ドリップ式読書・その2

〜神の道具としての人間〜

 

春先から、宗教について考えている。もともと日本人なのに、キリスト教を家の宗教とする家族のなかに生まれてしまったために、宗教と自分について考えることは宿阿のようなもので、今回のそれが突発性の麻疹のようなものというわけでもないのだが、いろいろな要因が折り重なって、結局ヴァカンス先でまでこのことを考えていた。

ところで、十年くらい前までわたしは、宗教についてはキリスト教に限らず、どれもこれも毛嫌いしたり、各宗教の共通項をむりやり見つけだして、それぞれの独自性を無化しようとしたりと、その正面に立つことを回避してきた。しかしこのごろいいかげん、そういう試みにも飽いて、まともに宗教を考えようか、などと思い始めている。十年前の自分がもし今の自分を見たら、あまりの変わりようにびっくりするのではないだろうか。

それはさておき。今回、ドリップ用ペーパーとして取り出されたのは「神の道具としての人間」という問題関心であり、ブレンドされた豆のなかの二種は、ジョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』とスティーヴン・キングの『グリーン・マイル』。またしてもメジャー作品。なにせ両作品とも映画化までされているのだから。しかしながら、両方の映画とも、見た人の話を身の回りで聞かない。類は友を呼ぶで、わたし自身が両方の映画化作品を見ていないからかもしれないが。それにしても、思いっきりイエス・キリストをカリカチュアライズして書かれたこの二つの物語は、はたしてどのように映画化されたのだろう。それはことによると、聖書についての知識の薄い人種にとっては、『セブン』という映画作品よりもわかりにくいものだったのではないだろうか。

と、ストーリーの骨子をいきなりバラしてしまったが、両方の小説において書かれているのは、つまり現代の「イエス伝」、「神の道具としての人間」という主題である。しかしながら、「神の道具としての人間」としての両作品の主人公の描かれ方について、わたしは双方、同じようには納得できなかった。とくに、スティーヴン・キングのそれについては。それは、ジョン・アーヴィングのオウエン・ミーニーが、神の道具としての自分を考えようとしているのに対して、スティーヴン・キングのジョン・コーフィは、頭文字こそイエス・キリストとおなじ「J・C」であるけれども、無実の罪で刑に処せられるその瞬間にも、「レニ・レニ・ラマ・サバクタニ」などとは言わない、単なる道具としてしか描かれていないからである。

神の道具として、神の力の放出される指先としてのジョン・コーフィ。そこに彼自身の生はあるといえるのだろうか。彼が他者の病気を、イエス・キリストのようにヒーラーとして治すこと、そのこと自体にその生がある、という見方もあるかもしれない。しかしながら、わたしは例の長髪口髭のフランス男の「我思う、ゆえに我在り」ということを人間の一条件とする近代の申し子であるからして、おなじく近代以降の社会生まれの作家が、近代以降の社会を舞台にしている作品で、このようにジョン・コーフィという人物を描くことには納得がいかない。彼は自身の能力になぜ疑義を抱かないのか? 彼は自身の孤独になぜ思いを致さないのか? そもそもなぜ無実の罪を着せられたことに対して危機感を抱かないのか? そして他人に自分を殺させることに罪悪感を抱かないですむのはなぜか? わたしのこれらの疑問は、『グリーン・マイル』におけるスティーヴン・キングの言葉によっては満たされなかった。

では、もう片方の人物、オウエン・ミーニーについてはどうか。「我思う、ゆえに我在り」という定義からすれば、彼は、自身が神の道具であると自覚し、自分が神の指先として使われる瞬間に自身を向かわせることで、その生を手に入れたように見える。しかし、たいていの読者はオウエン・ミーニーの身体的特徴だとか、才気ばしったところだとかに照らし合わせて、この小説を読み進むうちに、オウエン・ミーニーの友人であり凡人である、この小説の語り手「ぼく」と自己を同化させるだろうと思われる。そのような状況でオウエン・ミーニーがあのように生を絶たれることは、たとえオウエン・ミーニーがそれを神の召命として受け止めていたとしても、読者にとっては衝撃的なことである。それが物語としてあらかじめじゅうぶんにほのめかされているとしても。

オウエン・ミーニーが死ぬところ、そこにはオウエン・ミーニーの生はある。しかし、「オウエン・ミーニーを持ち上げる練習をしてきたのだ −−いままでずっと。」と、その瞬間に気づかされる語り手の「ぼく」の生は、オウエン・ミーニーの死とともに四半分くらいは終わってしまったのではなかろうか。すくなくともこの小説の随所に挿入される、オウエン・ミーニーの死後、おとなになった「ぼく」の生活は、「我在り」と言っていいものかどうか、苦しむべき状況だと思う。

オウエン・ミーニーのように、断片的なピースから、自身に託された神の御業がなんであるかを探り、自身の人生の意味をそこに託すことができればしあわせだろうし、またジョン・コーフィのように、自身に託された神の力について思い巡らすことをまったくしないでいられれば、それもしあわせだろうと思う。しかしながら、わたしはそのどちらの方法も、キリスト教の神に対して採る気にはなれない。オウエン・ミーニーとジョン・コーフィのモデルであるイエス・キリストは、「人が律法のためにあるのではない、律法が人のためにあるのである」と言った。ならば、それは近代においてはこうも言い替えられ得るのではないか。「人の生はその創造者たる神、自然という法のためにあるのではない、自分自身のためにあるのだ」と。

それにしてもこの、「人が律法のためにあるのではない、律法が人のためにあるのである。」という言葉はかんがえものだ。この言葉だけが今もいつも、わたしをキリスト教に引き留めていると同時に、わたしをそこに踏み込むことを今もいつも躊躇わせるのだから。

 

2000/08/08

Mme chevre

参考文献・関連URLなど

『オウエンのために祈りを』[上・下]
著者…ジョン・アーヴィング
訳者…中野圭二
発行…1999年7月30日
新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/coming_soon/519103-9.html

『グリーン・マイル』全6巻
著者…スティーヴン・キング
訳者…白石 朗
発行…1997年2月1日〜7月1日
新潮文庫
http://www1.odn.ne.jp/~cab52230/bk055.html

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