ドリップ式読書・その1

〜姉の力〜

 

わたしはこのごろ、いろんな本を、同時進行で読む。そういう読書の仕方を、わたしは以前、悪癖だと信じていた。そのころ読んでいたのは主に小説が多かったから、登場人物だの話の筋道だのが整理しきれないという悪弊が生じるのではないかと疑っていたのかもしれない。それに、本という物体、オブジェとしての本を愛していたわたしは、そういうふうに本を扱うことは、作者や作品に関わる人々に対して誠実ではないような気がして、たとえどんなにつまらなくても、あるいはむずかしくて途中で投げ出したくなるような本であっても、どうにかこうにか最後まで読み通すようにしていたのだ。

しかし、わたしが最近まで悪癖だと信じていた、「複数冊を並行して読む」という習慣は、気づくといつのまにかわたしの身についてしまっていた。そして、気づいてみるとこの複数冊を同時進行で読むということは、自分の問題関心が重なるがために可能なのであって、そしてその問題関心が複数冊の中から、自動的にそれへの答えを拾い出して来るということがままあることに気づいた。それはまるで、相性の良い豆のような数種の本というものをブレンドして、問題関心というペーパーで濾過しているような効果を産むことさえ、ある。もっとも漉されてきたものが美味であるか、飲み下すことができないほど苦いものであるかは、同時進行で読んでいるすべての本を読み終わってからでなければわからないのだが。

というわけで本稿では、わたしの得手勝手な問題関心にしたがって選択された本が、わたしの独善的な問題関心に沿って語られたり、概説されたり、あるいはされなかったりする。わたしとしては本稿で採り上げた本を、読者の方が手にとって、あるいは読み直して、「ちがうんじゃないのかなあ」とか「ははあ、そういう読みとり方もあるか」と思っていただければ幸いである。

と、まあそんな次第で、まずは最近同時進行で読んだ数冊のなかで、おそらくもっとも知名度が高いであろう本を挙げてみようと思う。その本とは、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と、池沢夏樹の『花を運ぶ妹』である。『ねじまき鳥クロニクル』の作者は、おそらく今、出版された作品を、あまりにもメジャーであるがゆえに衒いなく読むことの出来る作家の筆頭であろう。そして池沢夏樹はメジャーさ加減では村上春樹に今一歩遅れをとってはいるものの、かなり読者層に重なる部分を持つ作家なのではないかと思われる。そういう、本屋に行けばたいていすぐに作品が見つかる有名作家の作品を論うのは、わたしにとってこのページの読者が、どのようなひとたちであるのかが不明であるためだ。ここ、「マダムのお部屋」あるいはその中の「紙魚の路」をおとなってくれているあなたは、はたしてどのような好みを以て本を読む人であるのだろう? わたしにはまったくわからない。というわけで、今回の本の選択は、つまりは危なげのないところをとりあえず狙ってみようなどという、いささか姑息な考えにもとづいている。

しかしどうもお客さんの顔が見えないというのは、稿の中身が薄いのも手伝って、枕が長くなっていけない。そろそろ本題に入ろう。『ねじまき鳥クロニクル』と『花を運ぶ妹』をともに読み終えてわたしが感じたのは、この二つの作品が、「姉の力」というものをそれぞれ逆のベクトルで描いているものなのではないかということだった。この「姉の力」というのは、澁澤龍彦の『思考の紋章学』中のエッセイ、「姉の力」という一編の中ほどにおいて、十数年前に知った概念である。澁澤は柳田國男の『妹の力』についての林達夫の言を引いて、森鴎外の『山椒大夫』における安寿のような、「当の女性が男きょうだいの年上にあると年下にあるとに関係はない。年齢上の妹が『姉』であることも有り得るし、その逆も有り得る(林)」「弟想いの鼓舞者、男勝りの行為者たる姉の型(林)」を挙げ、それが「精神医学的な見地から眺めるならば、日本人の心性の奥底にある姉弟相姦あるいは兄妹相姦の主題をただちに浮かびあがらせるだろう。(澁澤)」としている。ここまで書いてしまえば、わたしが両「樹」先生の上記の著作からなにを読み取ったのかは、この二冊を読まれた方なら、もう思い当たられたことと思われる。

というわけで本来的な目的から言えば、この稿は目的を果たしているのでこれ以上書くことは蛇足以外の何物でもないのだが、澁澤御大の著書からの切り貼りのみで自分の読書の感想を述べるのも気が引けるので、ふたこと、みこと。

『ねじまき鳥クロニクル』には、人間というミクロコスモスとそれをとりまく世界というマクロコスモスとの葛藤が、さらに洗練されたかたちで書かれている。その、わたし好みの葛藤の仕方が、『ノルウェイの森』あたりの作品群には見られず、どうも苦手でしばらく手にとっていなかったのだが。ちなみに「わたし好みの葛藤」は、村上春樹の初期の羊シリーズや、長いが時間を割く価値が大いにあると信ずる『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』などで、『ねじまき鳥クロニクル』よりも入り組んだかたちで描かれていたように思う。それらのテーマがより強く、この『ねじまき鳥クロニクル』で打ち出されたのはなぜなのか。それについては、村上春樹の作品にわたしが求めるような「主人公の葛藤」を求める人びとが、神戸震災・オウムサリン事件後の村上春樹の作品の変化について述べていると思われる。

さて、『花を運ぶ妹』であるが、もしこの本を未読で、この稿を読んでおられる方、どうか書店でこの本の腰巻きの文句に退かないでほしい。そういう意味では、図書館でこの本を手に取られるひとよ、幸いなるかな! である。ところでこの本の第一章のあのシーン、フランス、日本人神父、洗礼などのあのシーンに、遠藤周作へのオマージュを感じるのは、わたしだけであろうか?     

2000/08/06

Mme chevre

関連書籍・URLなど

『ねじまき鳥クロニクル』
著者…村上春樹
発行…1997(単行本1994-95)年
新潮文庫
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/konojune/96/96h2c1.htm

『花を運ぶ妹』
著者…池沢夏樹
発行…1999年
文藝春秋
http://www.shueisha.co.jp/m_playboy/authors/ikezawa/content.html

『思考の紋章学』
著者…澁澤龍彦
発行…1977年5月25日
河出書房新社
http://www.asahi-net.or.jp/~jr4y-situ/zasiki/work01.html

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