往復書簡式読書案内

〜土場学『ポスト・ジェンダーの社会理論』青弓社ライブラリー、
岸田秀『性的唯幻論序説』文春新書、を巡って〜

 

「例の岸田 秀の新書『性的唯幻論序説』送ります。それにしてもこのひとは、わたしが物心ついてからずっと唯幻論の序説にあたるものばかり書き続けていますが、わたしかこのひとが生きている間に唯幻論の本論ってやつが読める日が来るのでしょうか?」

 

「十数冊(or 数十冊)書いて岸田 秀氏はなお序説しか書かない(or 書けない)と君がいったのはもっともだ。

 ところででは本論とは何かという事になると、ぼくの考えではそれは『倫理学』だと思う。そしてこれは近代思想がはじめから切棄てて論じる事をやめた課題だったといえる。などということではI.Kantなぞという大先生はどうかと忽ち反論されそうだが、カント先生は近代思想の倫理学の本質的欠如に気づいてまさに『序説』ばかり次々に書いたが結局、本論は書けなかった。

 今日20世紀後半に『倫理学』の本論を述べようと格闘した思想家は何といってもE.Levinasだと思う。あの仏語原文ですらわからないと定評のあるレヴィナスの著作のほとんどすべてに邦訳があるという奇観というか凄惨は多分日本人にはわからない事だろう。と、その邦訳の大部分を書棚に揃えながら、その中の1.2冊しか読んでいないぼくはつくづく思う。

 レヴィナスの読書がすすまないのは、元来がむずかしい主著だと訳の日本語がまるでわからないので英訳を引っ張り出したりして手間がかかり過ぎる事があり、多少エセー風のやさしいものとなると、訳者の誤解や訳註のまちがいが気になって一々書き出して訳者に送りつけたくなり、これまた手間がかかってたまらないからである。後者は一度だけLiberte difficileの抄訳に関してやってみたら、訳者からレヴィナスの『存在を越えて』の一部訳がのっている何とかいうむずかしい雑誌が送りつけられて来た。

 という『倫理学』をやる事自体が困難な20世紀最後の来年4月からぼくは人数を20人位に想定して『キリスト教倫理』というタイトルの倫理学特講をはじめるつもりでいるのだが、そこで十数冊書いてなおかつ『序説』を書かざるを得ない岸田氏に深い同情と親近感を抱いている。なにしろ『序説』なら十年分位ネタがあるが、そこから本論を構築しようという事になると、足許から崩れていく、という感じがする。

 岸田氏式にいうと『序説』とはつまりは『趣味』だから自由勝手にやれるが『本論』となるとまず『真面目』にならなければいけない(のだろう)。しかし一体ではだれの『真面目』か。ぼくの『真面目』が他の人の『真面目』だなどという保証はどこにもない。何せ近代思想は『我』からはじめてしまったので『倫理学』の場である人と人との共同共有の場はせいぜい二次的なもの、つまりは趣味としてしか出て来ない。そうなると、『人類の性は幻想』などというレベルに止まらず『人類』そのものが幻想、いや『人』そのものが幻想という事になる。となると『倫理学』など望むべくもない。ちと古い例だがサルトルが自分にアドヴァイスを求めた青年に(レジスタンスの頃の話らしいのだが)『君は自由だ、自分で選べ』といったという話がある。ある意味でそれがサルトルの『倫理学原理』なのかもしれないが、そうなるとそれはつまり『本論ナシ』という事で、確かにそれは現代の状況の少なくともカリカチュアをなしている。

 そこで『倫理学』をやろうというレヴィナス大先生(幸いもう死んだので著作はこれ以上増えないが、研究書が陸続と出て来るだろう)の心配りは折角の著作を難解にするばかりで、博士論文を書く義務を負う人には(多分)好材料を提供して下さったあわれみ深いサンタさんなのだが、本論を何とか論じたいなどという大それた事を企てるぼくにとっては、地雷原以外の何物でもない、というのが実感!」

 

「『倫理学本論』に関する随感(嘆息?)、おもしろく読みました。現在、倫理学の『序説』としてみられなくもないジェンダー論が盛んなのは、『人』さえも幻想だとは思いたくがないための倫理学指向者の無意識的なあがきなのやもしれませんね。あるいは社会学におけるジェンダー論は、20世紀に従来の形・意味では不可能になってしまった倫理学を建て直すための土台づくりとして、ジェンダーを『人』の『我』をなす最重要構成要素とみなしての延々たる作業なのかもしれません。というのはその土台が仮に完成したとして、倫理学をそのものとしてではなく、まず倫理学の成立の困難性から考えていかざるを得ないという、つまりはわざわざ倫理学を考えるときに『可能か否か』を検討せざるを得ない困難な状況を思うと、楽観に過ぎる考えかもしれません。しかしこの命題はあんまり考え続けていくと、倫理学という形で倫理をわざわざ『人』から切り離して考えざるを得ない状況こそが、倫理学成立の困難さを現している、というような堂々巡りに陥ってしまいそうですが。

 ところで岸田氏の著書に限っていえば、『性交が趣味*1』であるなら、従来の男尊女卑的な性交観を持つことも、個人の性交に関わる個人的趣味嗜好ということが出来てしまう、というディレンマが生じそうなものです。送っていただいた『ポスト・ジェンダーの社会理論』では、このあたりを『性的指向にかかわる数多くの規範群を中心に置いた規範のネットワーク*2』を抜きにしてはコミュニケーションが成立し得ないという状況から論じようとしており、土場氏の叙述は興味深く感じられます。それにしてもこの本は平易でありながら崩れてはいない日本語で「読ませる」ところがよくできています。まだ読了していないのですが、今さら大学で社会学をやろうという高校生などが、進路決定懇談会前のゴールデン・ウィークに読むのに最適というか。」

                   


*1:「わたしによれば、人間が性交するのは、本能行為でもなく、能力の発揮でもなく、愛の表現でもなく、趣味である。性交を趣味だなんていうと不謹慎の謗りを免れないかもしれないが、性交を言い表すには趣味という言葉がいちばん適切であると思う。性交を本能であるというのは、本能に責任を転嫁していて卑怯であるし、能力の発揮であるというのは男の権力主義的考え方にもとづいているし、愛の表現であるというのは愛と性を切り離し、いやらしい性を清らかな愛によって正当化するというごまかしの思想である。趣味であるからこそ、性交は何らかの根拠をもち出して正当化する必要はないし、いかなる根拠によっても正当化することはできず、性交に関するすべてのことは当人が何かの根拠に頼ることなく決断しなければならないのであり、当人の責任においてなされなければならないのである。」

岸田 秀『性的唯幻論序説』文春新書、1999年、p.247

 

*2:「じつは、こうしたコミュニケーションの文脈は、わたしの反省の内実に微妙な陰影を与える。なかでもとりわけ問題にすべきなのは、わたしとあなたの関係に含意されている権力である。たとえばまず、わたしにとってあなたがあからさまな権力保持者である、すなわちあなたはわたしに対して公的(法的、制度的)に保証された権力を保持している場合を考えてみよう。ここでもしかりに、あなたは公的権力の行使をもってわたしが家事に専念するのを改めさせることができるとしよう(もちろんそれはあまり現実味のある話ではないが)。こうした場合、かりにあなたはそうした公的権力の行使に伴ってわたしに反省を促すとしても、−中略−そのさいわたしがまず念頭に置くのは、わたしがあなたの忠告に従わないそぶりを見せた場合にわたしが受けるであろう制裁のこと」であり、わたしが反省したことを行動で示したとしても「ほんとうにわたしが反省をするとはかぎらないし、またあなたは直接それを確かめることはできない」。土場はコミュニケーションにはこのような内在的な権力関係をさかのぼっていくと、「わたしは−中略−(著者註:ある)規範に従っている、と,い,うとき、わたしはまさにその−中略−規範にだけ従っているわけではなく、その規範と意味的に接合されている規範のネットワーク全体に従っている」状況があるとする。そしてそれは、「なんらかの規範に従っていることを根拠としていると言える場合であっても、それは独立した一つの規範[のセット]ではなく、性役割、ジェンダー・アイデンティティ、性的指向にかかわる数多くの規範群を中心に置いた規範のネットワーク全体(規範ネットワークとして見たときの「家父長制(著者註:など)」)なのである。」と。

土場 学『ポスト・ジェンダーの社会理論』青弓社ライブラリー、1999年、p.63-65


月刊アトランダム106/2月号初出・一部改稿

Mme chevre

関連書籍・URLなど

『ポスト・ジェンダーの社会理論』
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30606449

『性的唯幻論序説』
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30570677

文庫でレヴィナスを(『存在の彼方へ』)
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30555465

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