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 ミクロコスモス研究学園2004年8月11日環境講座「生物多様性2」
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             発行 ミクロコスモス出版

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 前回、自然も文化も「多様」である事が、どれぼと貴重であるか説明しました。今回は、近年それがどうして失われていくのか、また守るにはどうしたら良いのかをお話しいたします。

多様性が失われていく原因は、もちろんヒトという生物の存在です。3つの危機があると言われています。

【第一の危機】

【人間活動の拡大】人間活動の拡大によって、自然の生物が圧迫されて、生物が絶滅したり少なくなっていきます。大きなスケールから小さなスケールまで、さまざまな場面で人の活動は種の多様性を損なわせています。

[開発]

住宅、鉄道、道路、港湾、飛行場、公園、スポーツ施設・・・あらゆる開発は、自然の打撃的な破壊なしに作成する事はできません。

近代の建築学や土木技術、あるいは農業技術も、「均一な整地」を最初に行う事を望んでいるようです。近郊の大規模住宅街が造成されてきましたが、森を伐採して、ブルドーザーで整地して、コンクリートとアスファルトで道路と仕切を作っていく手法が基礎です。

もともとある、樹木や草本を活かすような事は希です。そして、土壌の無くなった土地に、再度土壌改良材を持ち込み、造園樹木を植樹し、園芸植物を植え、外来植物中心の「ガーデニング」をしていくのが、人々の憧れのライフスタイルとなっているようです。どうも近代建築学の基底部分に、旧来の自然物を一度完全消滅させた上で、完全にコントロール可能な都合の良い動植物を再配置する思想が横たわっているようです。

極めて長い時間のうちに、

[愛玩・鑑賞]

 均一で、人工的なものを愛好する感性も問題ですが、自然を愛で、自然とともに生きたいとの人間の欲求も、時には生物にとって脅威となります。愛玩・鑑賞のめたの乱獲・盗掘・不法採集などです。多くの「山野草」が特定の愛好家や、それを対象としたプロ達の商業的な盗掘などによって減少したり絶滅したものもあります。

また、登山や自然観察の愛好家の急激な増加により、高山植物などが危機的な状況となっている事は良く知られています。特に、熱帯魚やは虫類、鳥類などの特定のファンが、貴重種を競い合うように飼育しようとし、また、それを対象とした業者が増加して、その傾向を加速化させています。はじめは趣味の世界でも、やがて大きく産業化すると、組織の自己増大と保存のメカニズムが働くようになります。

盛んにペットを飼育する事を宣伝して産業を育成するように進みます。金銭目当ての飼育や捕獲が増大して、さらに不法な取引へと拡大していきます。麻薬取り締まりの例と同じで、取り締まりの強化が、不法物の高値を誘発して、さらに巧妙な犯罪組織が形成されてしまいます。密猟組織との戦いに保護地域の取り締まり官が生命をかけなくてはならないような状況はきわめて危機的な事です。そして、その背景に先進国の「普通の市民の」愛好家達の欲望があるわけです。

[第一の危機への対応]

基本的には、20世紀での人類の人口の急激な増加が原因ですから、それをとどめる事は不可能です。ただ、それだけではない、近代主義の基底にある思考の問題も大きいと思われます。つまり、未知数が多く、時に危険性をもつ、自然を一度破砕して整地して均一化してから、人間によって選ばれた種を都合良く再配置するという思考が深く人類の中に沈着しつづけているのです。

これは決して新しい事ではありません。農業の基本として、「耕す」という事が上げられ、耕す事が生産そのものであると考えられていますが、最近の農学者のなかには疑問を呈するものが少なくありません。「無耕起農業」が提唱されていますが、耕す作業をやめて農業をしても、案外な収量が得られる場合があります。自然の森林は耕さなくてもきわめて柔らかい土壌を形成されます。

ミミズやモグラや多くの土壌生物が耕してくれるからです。では、なんのために人々は耕してきたのか。それは文化であり、人間の修行に過ぎなかった・・と言う人さえいます。農業の基本は、耕紀でもなく、種まきでもなく、「除草」だと言います。つまり、自然状態に対して、人にとって必要なものを残し、必要なものの生育を妨害するものを最低限取り除くだけで、農業は成立するのだとの主張もあります。

適地適作が農林業の基礎ですが、そこに生育しているもので、有用なものを人が選んでいくだけで、最良の状態となるという考えです。どうも、現実的には、困難な面も多いのですが、生態系を活かす生物生産という考えからは、大切な思考方法です。

ブルドーザーで整地した郊外の造成住宅街に、外国産の木材を使い、洋風の家を建て、セントラルヒーティングとして、世界のさまざまな樹木を庭木として、ガーデニングをして毎日せっせと水道水で水やりをして、害虫がでれば薬をかける。そして、居間に大きな水槽をおき、珍しい熱帯魚を飼育するために水を電動で循環させる。

食事は、世界から輸入した、自然の素材豊かなチーズや薫製や珍しい産品。そして「ナチュラル」な雰囲気をだすめに、世界中の木製の工芸品や自然物を収集する・・・多分こんな、近代主義の最後の夢みたいなライフスタイルが、生物多様性を守る事からは、もっとも遠い暮らし方なのかも知れません。

 貧乏、趣味無し・・目刺しと玄米と梅干しを食して、山菜採取と木登りで体を鍛えて・・・みたいな生活が生物多様性の保持に寄与するかどうかは不明ですが、とにかく近代主義の中にある、不要生物絶滅思想はより発展した生物・生態学の知見により解消させべきものです。

ひとつの例として、近代のスポーツのあり方を考えてみます。ゴルフ場の乱開発が、自然の破壊の事例として、大きく取り上げられましたが、良く考えてみれば、どうして日本のような国で、そのようなスポーツをするのかも不思議です。もともと、イギリスの草原で、そのままでゴルフ場のような場所で、ゴルフは始まりました。

それぞれの土地で、そこの民族は、その土地と気象を活かす遊びを発展させたのです。野球もサッカーも、それぞれの土地を活かす競技だったはずです。それが世界化して、雪国にも、砂漠の国にも、平板でなめらかな「競技場」が作られ、整地・舗装されたグランドで千分の一秒を争う競技が行われる。そして、みなそれに狂喜する。・・・何か豊かな自然の多様性がそこにあるのに、忘れて、知らずにそれらを破壊していっている。

森林国なら森林の多様性を利用する遊びや、スポーツが創造できないものでしょうか。薬物を利用してまで、優勝したがるスポーツ選手より、木登り世界チャンピョンの方が尊敬できると思うのですか。丸太を担いで、山登りする大会がありますが、あまりマスコミに出たりしないようです。

 人間の開発による生物多様性の危険性の最小化のためには、人間の思考と文化の多様性を増大させる事が、一番大切なのではないでしょうか。
 
【第二の危機】

 第一の危機は、人間の自然への働きかけが大きすぎる、または異常な携帯である事によるものですが、第二の危機は、反対に人間が自然への適切な働きかけを放棄あるいは縮小する事によるものです。いくつかの例をあげます。日本では、まず造林地と里山の手入れ不足による荒廃が上げられます。

戦後の木材不足の時期に、国策により、広大な山林に植樹をして杉やヒノキの造林地を作成しました。それは、ほって置いては、荒廃する性質の人工地なのです。木材の畑と言ってもよいでしょう。林業技術として、初期に過剰な大量の本数の苗木を植林します。成長とともに、適切に「間伐」して間引いていく必要があるのです。それを放棄すると、林床に光が入らなくなり、下草や低木が育たなくなり、植林された樹木一種だけの、きわめて生物多様性の低い状態になります。

また、土壌形成が疎外されて、保水能力や、崖崩れから守る力がなくなり、ひどいと崩落がおきるようになります。人かこまめに手入れしないと、守れない自然なのです。手入れをしなくなったのは、経済的な理由です。外国産木材の輸入により、木材価格が下がり、林業が大部分の場で経営が成立しなくなってしまっているのです。ボランティア活動や、さまざまな国の施策もありますが、基本的な構造はしばらく改良されそうにもありません。

 また、里山林と呼ばれる近郊のクヌギや松などの林が放棄されて荒れています。もともと薪や炭を生産したり、畑の肥料としての落ち葉を採取する場所だったのですが、それらの需要がなくなり、放置されました。ここも定期的に「もやかき」をして、木材を利用して多様性が維持されてきた土地なのです。ここは、人間がある程度利用すべき場所です。

そこを利用してのスポーツや子供達の遊び場としても有効な場所です。さまざまな民間の運動もありますが、それを完全利用するまでの人々のライフスタイルの変更は、ここしばらく望めそうにはありません。

 蛍やカブト虫などは、手つかずの原生自然が必要だと思いがちですが、以外と人間活動にも依存した生物です。人間の植林による里山に生育するものです。人間が開発した土地でも、数百年の時間的なスパンで考えれば、高度な多様性をもった自然に近い状態が形成されていきます。

そこに、また人間の気まぐれな都合で、定期的な自然への干渉である「手入れ」を中止すれば、長年のうちに形成されて来たサイクルが崩壊してしまいます。同じように、多くの水田が放棄されて、荒れていっています。一方で基盤整備として、新たに水田を開発もしまいますので、不思議な行動を人間はとるものです。

庭園などに、沢山の種類の樹木を植えたとします。定期的に枝払いして、除草していけば、すべての樹木が共存して生育していきますが、手入れを放棄すれば、ごく一部の植物だけが繁茂して、他は競争で消えていきます。人工的な土地の生物多様性は、持続的な手入れをしていく必要があるのです。育林地も、水田も、里山も、造園地も、そのような土地なのです。

第二の危機の克服にとって最大の困難は、国際経済です。「地域内流通」がある程度まで、確立されれば、第二の危機はある程度避ける事が可能です。貿易や金融の自由化が主流のままですが、どこかで、ある部分の「鎖国政策」がとられる時が来ると予測されます。

第三の危機の所で、また説明しますが、多様性の維持のためには、適切な領域を区切り、そこを独立・隔離する必要もあるのです。誤解されやすい言い方になりましたが、その土地産出の木材で建築して、地域の収穫物を食料として、まあ、たまには珍しい香料程度を輸入したりする。そんな事を基礎づけるための「鎖国政策」は、どこかで必要でしょう。文化や情報の流通となると、また別の議論が必要ですが。

第三の危機は、外来種の移入による問題ですが、次の回にまわしましょう。

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      今日はここまで ではまた。
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【編集長の蛇足】

 編集長は、動物を飼うのが好きではありません。植物もあまり技能的な盆栽だの造園などが美しいと、まるで思えないのです。熱帯魚も小鳥も「もっての他」です。まあゴキブリや蜘蛛なら飼っていますけど。 勝手に生息しているのかな・・・

理由を聞かれても、答えにくいのですが、自分の足だけで、死にそうな思いをして高山に登り、そこで一瞬だけ、野生の生き物の、鋭い目に出逢うと、ペットを飼うのが「小賢しい」行為に思えるのです。

 感覚で、そう受けとめているので、どうしようもない事ですが。まあ、犬が嫌いなのは、小さい時に噛まれたからですけどね。なんだかペットの動物達の目は、透き通っていない気がするのてす。

人間なぞ相手にもしないような目をした気品と迫力のある野生の生き物が好きです。あの誇りあるまなざしは、生き物そのものです。めったに出逢えませんけど。動物と「話している」などは、編集長にとって理解の外です。

薔薇とか大輪朝顔とかプードルとか出目金なぞ・・・化け物でない・・って感じです。嫌いなもののひとつです。花束もらうたびに、本当は寂しがっている編集長なのです。シラビソなどが雪に囲まれ、強烈な寒風にさらされている姿など、涙がでるほど美しくて、尊敬できるものなのですが。

動植物は、可愛がるものではなく、恐れる対象が、完全に食物として利用する対象か・・そのどちらかだと思います。

すいません。ペットの好きな方もいらしゃると思いますが。でも、嫌いな人も存在するって理解しておいてください。生き物が嫌いなわけではないですからね。ペットの類ってどうも偽物な感じがします。

限界的な自然の厳しさの中で生きる生命の誇りある姿を一度目にしてください。きっと世界観が変わるはずです。

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ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
   編集長  森谷 昭一   

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