ドリップ式読書・その3
〜「訳」者ほどステキな商売はナイ?!〜

 

子どものころ、わたしのあこがれの職業は「としょかんのお姉さん」、そして「石井桃子先生」だった。あまりに本ばかり読んでいるので心配され、体育会系子ども運動合宿旅行ツアーに参加させられたり、はては夜更けにトイレで続きが気になる本を読んで怒られたりと、ひどい本の虫だったわたしには、この二つの職業は燦然と輝いて見えた。特に後者は、ときおり稲光のような光を携えてわたしの前に現れた。その稲光のひとつが『クマのプーさん』である。

この児童文学の名高い古典については多くを説明する必要もないであろうが、その翻訳された和書との出会いについては、わたしは日本人として、またかつての英米児童文学専攻生として、かつただの本好きとして、まったくもって幸運であったと思う。まず、『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』の合冊本、『クマのプーさん プー横丁にたった家』の第一刷が、幼児より自宅にあったため、あらすじをいつのまにか諳んじるまでくまなく読むことができたこと。次に、両親が揃って児童文学好きであったために、ペイパーバックスの"Winnie the Pooh"、そして「プー以前」のクリストファー・ロビンの生活の描かれた"WHEN WE WERE VERY YOUNG"(邦題『クリストファー・ロビンのうた』)、"NOWWE ARE SIX"(邦題『クマのプーさんとぼく』)までもがやはり自宅に揃っていたこと。

♪ 

この二つの要素がどう幸運であったのか。まずは、今では滅多にお目にかかれないような美しい丁寧語によって『クマのプーさん』が頭に住み着いてくれたおかげで、原書の"Winnie the Pooh"を読む際に、語学嫌いのわたしが抵抗もなくこれを読むことが出来たこと。つぎには、長じて翻訳で大笑いした部分の原書部分を知って、「これをこう訳したとは!すごい!」「ここってもとはこうなんだ!すごい!」と、ひとつの作品を二つの方向と、さらにそのはざまから楽しむことが出来たこと。さらには、"WHEN WE WERE VERYYOUNG"、"NOW WE ARE SIX"の翻訳書を読む前に、石井桃子調のイメージでその原書を読むことが出来たこと。これを幸運と言わずしてなんと言おうか。

この経験によって、わたしの石井桃子=翻訳者へのあこがれは強まったが、しかしあこがれの職業というある到達点としては、翻訳者は遠いものとなった。なにしろわたしには、語学力が欠けている。その上、コブタの父祖の名前を「トオリヌケ・キンジロウ」と訳すような、またクリストファー・ロビンの「てんけん隊」など、原書の言葉と文章の意味とのイメージをうまく噛み合わせて、パズルのように日本語に組み立て直す、そういう類のセンスがない。こうして自分の考えを書き表すのだって四苦八苦しているのに、外国語で書かれた他人の考えを、意味は正確に、イメージも壊さずに書き表すなんて、とうてい無理なことに思えたからだ。

♪ 

というわけで、すばらしい翻訳のなされた本を、原書と併せて読んだことは、対象となった本がやわらかであるのと対照的に、非常にシビアな現実をわたしにもたらした。まぁ、たまにはそんな「効用」も、ドリップ式読書にはある。

 

2001/04/23

Mme chevre

関連書籍・URLなど

"WHEN WE WERE VERY YOUNG"『クリストファー・ロビンのうた』

"NOW WE ARE SIX"『クマのプーさんとぼく』

http://homepage1.nifty.com/c-box/sky/chara/pooh2_s.html

 

『クマのプーさん』

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8240/pooh/episode1.html

 

『プー横丁にたった家』

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8240/pooh/episode2.html

index