各分野の専門家達が用いる「記号」がある。電気技術のための「配線 図」、建築や機械工学の「図面」、音楽のための「楽譜」、高等数学や論理学の「数 式」・・無数の「記号や図形」が存在する。
それらは極めて美しい。「美を目的とした建築や音楽の記号がが美しいのは分からない事はないが、配 線図や数式のどこが美しいというのだ?」と思うかも知れない。
確かに初歩的な配線図に「美」を感じる事はないかもしれない。家のどこにコンセン トをつけて、どこに遮断機をつけるなどの、本来は実用のための記号である。記号を 用いる技術者達も、美を目指して書いている訳ではない。だが図面の示す対象がより 高度なものになっていくと、どこかで図そのものが「美」を醸し出すようになる。子 供がピアノを習い始めた頃の大きな音符の楽譜はそれほど美しいものではないが、超 絶技巧が並ぶバイオリンやその他の楽器の楽譜は実に美しい。それは曲の美しさとは また別のものだ。楽譜が読めない者でさえ、壁に飾っておきたいような美しさをもつ。
工場の複雑なプラントの配線図や、大規模ビルの配管や空調の図面にも美しいもの がある。建築や機械の外観部分の設計図面が、意匠を示して美しい事は当然かもしれない が、機能本位の水道配管やら電気配線の図面に「美」が認められるのはどうしてろう。もちろん、どの図面でも美しい訳ではない。設計し構築する対象の高度さがある点を超えた 時に美を放ち始める瞬間がある。水道でも電気でも、設計は機械的に部品を結合して行けば良 いのではない。専門家達は、記号や図を駆使して、能率的にバランス良く電気や水が 流れていくために高度な計算により要素を配置していく。それには、ある種の「名人 芸」が必要になる。そんな設計者の名人芸が発揮されるあたりから、どうも図面や専 門の記号は「美」を備え始めるらしい。
筆者は子供時代に、このような専門家のための記号や図というものに、いいようの ない「あこがれ」を感じていた。子供の目には、たわいのない図面でも神秘的なもの にみえた。意味もわからないラジオや無線の雑誌をみて、配線図を書き写していたの を覚えている。なんか自分だけ偉くなったような、そして未知の世界に踏み込んだよ うな嬉しい気持ちだった。
そんな事がきっかけだったのだろうか、今は配線図や機械の図面に追われる技術者 ・研究者のはしくれになった。今では、抵抗やコンデンサーや半導体の記号は、神秘 でもあこがれでもなく、現実的な毎日の仕事である。普段は図面が美しいと言 う意識など毛頭なく、目的を果たす事だけ考えてるいる。だが今でも、少し専門の違う分野 の緻密な図面にふれると、ふと美しさを感じるものだ。(電気といっても実に細かい 分野がある。)
筆者はこんな工学系人間だか、趣味として楽器の演奏を続けてきた。これも数十年 の日を重ね、超絶技巧とはいかないが、かなり複雑な音符の並ぶ曲をこなせるように なった。趣味なので少しづつ、演奏技術の階梯をなんとか登ってきた。昔は憧れの対 象だった十六分音符や付点が複雑に並ぶ楽譜が、指が追いつくようになれば、憧れか ら現実になる。でも、ふと練習をやめて楽譜をながめると、やはり美しいものだ。音 楽の美しさとは違う。もちろん比例はしていて、つまらない音楽の楽譜が美しい事は ない。しかし良い音楽の楽譜は、音とは違う視覚的な美しさをもつ。今、筆者の書斎 の壁はベンデレッキと言う現代音楽家の楽譜が飾ってある。美しいものだ。もちろん これはプロの中のプロ、ほんの一部のものしか演奏できないものなのだが。
どうして、専門家が専門の技術のために積み上げてきた、単なる記号や図面がこん なに美しいのだろう。子供の頃に遠い別世界への憧れや希望をいだいたように、いつ までも人間には今住む世界とは違う遠い世界への願望があるからではないだろうか。 プロ中のプロ、超絶技巧の各分野の専門家達は、常人とは異なる別世界で、複雑な記 号を駆使して、それぞれに遠くを目指していく。そこで、駆使される「記号」という ものが美しを放つのは、技巧の向こうにある世界からの知恵の光を感じ取るからかもしれな い。
芸術の世界で、記号や図を追求した人達がいる。画家のパウルクレーもその一人 だ。彼の絵には、しばしば文字や記号が現れる。そして彼は、記号としての画題を組 み上げて絵画を構築していっていように私には解釈できる。
音楽の世界でも記号性をもつ作曲家として武満徹を紹介しておこう。彼は楽譜の美 しい作曲家としても名をあげておきたい。彼の音楽は言語性あるいは記号性と不可分 なものを感じさせる。
言葉を記号として、高度な世界を構築している「言語技術者」としての詩人。その代表として 「谷川俊太郎」をあげておこう。筆者は彼の詩、いや「言語を使った図面」が好き だ。彼らの共通点は、文章が構築的で磨かれている事、そして透徹した論理の透明な 世界の探求者である事だ。
哲学者と言うと、文字だけを使って世界を思索していくようだが、ヴィトゲンシュ タインという哲学者の著作には論理記号が並ぶ。そして、構成そのものが記号性・図 形性あふれた美しいものだ。言葉の中にも記号や図は隠れて、世界を構築している。
本来、大学というのは専門家となる修練を積む所だ。専門家というのは、特殊な記 号を身につけて、自在にあやつり、それで世界を構築して、遠い世界を探索する者の 事である。在学中、それぞれの専門の記号をしっかり身につけて、やがて駆使できる ようになってもらいたい。工学や自然科学の学生はもちろん、人文科学の学生でも、 例えば、古代文字、古文書、経営分析のチャートなど、修得に辛い修練を要求され る。ひるまず果敢に挑戦して技を身につけてほしい。それを乗り越えていない者を筆 者は「専門家」とは呼びたくない。
これらか何かの専門家を目指す若い諸君は勉強机の上に何を貼ってあるだろうか。 憧れの人の写真だろうか。旅したい土地の写真だろうか。それはそれでよい。もう一 枚、自分が憧れる分野の専門の記号の溢れる美しい図面を手に入れて、貼りだしては どうだろうか。そんな事が、一流の専門家への第一歩なのだと思う。
|