「笑い」と「狂気」は解説可能か 
〜『マンガは哲学する』におけるその追求〜

 

 『マンガは哲学する』という本を読んだ。『<子ども>のための哲学』『翔太と猫のインサイトの夏休み』というような著作のある哲学・倫理学者の本である。結論から言えば、本書は全体的に面白い本である。採り上げてある作品もセンスがいい。これはサブ・カルチャー的にこじゃれていてセンスがいい、とかそういう話ではなく、マンガ本来の系統・文脈的にセンスがいい、ということだ。そう思わせるマンガ選択のうえで、著者はその哲学的な存在の理想形態・「いながらにしていない」という境地を『究極超人あーる』に求めたり*1する。また『多重人格探偵サイコ』を採り上げた節の、「とすると、『オレ』は何を指しているのであろうか? そして、『オレ』が存在するとは何が存在することなのであろうか?」*2で終わる第二章「私とは誰か?」は、自己同一性の問題を考えるのにシンプルながら重要な命題を提示する。帯に「『哲学の大問題』を45の作品を題材に、面白い哲学の第一人者が解説する会心作!!」とある通り、読んで損はない、面白い本である。

 

 しかしながら今までの子どもに焦点を当てた著作に照らして、松本大洋の『鉄コン筋クリート』が中程に採り上げられている第五章の「子ども vs. 死 −終わることの意味」という章を目当てに買ったわたしには、そこに至るまでに冒頭に思わぬ落とし穴があった。第一章、「意味と無意味」で、吉田戦車の『伝染るんです』が採り上げられている節がそれである。

 この節の冒頭には「新しい字を発明しました」で始まる、『伝染るんです』ファンなら忘れ得ないであろうあの作品が引用されている。しかしその後次の次のページにまでわたるこの作品の解説は、あまり面白くない。というか全然面白くない。それはたとえば、目の前の美味なる一皿をなんの忖度もなく食したときの旨さと、同じ一皿を味わうことに専念したいと思っているのに、斜め後ろのまるでこちらのナイフとフォークの運びを観察しているかのようなウェイターに料理の説明をされつつ口に運んでいるときにも似ている。これはもはや、面白くないギャグを「どうして面白いのか」とわざわざ説明することで、そのギャグが面白くないことをさらに露呈してしまうというような次元の問題ではない。

 著者は「まえがき」で 「哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。/いや、それどころか、ひょっとすると、マンガという形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか」*3と書く。だが、『伝染るんです』を前に、著者は承前たる哲学的言語によってその面白さを解説しようとして、却って言語そのもののこれまでの約束事によって『伝染るんです』の旨みを取りこぼしているように見える。厳しいことを言ってしまえば、著者は『伝染るんです』の「笑い」についてなにか言っているようでなにも言っていないのだ。そしてなにか言っているようでなにも言っていないところから来るノイズが、『伝染るんです』を楽しむ障害になっている。

 これは『伝染るんです』における「笑い」が、言語による分析や解説という知性的な営みで割り切ろうとしても割り切れない、「悪意」や根深い「偏見」というネガティブな感情に起因するからではないかとわたしは思う。そしてわたしが本書の『伝染るんです』に関する節を面白くないと感じるのは、ネガティブな感情から発する笑いが哲学的言語によって読み解かれているのを期待していたからだ。

 

 期待はずれといえばもう一カ所、かなり面白かった第五章のおわり、しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』についての節がある。この節はわたしが本書を買った原因の『鉄コン筋クリート』についての実によくできた分析のあと、第五章の最後においてある。著者は『真夜中の弥次さん喜多さん』あるいは続編の『弥次喜多 in DEEP』の主人公2人が「互いに自分の夢の中に相手を取り込んで、自分の内部に相手を作り出そうとする傾向」を考えることから始めて、「死ぬということを、この世的な意味の次元に引き戻して考えるなら、だれかの夢の世界に入ることと考えるのがいちばん美しく、またいちばんふさわしい。/だが、ほんとうの死は、その夢からもなお排除されることなのである。子どもの死も同じことだろう。ある意味では大人の夢の世界に取り込まれることによって、しかしまた同時に別の意味ではそこからも排除されることによって、子どもは死ぬからである」と結論づける。この場合の「子どもの死」とは象徴的な意味での死、大人になるために人がその内部において殺さざるを得ない子どものことである。この論法自体には異論はない。しかしそのため,に,しりあがり寿のこの作品を援用するのははたして適当なのか。この作品はむしろ第二章「私とは誰か」、あるいは第三章「夢 −世界の真相−」あたりでもっと深く読み解かれるべきだったのではないだろうか。

 ちなみに第五章の『真夜中の弥次さん喜多さん』に割かれているページは4ページだが、そのうち3ページは上半分がまるまる作品の引用であり、4ページ目は5行のみであり、実質的に2ページ足らずしか著者はこの作品について述べていない。それも「子どもの死」に寄せてであって、作品そのものについて述べているわけでないから、なにがしか中途半端な印象の生起は否めない。要するに「オチてない」んである、この章は。

 

 文芸評論家の加藤典洋と哲学者の鷲田清一は、このマンガに関して「鷲田『このマンガだって、おそらくマンガとしては、かつての基準から見れば破綻している。そのリアルさにおいては完結しているけれど、現実世界でも幻想世界でも完結してはいないから。』加藤『そう、破綻が実現してるんです。筋の通った、見事な破綻がね。』」*4と述べた。錚々たるメンバーが三人寄れば文殊の知恵の如く、三人掛かりで熱く語り合う『弥次喜多』評を、永井が一人で実質2ページ足らずで行っているものと対比させるのは少々分が悪い、のは承知である。これはそれだけわたしが本書、とりわけ第五章を面白く読み、その締めである『弥次喜多』部分のちぐはぐさに割り切れないものを感じつつも、今後の永井の『弥次喜多』評に期待したいからである。永井均はこのマンガに、自身の哲学的言語で以て真正面から切り込んでいくつもりはないのであろうか。彼がマンガに求める「ある種の狂気」「大狂気」*5はドラッグマンガ・『弥次喜多』シリーズが十分に体現している表現だとわたしは思うのだが。


*1:「現代日本のマンガ作品のなかでしいて理想を求めれば、この『究極超人あーる』なんか、かなりいい線だと思う。(中略)あーるは、あたりまえのように、はじめから『いながらにしていない』という境地に達しているようだ。だが、ロボットだからであろう、少しもわざとらしさがない。こういうのって、人間がやると、どうしてわざとらしくなってしまうのかな。/それにしても、私がすごいと思うのは、このまぬけた主人公に『究極超人』と名付けた作者のセンスである。ニーチェに読ませたい!」       

永井均『マンガは哲学する』講談社SOPHIA BOOKS、2000年、p.185-186

 

*2:本文中引用部分は次の文の後に続いている。「西園は(同じ体に存在する西園以外の人格である:筆者註)雨宮たちと身体を共有しているのだから、この『オレ』は身体を指すことはできない。だからといって、『オレ』は記憶性格的連続体を指しているわけでもあるまい。なぜなら、もしこの多重人格者の複製体をつくったら、おそらくはすべての人格が、複製体に宿っているほうの人格は自分ではない、と言うであろうから。」   

前掲書:永井、p.75

 

*3:本文中引用部分は次の文の後に続いている。「二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。世の中の内部で公認された問題とはちがう、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。だれもが自明と思い、その自明性のうえに通常の世の中的な対立が形づくられているような、もとのもとの部分がそこで問題化されている。」

前掲書:永井、p.1-2

 

*4:'99年3月ごろに『弥次喜多』ファンの友人がコピーしてくれた「立ち話風哲学問答F」からの引用。引用部分は鼎談の最後の7行にあたる。残念ながら出典雑誌・書籍不明。文芸評論家・加藤典洋、仏文学者・多田道太郎、哲学者・鷲田清一がしりあがり寿の『弥次喜多』シリーズを肴に、三段組で5ページにわたって鼎談する。

*5:「私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。」                     

前掲書:永井、p.2


月刊アトランダム108/4月号初出・一部改稿

Mme chevre

関連書籍・URLなど

『マンガは哲学する』
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30650132

『立ち話風哲学問答』
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=30675130

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