〜禁じられた生きがい〜
岡村ちゃんが帰ってきた。待つこと六年のフルアルバムが、わたしの手元にある。 ところが、どうも様子がおかしい。あの、前作までのナルシスティックで自己顕示欲丸出しのパッケージングはどこへやら、数秘学っぽい多面体を中心に、数式や、人体の黄金比率図、対数螺旋などの間に、岡村ちゃんマークが控えめにちりばめられた、「きれいめ」な作りで登場。 さて、今作の九曲中、四曲−1991年から1992年にかけてトラック・ダウンされた楽曲は、否応なしに「岡村ちゃん」しているのだが、残り5曲が「1995年ヴァージョンの岡村ちゃん」だとすると、彼の年始からのコンサート・ツアーがいささか心配になってくる。 岡村ちゃんがかくも長い間、沈黙していたのは、近年、彼の歌詞と、現実の世界の齟齬がみるみる大きくなってしまい「どぉなっちゃってんだよ」と混乱の渦に巻かれていたため、だという。曰く「ブル・セラ」「デート・クラブ」etc.が、彼が歌詞を書くうえで信じていた「女の子」像をぐちゃぐちゃにかきまわし、混乱させてしまった、ということらしい。 岡村ちゃんはわかっているのだろうか? 彼の頭のなかの「あるべき女の子」は、海の中でひとつに溶け合っていた水が、蒸発して雲になり、ぱらぱらと一粒ずつの雨として地球に降り注ぐように、岡村ちゃんの歌を聴くわたしたちのなかに、ひとかけらずつ、ちりばめられているということを。そのかけらがあるからこそ、長い間、待って、ホンの二言、三言しか聞けないような恋でもがんばれたりするし、そして、そんなときこそ、岡村ちゃんの歌が必要になるのだ。なのに、そこにあると思った水源にたどり着けずに海に帰れず、困惑中の水のしずくのような気分に、わたしはこのアルバムではからずも陥ってしまった。 こんな気分になってしまったのはわたしだけだろうか? すくなくとも、このアルバムだけでは、とてもじゃないが、わたしは「岡村靖幸完全復活」とは言えない。こんな混乱した1995年を生きているわたしだから、岡村ちゃんがそんなんじゃ、「おかえりなさい」とは言えない。 ★ 「ロッキング・オン・ジャパン」'96年3月号初出・一部改稿 『禁じられた生きがい』は前作のアルバムより6年の沈黙を経てのアルバム 当初予定より大幅に遅れ、'95年12月発売 その後、'96年12月に援助交際を嘆くシングル『ハレンチ』を出すも、ふたたび沈黙 |