「おちゃっこ」


 『おちゃっこ』って言葉がある。なんの事だから分かるだろうか。「方言」の一種なので、知っているのは少数だと思う。

編集長は、生まれは仙台だ。といっても一歳で横浜に引っ越したので、記憶はまったくない。祖母の家は仙台駅のすぐ裏だったので、しばしばそこに「帰郷」した。その地帯で繰り広げられていたローカルなイベントが「おちゃっこ」なのだ。

 おおげさなものではない。近所の主婦やら、ばあさま達やらが、誰かの家に集まり、こたつに入ってお茶を飲むのだ。お茶はでっかな急須にいれた、ごく普通のものだ。

安物のお茶を、茶殻が山盛りになるまで、どんどん飲む。そして、茶菓がお盆に山盛りされる。袋菓子と言うやつで、煎餅だの豆菓子だの、正体不明のゼリー菓子などが、セロハンに包まれた例のやつだ。

それから、山盛りの漬け物。大きめに切ったたくあんとか、蕪づけとかを手でつまんで食す。それに、みかんやら、その場で剥いた林檎などまであれば贅沢な部類だ。

そして、会場となる家の主婦も、お湯を沸かすとか、漬け物を切るとかするだけで、あまり席は離れない。原則として食べ物にこる事はない。「もてなす」のとはちょっと違う。

大抵は、誰かが袋菓子を下げてきたり、まあ日本版「パトラックランチ」の簡易形とでも言うのか。食事時は避けて行われるから、まあ三時頃から夕食の準備を始めるまでが開催時間帯なのだろう。

 帰郷して、ふと遠い親戚の家によって、ちょっと挨拶だけして帰ろうとすると、決まってこう言われる。

 「なんでぇ、・・
    おちゃっこもしねえで帰るんか・・」

文字では、方言のニュアンスを表現できないが、かなりパワーのある言い方だ。

この「おちゃっこもしねえで」との言葉がかなり強制力のあるもので、ちょっと引き留めておくという遠慮がちなものではない。こたつにいれさせられて、お茶に袋菓子と漬け物の「三点セット」が目の前につまれる。

そして、どうこうするうちに、近所のおばさん達がなにげなく集ってくる。別に集合命令をかけるわけではないらしい。簡単に紹介されるが、別に遠くからの親戚を中心に話題が回るわけでもない。

話題は、きわめてローカルなプライベート情報。つまり近所の人達のうわさ話だ。どこの町に新しい店ができたとか、多分、世界情勢が話題になることはないと思う。

いつ終わるとも分からない勢いなのだが、終了のきっかけとか、何か細かい慣例が確立されているのだろう。
何気なく行われてはいるが、誰がどこに座るとか、誰がお茶の世話をするとか、微妙なルールが確立していて、それを壊すと、本人退席後の「おちゃっこ」での話題に載せられるのであろう。

 「おちゃっこ」との名は仙台市での名称である。他の地域で、どのように呼ばれているかは知らない。このような習慣が、どこに、どのような名称で分布しているか、社会学的調査でもする必要があるかも知れない。多分東北一帯に広域に分布するのではないだろうか。関東圏では、お茶を個別にふるまわれる事はあるが、あのすさまじい勢いの集会は経験した事がない。

 じゃりんこチエに、東京下町のお好み焼き屋に、おしゃべりの主婦が集う場面があった。お好み焼き一枚で何時間も店を占拠して、主人が「店を潰される」とぼやいていたが、あんな勢いが「おちゃっこ」パワーに近い。漫画での話だが、モデルとなった東京の中心部は古いものを残しているので、御近所パワー残されているかも知れない。

 要するに、御近所パワーが炸裂するのが「おちゃっこ」なのだ。名を変え、多少の形態を変えて、日本各地にこの種のパワーが炸裂する慣習が確立していると推察するのだが、どうだろうか。読者には、各地の出身の方がおられるが、自分の故郷ではどうだろうか。

 元来、控えめでな編集長は、この「おちゃっこ」集会に混ざっても、どうも話の勢いに乗れない。おとなしくし聞き役になっている事が多い。でも順次話題が回って、時々、よそ者にも質問がとんでくる時がある。もちろんミクロコスモスの記事のような話題など、切り出してもすくにかわされてしまい、別の話題に移行してしまう。まあ「編集長の大失敗シリーズ」みたいな話題なら受けるだろう。

あまり難しい話とか、政治の事とかは微妙に避けているらしい。何のために、どういう情報を交換するのか。いつの頃から、続けられているか不明なのだが、察するに、集う事自体に意義があって、情報交換が主たる目的ではないのだろう。

まあ時々でもこんな集会をしていれば、一人住まいの老人の孤独な死なんてのは少なくともありえない。大地震とかで、近所が避難生活となっても、「おちゃっこ」集団が結束するのは間違いがない・多分。・・ちょっと社会学してみたが、数百のおちゃっこに参加したわけではないので、全体像は不明である。

 ちょいと恐ろしいプライバシー破壊組織のような気がしないでもないが、関東にドーナツ状に広がる新興住宅地域には、このような習慣はないだろう。近郊都市生活には欠けている社会的機能を温存している事は確かだ。

 編集長はこの「おちゃっこ」が好きだ。なにより「酒」がないのがよろしい。サラリーマンとか、職人達の職場でも、何かちょと交友関係、親交を深めるとなると、すくに「飲み会」となってしまう。そして場は、居酒屋とか、ファミリーレストランとかになる。酒の嫌いな人間にはあまり楽しくない。そして、交流のために金がかかる。

おちゃっこは、それらに比べればはるかに廉価である。そして、酒やらの席での慣習には、どうも上下関係とか、いろいろやっかいな社会慣習が持ち込まれる。あの「おちゃっこ」は、なんと言うか、はるかに「平等で民主的」な精神をもつ。

酒を飲むと、みんな元気に大言壮語を吐いたり、時事問題やらを語ったりするが、次の日にはどうも忘れてしまうらしくて、具体的な行動にはつながらない。酒の宴会は、「不満のはけ口」にはなるらしいが、どうも建設的な会話にはならない。

どうも日本の集会には、酒とタバコがつきまとう。禁酒禁煙禁珈琲の編集長は、どうも疎外感がある。出がらしのお茶と自由に選べる袋菓子の組み合わせは、嗜好からしても、より広範な人類に公開された、民主的な集いだと思うのだか・・

まあ、「おちゃっこ」で、近隣のボランティア活動が取りまとめられる事もないと思うが、あの存在自体が、かなり組織された市民団体の一つだと思う。

 まあ、あんな時間に「おちゃこ集会」を開けるのは、主婦と高齢者だけだと思うが、なんとかあの、すさまじいパワーを秘めた民主的な集会を、世にひろめられないだろうか。

夜の集会しか開けない寂しいサラリーマンやの仕事場にも導入して、職場で3時の「おちゃっこ集会」とか、新興住宅地帯で「おちゃっこの会」とか広めていってはどうだろうか。

なんだか、とても良い成果が・・・・いや、あまり得られないとは思うが、成果などない方が良い。何かのための「おちゃっこ」ではなく、「おちゃっこ」そのものに存在意義がありそうだ。

もしかしたら、中近東とか、アジア全域でも、これに類するものは、形を変えて各地に点々と存在するのでないか。もしかしたら、「Ochaco」は遠くシルクロードを隔てて日本まで伝わってきたのでは・?・・・・

う〜ん。「おちゃっこ」を世界に広めて、世界平和を・・・・。

こんな、たわいのない話でも、世界の「オチャッコ・パーティー」ですればよいのだ。

しかし、あの「おちゃっこパワー」いつ思い出しても凄いと思う。「おっそろしい・・・」と言うのが適切な表現だ。