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 ミクロコスモス研究学園講義録2004年8月28日「知識単位学7」
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             発行 ミクロコスモス出版
            
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ミクロコスモス研究学園講義録
 「知識単位学」 7回
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          担当 森谷

 しばらく間が空いてしまい申し訳ありません。続けます。いろいろな方から御意見を頂きました。「抽象的過ぎる」、「具体的な例が欲しい」、「もう少し現実の問題と絡めては」などでした。

そこで、具体的な理解の入口として、今回は少し先回りして、知識単位学の応用分野について、お話します。このような理論が何の役に立つのか話をします。

最近は「応用倫理学」や「応用哲学」なる言葉が用いられ、書物も出るようになりました。内容は生物倫理や環境哲学だったりです。このように、哲学を求める現場の問題は少なくはないのです。哲学と言えども、もともと、現実問題が出発である学問ですから、当然の研究なのです。

応用倫理学などに、全面的に賛成出来るかは、また別にしておきましょう。ここでは、知識単位学が、どのような局面で働く事ができるかスケッチしてみます。経営、教育、政治・行政、応用芸術、社会学、などの分野に寄り道してみます。経営・政治などは、本当はミクロコスモス研究学園の扱う分野ではないのですが、核心への入口としてお話させていただきます。

御意見にも、そこら辺をばすしての議論は、どうも靴の上から足を掻いている気分がするとありました。少し、またルール違反をさせていただきます。まず、経営・商学の分野で話してみます。具体的な話にするために、体験談など、少しくどい調子になるかもしれませが、お許しください。

【経営学・商学の単位】
 
 経営の分野での「単位」についてお話しましょう。経営の神様と言われた松下幸之助の経営手法の基礎は「分社化」でした。事業の拡大とともに、巨大化する会社を、そのままにするのでなく、適切な会社を次々と分割独立させて、それぞれに経営権を持たせていったったのです。

製造部、庶務部、広告部、運輸部・・・など横割り構造の組織で、電気釜から冷蔵庫、テレビ、計算機、電球までつくるような組織を、「冷蔵庫事業部」「テレビ事業部」・・・のような製品別の組織をつくり、それぞれに広告から販売部門をもうけて独立採算としていきました。

これにより、消費者からの意見吸収や、新製品開発のスピードが上がり、組織の硬直化を防ぐ事が可能だったわけです。まあ、今では陳腐化した手法で、分社化もやり方が悪ければ、正体不明の子会社が林立して統制のとれない状態が生じる事もあります。今では、見直しの対象ともなっている経営手法にもなっています。

 確かに経営にとって、適切な経営「単位」を設定する事は、根幹に関わる技術となのです。小さな個人の合資会社を考えてみましょう。そこでは、製造、販売、経理、開発、安全管理、広告、人事・・・さまざまな機能が数人の社員できりもりされています。別に会議など開くまでもなく、日々の活動の中で経営は一体化する事が可能です。

しかし、より大きな経営組織になってくると、それぞれの機能が独立していきます。数十人の有限会社となれば、経理、営業、製造なとの区分はかなりはっきりします。それにともない、統合のためのルールつくりや会議などが必要になっていきます。やがて、より巨大化すれば、部や課ごとに、まるで別世界のような組織が形成されていきます。

 船舶や飛行機を製造したり、全国網の鉄道や運輸の業務をするには、どうしても組織が巨大化せざるを得ないし、また細かい部門に分けて仕事をする必要があります。でも、それ故の非能率や、不統一が生じるのは、あらゆる組織の歴史で証明済みの事実です。その時に適切な経営単位に分割したり、統廃合をするのは経営のまさに技術なのです。

 少し個人的な体験をお話しましょう。ある時、私は健康診断の書類が必要になりました。レントゲンと身長体重、それから簡単な尿検査などの必要なものでした。特に指定はなかったので、まずは近くの大学病院にいきました。公的な所が良いのではと、特に考えもなく選んだのです。

まずは、受付の前の案内所にいきました。すると、「では内科へ行ってください。」と言われました。内科では長い受付の列が出来ていて、随分待たされた後、「健康診断を・・」と言うと、一言「それは健康管理センターでやってます。」と言われました。

「おいおい、受付さんしっかりしてくれよ。」と思いつつ、長い長い廊下を歩いて、別棟の「健康管理センター」と書かれた受付にいきました。誰も並んでおらず、それどころか受付に人もいません。声をかけると奥の事務室から人が出てきて、「個人ですか?」と聞かれました。どうも、ここは、企業や団体での集団検診とかを手配する部門らしいのです。

一応個人もやっているらしいのですが、聞くと、なにやら複雑な書式の書類を見せられました。どうも、放射線科、内科、検査課・・・を書類をもって回って、最後にここに戻っ証明書を作るらしい事が分かりました。それで、「いや、時間がないので、また明日とかに・・・」と言って、逃げ出す事にしました。

それぞれの科に行っては、それぞれ長い行列に並んで、ちょっとの診断を受け、一日かかって、もしかしたら時間不足になって明日になりそうな気配だったからです。健康管理センターと言うから、健康診断専門の医師がいて、体重計から健康診断専用のレントゲンまで揃っているとか思い込んだのが間違いでした。

まあ、日本で数人しかいないような難病や、心臓移植でもやりそうな大病院に、健康診断などに行った自分が間違いでした。でも、市の広報誌には、健康診断の可能な病院として指定されていたのですが。

 それで、次は同じく市の広報に載っていた、一番古い○○共済会みたいな病院にいきました。なんとも古くて、受付には数人のお年寄りが座っているだけです。受付の奥には、端がすり切れたカルテが木製の棚に積み上げられています。コンピューターなどはなく、すべて手作業の病院のようでした。

五階建てで、大きな病院ではあるのですが、コンクリにひび割れとかあります。どうも、老人が主に長期入院しているような病院のようです。受付にいた看護婦さんに健康診断の事を言うと、「ごめんなさいね。診断は毎週火曜だけなの。」と言われました。どうも、常勤医師は少なく、火曜だけ一階の診察室は開かれるようです。

人間的味ある雰囲気は感じましたが、なんとも時代をタイムスリップしたような病院で、どうしようかと考えて、やめました。

ふと歩いていると、町中に小さな「○○クリニック」のような小病院がありました。看板に健康診断も書いてあります。ガラスの自動ドアをあけると、ロビーには誰も待ちあいの患者はいません。受付の人がひとりいるだけです。

健康診断は出来るか訊くと、小さな紙に名前と生年月日と住所を書かされてだけで、その他は口頭で質問され、すぐにコンピューターに打ち込みをしていました。すぐにプリンターから出てきた、カルテのようなものを渡され、「そこでお待ちください。」と言われました。

受付には電話が頻繁かかってきて、予約のようです。どうもこまめに予約をとって調整しているので、待合いには人がいないようです。近所の床屋さん並です。

奥からレントゲン技師らしい人が来て「○○さんですね。」と名前を呼ばれました。受付のコンピューターから、すぐに情報が回るのでしょうか。定型どうりレントゲンを済まして、待合いにいると、すぐに、前の患者と入れ替えに、呼ばれました。

ドクターが直接、呼んでくれます。なにやら、もうレントゲンは回ってきているようで、今は数分もかからず処理できるんですね。ヘルスメータみたいな体重計にのって、部屋の隅の身長計ではかり、目の検査とかもひとりのドクターが、さらさらと済ましてしまいます。どうも看護婦さんが食事中らしいのです。

あっと言う間に診断は終わって、書類に書き込んだドクターは、「じゃ外でお待ちください。」とだけ一言。

 5分も待ったでしょうか。受付の人が、○○さん、出来ました。と呼ばれました。どうやって書類がまわったのだろうと不思議に思うほど手際が良い組織です。どうも事務室からすべての診察室に出入りが簡単で、声かけあう程度の事で、次々と連絡がとれるようです。

「これで良いですか。」と見せられると、コンピューターで印刷された診断書がもう出来ています。では、「○○円です。」と料金請求。少し高いですけど、でも自分の時給を考えれば半日ほどの仕事でもらう額です。時間を考えれば安いものです。大病院は、患者から時間を奪っています。

要した時間は一時間になるかならないかでした。午前中のたらい回しの時間を思い、「はあ〜。知らない事は恐ろしい。目的に合わない経営組織体を選んだ自分が馬鹿だった。」と深く思いました。

 さらに、組織経営のあり方が適切でなければ、人命に関わる事も少なくはないでしょう。ある急性の黄疸の新生児を抱えた両親が地域病院から連絡されて、大病院にいったのですが、受け付けに行くと、紹介状はと問われて、随分と待たされたようです。内部の連絡が悪くて、実は小児科では、すでに準備をして、待っていたのですが、事務の不手際です。危うい所で、間に合いましたが、そのような出来事は、日常にかなり頻繁に起こっている事と思われます。

どのような組織でも、外部からの「受付業務」と言うのは、生き字引的な総合的な知識をもったゼネラリストが必要なのですが、最近は人材派遣会社の要因が僅かな研修だけで、そのような仕事をしている事すらあります。

・・・小さな例をうだうだお話しましたが、似たような事は、さまざまな組織に対してみなさんも体験があるのではないでしょうか。

 このような事をいかに排して、小さな経営形態と同じ機能能率をもてる組織を構築するかが経営の立場に問われているのです。

「たらい回し」の弊害をなくすために、少し近代的な経営をする所は、顧客情報の共有化や、また「Knowlege management 」などと呼ばれる、組織での知識の共有化を情報機器を利用して進めています。そのような努力はあるにしても、巨大組織の非能率や組織疲弊はなかなか避けられないようです。

このような組織経営上の能率を最大にするには、どのような事を考え、どのような手法で組織を構築したら良いのでしょうか。それを支える理論として、どのようなものが考えられるでしょうか。

 関係する事項として様々な要因が間がえらます。まず、小さな病院で、きわめて能率的に健康診断が受けられたのは、まず規模が適切だったからでしょう。病院建築も事務室を中心として各部が統合されるような配置となっていて、「近接効果」が働きます。

機能要素の「地理的配置」は、初歩的な事項ですが、それすらなかなかうまくいきません。新しい経営で組織を再構築しようとしても、鉄筋の躯体はそう簡単に変更できません。建築学分野での単位構成が関わるのです。フレキシブルな建築も考案され、パーテーション等で、組織変更に対応している会社も、現代では主流です。

また、あのクリニックでは、コンピューターシステムが適切に構築されていた事も、短時間で検診が受けられた要因です。まあ、小さな病院のシステムなので、構築も容易だったのでしょうが、大組織となると、システム構築も一筋縄ではいかないものです。悪いコンピューターシステムはかえって経営を硬直させます。システム構築には、UMLなど、いくつかの理論化がなされ技術も発達してきましたが、まだまだ最適な理論にはほど遠いものです。

また医師が、初期医療の専門家で、まあ何でも出来たので、対応が出来たのでしょう。健康診断といえども、時には重大な病気を発見する事があるでしょうから、それなりの知識が必要になります。このような専門の知識のあり方、専門家の知識の単位が、当然関わります。もちろん医療器具や施設・設備の配置、人員配置、勤務体系、職務分担、情報収集の単位・・・あらゆる要素が最適に配置されて、問題を最小限にする事ができるのです。

病院、銀行、チケット販売、・・待たされる事で悪評の組織ですが、予約や職員対応などで、改善はされています。これひとつとっても、待ち行列やその他数学的なモデルを当てはめた理論構成が必要なのです。

あの小クリニックでは、空いていたから、すぐ受診できたのです。でも、いくら個々の患者が能率的に受診できたとしても、顧客が少なくては、経営が成立しないでしょう。小回りのきく組織といえども社会全体の中での能率問題となると、また別の経営問題でしょう。

個々の局面で、現実問題を打開する手法は少しずつ編み出されてきてはいますが、社会全体では、非能率は改まらず、組織の弊害は永遠に解決しないものであるとさえ思えます。

 経営の問題と言うのは、何を単位として、どのような空間で、それを配置する手法なのでしょうか。扱う商品単位、金銭の単位、人の単位、情報の単位、建築の単位、機器・・・良く言われる「もの・人・金・知識」が地理的・空間的に最適配置および最適分離される事でしょうか。

あらゆる事を漏らすことなく記述できる知識空間は、どのようなものでしょう。経営の問題の一部になると思いますが、「配置問題」と言うのがあります。

また医療の例になりますが、病院では婦長が看護師の勤務表を作っています。夜勤のある病棟では、三交代性で「夜勤・準夜勤・日勤」あるいは「早番・遅番・日勤」など呼び方はちがいますが、勤務体系をもっています。二交代性や、また別の細かい分割をしている所もあります。

これらを表の上で、配置していくのが現場の管理者の大切な仕事です。それぞれの看護師の月の勤務時間が一定になるようにして、その日の必要人員を満たし、ひとりの看護師にとって無理のない労働になるように配置する必要があります。夜勤 準夜 夜勤とか奇妙な続き方をすると、睡眠がとれなくなり業務に支障を来す事になります。

ひとりひとりの看護師の手帳には、夜 日 準と書き込まれて、「この日きついわね。」とか話しているのです。人数が多くなると、かなりの頭を使うパズルになり、頭の回らない上司が組むと、不平の嵐になってしまうのです。さらに、「妙味」とも言える領域で、「この人と、この人だけだと、新米ばかりになってしまうわね。」とか「この人のこの人仲悪いから、何がおこるか・・」とか、かなり人間的要素を考慮する必要もでてきます。

また、希望を出せるとすると、さらに複雑で、もう詰め将棋のような高度なゲーム問題になります。すべてを解決する「解」はないのが普通で、最適化を図るしかないパズルの問題になります。

さらに、看護師だけでなく、医師やその他の医療職などとの勤務組み合わせを考えれば、さらに複雑です。医局は医局で、事務部門も事務部門で、勤務表を組む所が多いのでしょうが、組織全体としては、「なにやりあらゆる部門で、新米がかたまる日」とか出来る事も考えられます。

病院の例ですが、コンビニ店やファーストフード店のアルバイトの勤務組み合わせや、警察・消防、あるいは夜勤のある工場などでの勤務なども同様な複雑で妙味の必要なパズルを誰がが解いているはずです。

この勤務表と言うのは、横軸が時間、縦軸が人員という二次元の座標をもった空間での人間の勤務を駒の単位とした配列ゲームになっています。そこに、いくつかのルールが適応されて最適配置をめざす事になります。

もし、人間的要素を付け加え、人の人の組合わせに善し悪しがあるなら、図には現れない三次元目の要素が加わった空間での配置ゲームになるわけです。かなりの妙味をだしている勤務表の名人がいたとすれば、4次元の空間をが頭にあるのかも知れません。


 教育への応用の所でも話しますが、学校の時間割作成などもさらに複雑な配置パズルを解いています。最初から教員、クラス、時間の三次元の空間でのパズルですし、教室も加わると4次元です。

このようなパズルに理論はあるのでしょうか。配置というとラテン方陣や群論などを想い出されるかもしれませんが、残念ながらこれらを最適化かる理論はまだないようです。将棋や囲碁のようなもので、色々な場合分けをして、シュミレーションを繰り返すしか解法がないようです。コンピュータープログラムで人間的要素まで加えた名人芸の勤務表を作成する事は出来ないようです。

また、細かい問題に踏み込んでしまいましたが、空間に単位を配置して、その最適化を図るのが経営の技なのですが、勤務表という経営のほんの一部の事項をみただけでも、その適正配置というのは一筋縄ではいかない事が理解して頂けると思います。

さらに、世の中全体を考えていけば、看護師の勤務表で配置は、看護師個人の暮らしを決定するのですが、看護師の配偶者や恋人が、また別の職業でこのような勤務表をつくる職種だとすれば、彼らの人生は二つの勤務表の関係する、大きなゲームの空間で生きる事になります。

看護師と警察官とか消防士が恋人になったりすると、なかなかやっかいです。両者の勤務表をつきあわせる作業を月末にして、行動が決まる事になります。夜勤のある製鉄所勤務の旦那と、三交代勤務の看護師の奥さんの家族など、家の黒板に勤務表が書き込まれて子供達は、それをみて遊びにいく計画を立てる・・・なんでしょうか。

その子供が預けられる保育園では、保育士がまた勤務表をつくって・・・と、そこまで、だれも考慮が及ばないでしょうが、社会全体では、こんな複雑な座標系の中で人が出逢いそして人生模様をえがいているはずです。

マクロ経済学のレベルになると、それはら混合され、均質化されて数量化できるような集合論的な「フロー」になってしまいますが、ミクロな経営学の領域では、このような組み合わせを考え得る配列の「構造」が存在するはずです。

組織が硬直化するのは、実はこのような配列の解がすぐに存在しなくなるような枠組みを作ってしまう事にあります。看護師の勤務表でも、勤務時間はきちんと決められていますから、パズルのルールは固定化されて、自由度が低くなっていす。

でも、勤務時間を4時間とかに分割しても良いとか、コンビニのアルバイトのように顧客の集中する時間帯に合わせて自由に分割できるとすれば、自由度は増します。また固定給でなく、勤務時間に幅をもたせた時間給を採用すれば、また適正配置の自由度は増します。

また、余剰人員を待たせる事、つまり予備の人員を配置する事でかなりの自由度は増して、より人間的要素を加味した配列ができます。

勤務する方の都合ばかり考えましたが、患者やその他の顧客などにも、それぞれの都合はあるでしょう。また、同一の患者を同一の看護師が継続してみた方が好ましい場合もあるでしょう。医師との連携もあるでしょう。

さらに発想を変えて、特定の医師・看護士・医療スタッフでチームをつくり、院内での独立診療所みたいな経営単位をつくり、それが交代していくような運営さえ考えられます。そのチームで特定の専門的な学習会などを行い、高度な連携を図る事も可能です。ある組み合わせゲームが最適解をもてなくなった時には、それをくずして新たな配置空間と単位設定をする事が必要になるのです。

構造改革というような言葉がありますが、フローとしてだけ考えていては、どうにも不況が打開しない場合に、そこに構造性を見いだし、その改革を目指すものです。構造とは、実は、このような組み合わせを考慮できるようなミクロなレベルでの形です。

そこでは単位の再設定し、適切な配置空間を作成して、そこで単位を目的にそって最適配置する事になります。その単位として、細かくは、人員から、大きくは部や課あるいは会社組織全体、あるいは業界団体、地方経済組織から国家全体の産業部門まで考えられますが、数量経済では解決しない、構造性をもった単位となるわけです。

それらの再配置には、勤務表の名人のような、数値で考えられない構造的配置を考える思考が必要になるわけです。勤務表の名人は、どの職場でもなかなか現れないので、文句を言いながら勤務しているのが実態でしょう、社会全体でも構造の再配置の名人が不足しているのが、構造改革の進まない要因となるのです。政治あるいは官僚の仕事のはずです。

いくら名人がいても、解のない場合には空間と単位の再設定が必要です。この空間と単位を設定するための理論体系を作る事かこの、知識単位学の目的です。それが、どのようなものかは、もう少し論を積み重ねる必要がありますので、先にしますが、すこしだけ予告しておきます。

経営の分野においてすべての事項を配置して思考できる空間は、やはり知識の空間で、上位に社会全体、下位に言語や心理の単位をもつ多次元空間になるはずです。平面的な配置では、勤務表の例からも分かるように不可能だと考えます。

 具体的な話をという要望で、余計な脱線が多くなり時間がなくなりましたので、本日はこれで終わらせていただきます。また経営分野の話が少し残っていますので、次回は商品学の話から始めます。


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      今日はここまで ではまた。
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ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
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