に、道を真っ直ぐやって来た赤ずきんが老婆の家に着いた。何も知らずに少女は半開きになっていたドアを開き、白い寝巻を身体に巻き付けた黒い生き物を見た。
「……おばあちゃん?」
「おばあちゃんじゃねえ!!」
 怒鳴りながら、狼は着物を引き裂いて放った。ナイトキャップが宙に飛び、戸棚の上に落ちた。
 少女は立ち尽くし、きょとんと狼を見つめた。その視線から僅かに目を逸らして、狼は大声で喋り始めた。
「あんたを喰う。あんたが好きだ。ずっと前から。だから、喰いたい。俺は狼だ。いろんな獲物を喰う。兎も鳥も人も喰った。そうすると身体が動くし、そうしないと死ぬからだ。だけど、あんたのことは、好きだから喰いたいんだと思う。俺は狼だ。俺は脚が速いから逃げても無駄だ。俺は、あんたを喰って、あんたを俺にする!!」
 少女は、少しだけ戸惑い、空になった寝台と、世にも情けない顔をしている狼とを交互に見つめ−−そして、微笑した。
「いいわ」
 狼は驚愕した。これまで、そんなことを云った獲物はいなかった。生き物ならば当たり前だ。生き物は生きることを命の目的にしているのだから。なのに、この少女は。
「……いいのか?」
「おまえは、そうやって生きているのだから。私はおまえの血になりましょう」
 少女はバスケットを床に置くと、着ているものを脱ぎ始めた。露になる白い肌を、狼は畏怖の眼差しで見つめた。少女が頭巾を取ると中から幾輪かの森に咲く花が舞い落ちて、その香が彼女の身体を包み込むように漂った。
 身につけていたものを全て取ってしまうと、少女は軽やかに狼の前を歩き、祖母の寝台の上に乗った。祈るような姿勢で座り、目を瞑る。
「ねえ、狼?」
 ささやく声は、その姿に似つかわしく、鈴の音の如く清らかに。
「私も、おまえが好きよ。だから好きって云ってくれて嬉しかった。ありがとう」
 華奢なその指に、腕に、身体中の隅々にまで漲るその生命の迸りを。
 狼は、一呑みにした。
 少女を呑み込みながら、狼は泣いていた。何故だか判らないが、涙が止まらなかった。溢れる涙で己の毛皮を濡らしながら、狼は少女の味の中に花の香を覚えた。

 

 窓ガラスが割れた。その一瞬後に、狼の咽喉を弾丸が貫いた。
 狼は、恍惚とした表情のまま、やがて前のめりに倒れた。おびただしい量の血が今は亡き老婆の寝具を赤黒く染めた。
 撃ったのは、狩人だった。割れた窓から、彼は無言で老婆の家に進入した。手にした銃からはまだ煙の筋が出ていて、火薬の匂いが花の香を消してしまった。
 狩人は狼を仰向けにすると、獲物をさばく為の大きなナイフで彼の腹を縦に裂いた。黒い毛皮の中に手を突っ込み、血と体液にまみれた少女を引きずり出した。
 狼の腹から上半身だけを出して、少女は二度だけ大きく息をつき、それから悲しげに狩人と狼の顔を見た。
「大丈夫ですか」
 と狩人は云った。
「どうして撃ったの?」
 剥き出しの肩を震わせ、細い声で少女は問うた。
「私は狼に食べられるところだったのに。彼のものになるところだったのに。私は彼が好きだから、花をくれた彼の血になる筈だったのに」
「窓から、君が食べられているところが見えたんです。襲われていると思ったもので」
 狩人は冷酷に答えた。
「いいえ、そうじゃない……」
 少女は泣きだした。狼の血が彼女の髪をすっかり紅に染めていて、まるでいつも通りに赤い頭巾をかぶっているようだった。
「泣か……ないでくれ……」
 低い声が少女の涙を止めた。少女ははっとして顔を覆っていた小さな手を除け、瀕死の狼を見た。そして、苦しげに語るその唇に宿る笑みを見た。
「狼……」
「狩人が……狼を撃つのは当たり前だ……。人間ならだれだってそうするさ……」
 狼の声は徐々に小さくなってゆく。彼の腹から身体を生やすような体勢で、少女は自由になる上体を彼の顔の方に投げかけた。太い首に抱きつき、大きな口に耳を寄せる。
「何も間違っちて……ない……。俺はあんたを喰ったし……あんたは……生き残った……。それで……いい……」
 少女の目から再び大粒の涙があふれて落ちる。
「……あんた…………うまかっ……」
 言葉を紡ぎ終えることなく、狼は息絶えた。少女の脚を包む獣の体躯がみるみるその熱を失ってゆく。
 惜しみない涙が、動かない黒い毛皮を濡らした。
 狩人は少女が泣き終えるまで辛抱強く待って、彼女の家まで送ると申し出た。それから床に置いてあった少女の着物を渡し、家の外に出て、夜になった森を眺めた。
「狼よ」
 パイプの煙をくゆらせながら、狩人は呟いた。
「なんだかおまえが羨ましいよ。あの娘を食べてあの娘に愛されるだなんて」
 随分経ってから、少女はいつも通りに赤い頭巾をかぶって出てきた。中で何をしていたのか、狩人は訊かなかった。濃い血の匂いの中に、微かに花の香が漂っていた。
 狩人は、貰い手のなくなったケーキとワインを振る舞われ、少しだけ酔って帰った。

 

(おわり)

 


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