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 ミクロコスモス総合版2004年9月1日御近所探検「滄浪閣」
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             発行 ミクロコスモス出版
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   編集部御近所探検 伊藤博文と滄浪閣
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  いきなり伊藤博文の彫像が現れましたが、これが編集部のすぐそばにあります。我が家の玄関から約30歩も歩けば、ここに到達します。

 だいたい、ここに編集長が引っ越して来たのは、不動産屋さんでの偶然。海の側が良いかと早川の港のあたりも探していたのですが、偶然に安い住処があるとの紹介で、まあ駅に近いかな・・となにげなく決めたのでした。

 数ヶ月たってて近所を散歩したら、ふと生垣のすきまから、奇妙な銅像らしきものの後ろ姿が見えました。草に被われて、近づく事もできない状態でした。恐る恐る、草をかきわけ侵入してみると、何と伊藤博文。・・・「どうして、こんな所に伊藤博文 ? ? ?」と思いつつ、しばらくは忘れていました。

 ところが、ある日、小田原観光案内の図で、我が家の位置をみたら、「民法発祥の地」と我が家の位置に重なって文字があるではないですか。「滄浪閣」という名を見たのも、その時です。まさか、こんな辺鄙な所に伊藤博文が住んでたわけないし。

伊藤博文の銅像以外は、ただの住宅地です。滄浪閣って、確か大磯でホテルかなんかになっていたのでは・・・色々疑問がわいてきて、彫像のある土地に忍び込みました。
     
なんせ、少し前までは、この土地は、入口に刈り取った樹木が寝かせてあって、入り込めない状態でした。そして、いかにも、個人の家の庭のような雰囲気で、伊藤博文に近づくには、半ば住居侵入罪に近い雰囲気がありました。今でも伊藤博文は夏には草に埋もれるのです。

観光コースなんぞからは、まるで取り残されていました。(一年前ほどになんとか人か入れるようになりました。でも今でも草ぼうぼう歴史散歩の集団がたまに来る位です。
 

記念碑もあって、良く読むと、伊藤博文がここに住んだ事が分かります。なんだか、どえらい土地に自分は引っ越してきたのだと、やっと認識しました。
  そもそも、このあたりは、なんだかお金持ちの邸宅らしき家がたくさんあります。南町は今でも、小田原の田園調布と言われて、豪邸が並んでいますが、編集長の住む本町は、庶民の居住地です。邸宅地と庶民の居住地の境はどこかと、さぐるとどうも、この伊藤博文別邸跡までが、今は高級住宅街で、編集長の住むSTハイツあたりから庶民の住む町になっていくように思えるのですが。

で、最近、図書館で、近辺の事を集中的に調べてきました。以下は市発行の「小田原市史」からの転載です。ちょいと長いですが、そのまま引用します。


   小田原市史 近現代 268頁〜

 初代内閣総理大臣兼宮大臣、初代枢密院議長という最高の要職を重ねてきた政治家伊藤博文は明治憲法の草案が一段落した1889年(明治22)、70歳に達した父重蔵の隠居地としと緑一丁目八番地(市内栄町)小田原藩の重臣辻鉄之助屋敷地に居宅を建設した。
 伊藤自身も枢密院議長の意志を表明した1889年10月初旬頃には、すでに小田原への永住を決めていたとみられ、御幸の浜の浜野村靖別邸の隣地十字三丁目643番地に別邸建設を開始した。伊藤を慰留するめたに首相黒田清隆をはじめ大隈重信外相や山県有朋内相などが小田原や大磯に説得にきたが、伊藤の枢密院議長の辞意は固く、再私有的には明治天皇が持講元田永宇を勅使にたて議長を免じ宮中顧問官に任じたのである。
 憲法制定に尽力した伊藤は、国政上必要な事柄にかんする仕事をまぬがれたわれではなく、外から内閣を援助する事を求められていた。小田原町への永住を決めた彼はこの年の12月31日、東京高輪の邸宅を岩崎久弥に譲渡している。
 こうして、伊藤は小田原の別邸が完成した1890年10月、これを「滄浪閣」と命名し、表門に書家巖谷一六の手による額を掲げて、小田原の地に本格的に腰を据えることとなったのである。
 ところが、伊藤の意に反して、小田原に在住した6年半は、静観の日々を送る事ができない状況が生じてきた。まず、邸宅の竣工と同月の24日には貴族院議長に就任せざるを得なくなつた。さらに、1892年8月、伊藤は再び内閣総理大臣に就任し、日清戦争の采配をりと、さらに講和条約全権として活躍した時期でもあった。
 一方では欽定憲法下の諸法典の整備を急がねばならかったため、1893年には法典調査会を設置し、自らその総裁となって民法改正に着手する。起草委員に選ばれた穂積陳重・富井政章・梅兼次郎の3名の法学博士は1894年の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもって民法典原案の執筆に集中したのである。すでに日清戦争が始まっていた。こうして1898年(明治31)7月、ようやくにして「民法」全五編が施行され、小田原は明治民法起草の地として名をとどめることになった。しかし、伊藤は「民法」施行をまたずに、1896年2月小田原を去り滄浪閣の名とともに大磯に移っていった。
 伊藤は激務の渦中にあって、政府の高官や財界の実力者など様々な人物を滄浪閣に招いたり、大磯に移ってからも小田原・箱根の地を何度も訪れており、地元に与えた社会的影響は限りなく大きいものがあった。この事は、1909年伊藤がハルピン駅で暗殺された報道は町民にも深い悲しみをもたらすとともに、新聞紙上には小田原在住当時の様々のエピソードが紹介され、その国葬に当時の小田原町長今井広之助が列席したり、官民合同の追悼会が小学校で催されたことに示されていた。
 小田原の地に居宅を求めたのは伊藤だけではなかった。この1880・90年代には、野村靖・小西正陰・今井徳左右衛門を結ぶ交友関係を中心に、海岸沿いの十字町には榎本揚、森有礼、竹添進一郎、鍋島幹らが別荘を設け、第一次の別荘群を形成していた

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・・と、なにやらどえらい土地である事が分かってきました。なにせ、今まで、歴史とは無縁の河原の氾濫源のような土地だの、港の工場地帯やら、新興住宅街だのに住んだ事しかない編集長です。こういう由緒ある土地に住むのは始めてなので、なんだか面白がっているのです。

滄浪閣の写真も載っていました。なんだか、随分立派な建物がここらに存在したようようです。もちろん湘南バイパスなどありませんから、風光明媚な松の浜だったに違いありません。
    
考えてみれば、今でも何やら土塀に囲まれた広大な住宅があるし・・。その割には草ぼうぼうな所も多いのですが。

 滄浪閣跡は、今はこの草ぼうぼうの緑地と、そばに家が一件あるだけです。何という人が住んでいるか知らないのですが、伊藤博文と関係あったのでしょうか。     

なにやら、古には、ここらは国家の重要設備がひしめく重要地帯だったようです。そういえば、警察署が今の市役所の近くでなく、やけに離れた海の側にあった理由が分かりました。

そりゃ、VIP達の邸宅の側に警察署つくるわけだ。(警察署は今年初めに市役所の近くに越しました。)過去には、ここらは小田原の重要地帯であったわけです。明治26年の地図には載っていました。地図によると、編集長の住処も滄浪閣の敷地だったかもしれないです。赤丸が編集部の位置。
 しかし、今はというと、編集長の住まうボロアパートに代表されるように、なんとも寂れてきているのが現状です。映画館はなくなるし、日々、お店は減っていくし、この前なんか、我が家の目の前で、ひったくり事件があるし、・・・海岸は、なんだか荒れていく気がするし、海岸はゴミだらけだし・・・

      
 滄浪閣跡から、編集長の住むアパートを見る。すぐそばです。自転車は編集長のです。

 まあ、しかし、ここらは自転車で散歩するには気持ちの良い地帯です。色々古い樹木が多くて、まあそれだけでも楽しめますが。しかし、どうして、由緒ある地帯の割に、寂れているんだろうと思いつつ・・

さて、この市史の続きに次のような記述がありました。


 ところが、1900年前後から、小田原海岸はしばしば台風の接近にともなう高浪の被害を受けるようになっていた。なかでも、1899年と1902年、特に1902年は現在の市域となっている沿岸すべてが大きな被害を受けたのである。もちろん、・・・・・・


と続きます。どうも、由緒ある豪邸も波を被って、ひどい目にあったようで。・・・
しかし、ええええっ、ここらってそんな危険地帯・・・、心配になった編集長は自然史の巻の災害史も調べました。「ええっ〜、ここでこの高さまで波が、それも津波ではなく、高浪・・」写真を見ると、なかなかの被害です。

 今は、小田原での一等地は板橋とか少し山の高台あたりになっていて、そちら方面に大きな別荘が沢山あります。高浪を恐れて、高台に移動したのでしょうか。今、海の近くに住んでいるのは、高潮覚悟の貧乏人だけ・・・ではないでしょうが、編集長の住むアパートの家賃は比較的安いのは確かです。

 そういや、最近波が高くなっているし、台風もでかいのが来るし、この前も地震で津波注意報が出ていたし、大丈夫かいな、と思う編集長なのですが。

まあ、そろそろ引っ越しかなとも思いつつも、今のうちに由緒ある地帯を出来る限り取材しようと考え、こんな記事を書き始めました。御近所探検記事はしばらく続けます。編集長の住処の西側二軒となりが伊藤博文ですが、東側二軒となりは、北原白秋のゆかり地です。これは次回に御案以内します。
                  編集長
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      今日はここまで ではまた。
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【お知らせ】
ごく一部の方にしか興味がわかないかも知れない記事で申しわけありません。遠隔地の読者の方には申しわけありません。 

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ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
   編集長  森谷 昭一   

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