ニュー・ファミリー・スタイル

 〜アダムズ・ファミリー〜

 

 家庭、あるいは家族という言葉について、あなたは通常、どのようなイメージを持っているだろうか。たいていのひとは、家庭を、遺伝子をシャッフルして将来につなぐための中継地点であり、その活動によって得られた子どもの基礎的な社会化を行う基地であると考え、その活動によって社会システムの下位体系として全体社会に組み込まれているのが、健全に社会生活を行っている家族だというふうにイメージしているのではないかと思う。

 ところで、表題に掲げた「アダムズ・ファミリー」とは、もともとチャールズ・アダムズというひとが、雑誌・ニューヨーカーなどで1932年から連載していた一コママンガに端を発する。最初はばらばらに活躍していた登場人物たちが、しだいに寄り集まって家族となり、最終的には複数の雑誌を股に掛け、1,300回以上も連載された人気シリーズである。その後、1964年に「奥様は魔女」シリーズのような、役者の演技にともなって笑い声が入る、おなじみの形式で30分テレビ・シリーズとなり、1977年にはカラーでスペシャル版も作られている。ちなみに、テレビ・シリーズは、日本でも「アダムズのお化け一家」として、1968年の4月から放映されていた。なお、アダムズ・ファミリーは、作品の作られた年代ごとに家族構成、その性格付け、アダムズ邸の建築様式、テーマ曲などの設定が変化しているが、本稿では映画版の家族について、主に論ずる。

  さて、マンガ版のアダムズ・ファミリーを第一世代とすると、モノクロだったテレビ・シリーズ版は第二世代、カラーで作られたテレビ・スペシャル版は第三世代、そして、1990年代に作られた映画「アダムズ・ファミリー」は第三世代に当たるといえるであろう。だが、その後、映画版・アダムズ・ファミリーの主人・ゴメズ役の俳優は死亡、現在、日本で車のコマーシャル・フィルムに出演しているアダムズ・ファミリーの主人は、映画版とは別の俳優が演じている。また、この家族は第三世代までとはその性格に、とくに妻・モーティシアの、夫・ゴメズへの態度に変化が見られる。つまり、日本のお茶の間でつとに有名なアダムズ・ファミリーは、すでに第四世代に突入していると考えるべきであろう。

  ところで、このアダムズ・ファミリーを、現代アメリカの家族の定義、とくにワスプの追い求める明るく正しいアメリカという社会通念における家族の定義に照らしてみると、彼等の存在様式はことごとくその理想に反している。なぜなら、この家族は、端的に言うなら、変態家族・悪趣味家族と言っていいようなものなのであり、なおかつ、彼等には、気持ち悪さとか薄気味悪さ、憂鬱さ、恐怖などを実現する表現活動のためには、他人の迷惑や不幸はかえりみないという特徴があるからだ。だから、「アダムズ・ファミリーは良い家族である。」となんの前置きも説明もなしに聞いた場合、彼等を知っているあなたは驚くだろう。そして、「彼等はスクリーンの中で見る分にはおもしろいけれど、現実的にはとても『良い』家族とは言えないのではないか」と思うのではないだろうか。だが、わたしはここで言っておこう、「アダムズ・ファミリーは良い家族である。」と。
 もちろん、裁判所であろうが、屋外であろうが、「拷問」とか、「焼き鏝」だとかの変態御用達の用語にふれると、ところかまわず燃えてしまう、一家の主人・ゴメズと、その妻・モーティシアの行動や、変死体への偏執的な関心の果てに、終始、弟や召使いを実験台にしようと手ぐすね引いている長女・ウェンズディの行動などは、決して「良い」ものとは言えない。もちろん、わたしだって、彼等のような一家が、現実に町内のお仲間だったら、困ってしまうだろう。

 最初に挙げた家族の定義に即して言うならば、アダムズ・ファミリーの構成員は、家庭内では常に肉体的に生死を分かつ危険にさらされているのであり、とうてい遺伝子がスムーズに将来へ受け渡される場とは言い難い。また、子どもの社会化を行う場としては、それも「良きアメリカ」のための社会化の場としては、これほど不適切な家庭もないだろう。もちろん、一応アメリカは自由の国であるから、建前上は、趣味としての変態性が家庭で実現されることは許されている。だが、ふつう、アメリカで、ほとんどの人間が理想として目指すのは、アダムズ・ファミリーの実現している、暗い、じめじめした、アングラな世界ではなく、ワスプによって実現される、明るくからっとした、いうなればヤッピーみたいな生活の実現される世界なのである。
 しかし、アダムズ・ファミリーは、この一見、無秩序が支配しているかのような家庭を、現実世界の圧力に耐えさしめるのに、全員一致で細心の注意を払い、最大限の努力を惜しまない。つまり、裏返せば、いわゆる「世間」から見て、変態的な趣味を持つアダムズ・ファミリーの構成メンバーは、家庭に帰って来さえすれば、生活の上での個性の自由な表現が保証されるのである。

 さて、この一家の成員は、誰もが趣味として、家庭外ではなかなか十分に発揮できない、それぞれ独自の専門的な技術を持っている。のみならず、日夜、その技をさらに発展させる努力を怠らない。そして、この専門的な技術を持っているがゆえに、この家族はそれぞれが互いにその立場を尊重し合って生活しているのである。互いが必死でしのぎを削り合い、その腕前を尊敬し合うという、このアダムズ・ファミリーの生活からは、たとえば嫁・姑問題とか、財産分与の問題などの、家族間の無用な軋轢が生じる隙がない。もっとも、その専門的な技術というのが、一歩間違えれば簡単に人を殺せるような代物だからこそ、ある意味では野生動物の棲み分けだとか、伝統的な漁師と獲物の関係のように、互いの立場を尊重し合う家族関係が成り立っているのかもしれないのだが。
 この、家族の成員のそれぞれが、変態的とは言え、自分の専門分野を持っていて、なおかつそれに打ち込むために尊敬し合い、協力し合っているということが、わたしがアダムズ・ファミリーを「良い」家族だと思う理由の一つである。もっとも、「良い」と感じるその対象は、映画でおなじみの、変態性と危険性にあふれる、困った彼等の具体的な行動についてではない。その中身はともかくも、家族の独自性、そして「私」の確固とした形成のために、家庭を国家の縮図として考えることを捨て、家庭を、外界から家族を守る砦としていることを「良い」と思うのである。

 家庭は国家や社会の縮図にはなり得るが、だからといって家庭を国家の維持のために経営することで家族の成員の個性が殺されるのでは、早晩、その社会は閉塞して終焉に向かうのではあるまいか。なぜならば、どの動物種でも、あるいは理論のプログラムでも、それが長く生き残るには、いろいろな養分を摂取して分裂し、多様性を含んでいることが必要だからである。その反対に純粋性を突き詰めていくと、やがて自己撞着を起こして破滅に向かうというのが、ものごとの一般的なセオリーである。人間、あるいは人間社会のシステムがそうならないためには、できるだけたくさんの、さまざまな個性を持つ遺伝子がシャッフルされることが必要なのであり、そのためのさまざまな個性を持つ子供が出て来るには、家庭が、即・国家や社会のイデオロギーを体現する場であっては、その実現は不可能である。
 また、家庭が、人類が絶滅しないための生理的・本能的な巣として必要なものだとすれば、それは家族が唯一、帰ることの出来る場所として機能するということにあるのではないだろうか。たとえば、「アダムズ・ファミリー2」に見るように、子どもが、社会のマジョリティのメンタリティによって支配されているサマー・キャンプで排斥され、いじめられたとしても、家族が徹底的に子どもの側に立つことがわかっていれば、その子どもは毅然とした態度を持っていじめに対処することが出来るのである。

 このように、家庭が、その属する国家のイデオロギーや、社会の通念を実現するよりもまず、家族が家庭の中でともに楽しみ、家族であるという快楽を共有する理想型を、わたしはアダムズ・ファミリーに見る。彼等のポリシーとは、いうなれば、「世間の迷惑はいざ知らず、大事は家族の愛ばかり」なのである。子どもやその親が、世間の物差しに自らの身尺を合わせようとがんばるあまりに、不必要な軋轢に巻き込まれる不幸にあわなければならないことの多い現代で、彼等のこうした態度は、一考に値するものなのではないだろうか。少なくとも、わたしがアダムズ・ファミリーを「良い」家族だと思う理由はそこにある。
 しかし、わたしは「アダムズ・ファミリー、万歳」などと、大声で叫ぶつもりは毛頭、ない。好きな映画はこっそり見、こっそり自分の養分とするに限るので、あんまり声を大にして、人に言いたくはないからである。(初出・世界教育連盟日本支部青年部発行News Letter Vol.#、一部改稿)

Mme chevre

『アダムズ・ファミリー』データ

1964〜
「元祖 アダムズ・ファミリー」一話30分、テレビ・シリーズ、モノクロ
1977
「オリジナル版 アダムズ・ファミリー」75分、テレビ・スペシャル、カラー


1991「アダムズ・ファミリー」
1993「アダムズ・ファミリー2」
番外・テレビ・コマーシャルにおける「アダムズ・ファミリー」

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