御近所探検「養生館」


さあて、今回はこちら  

    

 北原白秋(1885〜1942)です。いったい北原白秋の何が編集長の御近所にあるのか。 それは養生館です。ご存知のように北原白秋は大正7年(1918)より大正15年(1926)まで、小田原に住んで活動していました。木菟の家と呼ばれる、ちょいと不思議な家を建てたりしていたのですが、それは今の現在の城山です。ずっと山の上の方です。 そちらは、また探検することにしましょう。

 白秋は小田原で二度、住処を変えています。最初に奇遇したのが、養生館という今でいう保養施設みたいな旅館のような所。海で「海水浴」する場所だったらしいのですが。  この養生館があった場所が編集長の住処のすぐ近くです。この事を発見したのも、文学地図でした。地図を見ていたら、編集長の住処の上に養生館(白秋 小田原最初の奇遇地)となっているでありませんか。養生館って何だ、どれがそうだ。と近くを探しましたが、記念碑とかはありませんでした。 地図にには、確かここら辺のはずだが、アパートと保育園と総菜屋さんしかありません。  も少し歩いて、ふとアパートの看板をみると、「養生館」の名が・・どうも、養生館は今はアパートになってしまったのでしょうか    

     

   湘南バイパスぞいで、トラックが走っているのが高速道路です。ここにあったのかなと、色々白秋の記録を読んでみました。すると、養生館は例の滄浪閣の後を利用して建てられたとかあります。だとすると、ここでは位置が違います。伊藤博文の彫像かあるのは、編集長の住処の西となり2軒、こちらの養生館は東隣2軒の位置です。とりあえず、養生館の写真を探してみました。     

  

れです。三階建てで関東大震災でも壊れなかったと言います。海か一望に見渡せたそうです。この写真もって、今の松のある位置と懸命に比べてみましたが、樹齢から考えて同じとは思えないし、どこたどこだと位置は不明です。   
   

これが内部の写真。白秋がいたのは右側奥の二部屋とあります。関東大震災で壊れなかったのが不思議な程度の建物ですが。さて、これが滄浪閣と、どういう関係にあるか。     

    

 海側から見た滄浪閣のようです。なんとも広々した美しい海岸のようです。今とは大違い。これと比べると、どうも養生館は別物のようです。そこで、古地図を見に市立図書館にいってきました。そしたら、書庫の奥から出してもらうまでもなく、外に掲示してありました。写真をとってきました。大正14年のものです。    

    編集長の住処は、↑ このあたりです。(ずれちゃうかな)。今も道路がそのまま残っている事が分かります。編集長の住処は、砂浜だったようです。滄浪閣も、この時点で消失しています。この地図みると、なかなか興味ぶかい事が沢山出で来るのですが、まあ後にして、問題は養生館です。ふと下の方をみると、砂浜の中に「養生館」とあります。拡大写真です。  

      ええと、指し示せないのが残念ですが ↑ です。今の地形と良くよく比べてみました。正恩寺も円福寺も今も変わっていないでしょうから、ええと、この路地がいつもの通勤路で、ここか保育園でと重ねてみると、位置がはっきりしました。    

   

道は変わっていないとすると、この路地が養生館への通路の跡です。今は、惣菜屋「わだや」さんがあります。編集長の住処から一番近い商店です。ゴミ集積場がありますが、編集長はここには出しません。自分の所の窓の下なので、放り投げられない事もありません。(ちと脱線)


 なお、「わだや」には、編集長は自分で作る元気がない時だけ買いにゆきます。ここまで、あるいて60歩くらいかな。  で、養生館のはどこにあったかと言うと、最初のまさに看板のあったアパートが、養生館跡地で正解のようです。ここに白秋がしばらくですが滞在していた事になります。

 もちろん、西湘バイパスなどありませんから、海まで一直線。どうして養生館と言うのか・・どうも、この頃の海水浴ってのは、本当に「浴」であって、棒につかまって海に浸かっているだけだったようです。温泉と同じ考え方のようで、そんな治療目的の病院とか保養所がここらには、いくつかあったようです。  

 しかし、道路さえなければ、ここは確かに綺麗な一等地だったのでしょう。なんで、白秋だの谷時純一郎だの三好達治だの坂口安吾だのの文豪や、伊藤博文やら、榎本武揚、森有礼・・・なぞというお歴々が、ここらに別荘を建てたのか。今の様子からは伺いしれないのですが、古地図をみると謎がすぐに解けます。

 要するに、今のお城が建っている所は、旧ご用邸で明治天皇だの大正天皇だの皇族関係者が入れ替わりやってきて、静養したり、箱根・熱海方面への中継地としたものだから、まあ、お偉方がぞろぞろ付いてきたというわけのようです。   

                
  編集長の家の前の道路なんぞ、きっと最高度の警備ゾーンだっのでしょう。まあ、こうして古地図など、調査して歴史をさぐってみるのも、たまには面白いものです。 もっと古い江戸時代の地図でも、ここらの道はきちんと記載されていて、過去がさかのぼれます。だいたい、ちょっと先の南町は、もともと小田原藩主が住んでいたところ。(小田原城は幕府直轄なので、藩主は住まなかったとのこと。) なんだかんだで、明治・大正には、お歴々、多士済々なる人々が、ここらを闊歩したようです。

 世が世なら、貧乏人の編集長なぞ近寄れない場所であったに違いないのですが、今は、なんとも普通の地帯です。 どうも、ここらは民法書いたり、小説やら詩を書いたり、のんびり過ごすには良い風土たったようですが。みな静養とか、老後をゆったりするとか、そんな場所だったのに、今はなんだか違います。
 

 まあ、ここに居るうちに、白秋にあやかって編集長も童話の続きを書いておく事にしますか。( おこじょのああさん とか きみえちゃんとその仲間 とか遅れていてすいません。)まあ、あまり過去のお偉方とは関係はないけど、気分だけです。 また、も少し御近所探検してみます。