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 ミクロコスモス総合版2004年6月8日「知識単位学6」
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             発行 ミクロコスモス出版
             編集長  森谷 昭一

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  知識単位学 第6回
  担当  森谷 昭一
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 前回は構造的な知識のあり方についてお話しました。今回は対する「集合論的」知識について考えます。

【ふくろとしての集合】

 集合とは「ふくろ」だと理解しておいてください。袋の中に100円玉やら1円玉やら入っているとします。升の中の豆でも、箱にゴキブリを50匹詰め込んだ状態でもかまいません。

出入りはできずに、中が任意に位置を変わるような状態のものを想定します。中に詰められた要素は、数は決まっていますが、要素間の順序や関係性はないか、無視されます。

 ものの収納のしかたには、構造的なしまい方と、集合論的なしまいかたの両方があります。大きな手提げ袋に、財布から、あめ玉から、靴下から、文庫本まで適当に投げ込んで、出す時に、ごそごそかき回して探すなんてのは、集合論的なしまいかたです。

それに対して、電気の工具箱のように、ベンチやドライバーやら半田コテなどが、位置が決まったホルターに収められていれば、構造的なしまい方です。

【知識の収納】

 書類を整理する時に、フォルダーとバインダーというのを使います。事務所にいくと、書類キャビネットがあって、ホルダーという、厚紙をふたつに折りたたんで見出しを付けた物に関係の書類をしまってあります。

キャビネットの中で、ホルダーを置く位置は決まっていますが、ホルダーの中の書類を収める順番は自由です。ホルダーの中に書類をしまう仕方は集合論的で、キャビネットにホルダーを収めるのは構造的な収納です。バインダーは穴をあけたりして、紙を綴じてしまう収納です。

この場合、書類は順番が決まりますから、構造的な収納になります。
 図書館の本棚は基本的に構造的に本が並べられているのですが、最近はNDCの3桁目は、順番を無視して配架してありますから、その部分は集合論的でしょうか。

 書類を袋にいれて、しまうのは集合論的収納です。あまり集合論的な収納をしていると、中のものをみつけるのが大変になります。
 
 書類を綴じていなくても、それなりに並んでいれば、順番があれば、構造的な収納に近くなります。散らかしている机でも、本人にはそれなり秩序があって、かってに片づけられると困ることがありますね。この場合、書類しまい方は構造をもっていませんが、人間の記憶の中にに書類の位置が記録されていて、構造化されている事になります。

 大量の書類が風で飛ぶと、大騒ぎです。秩序を失って、片づけるのに時間を要します。ページでもついていれば、簡単に戻せますが、そうでないと、きちんと並んでいたものが混合されてしまうと、情報が失われる事になります。

【ふたつの連続性とエントロピー】

今、本棚が崩れて、本がバラバラになり、拾っているうちに完全に混ざってしまったとします。もとの本棚には、それなりの分類があって、きちんと並べられていました。ただ、番号とかはつけていないので、もう一度並べ直すしかありません。

そこで、まず数学の本、文学、音楽の本・・・とか、大まかに分けて、棚に並べます。それから著者の順とか、題名順とかに棚の中で細かく順番を並べていきます。最後に完全にもとどうりになったら本棚にしまいます。

 段々に集合論的だった本が、構造化されていきます。こう見ると、集合的と構造的と言うのは、連続的で相対的なものであると思われるかもしれません。それはある意味で正しいのです。ある要素のあつまりが、完全に基準によって検索出来る、一回で探し出す事が出来るとすれば、それは完全な秩序をもっている事になります。

それに対して、まったくバラバラで、片端からすべて探さないといけないとすれば、完全に無秩序という事になります。一つの棚だけ片付いていれば、その中間という事になります。実は、このような秩序の程度を表す情報学の尺度があってエントロピーと言います。

完全な秩序を1として、無秩序になるほど数値が大きくなります。詳しくは、別の機会にしますが、集合的と構造的という区分に程度差という捉え方を導入する場合には、連続的で相対的なものと考えていただいてかまいません。

【明確な区分としての収納】

ただ、知識の収納方法という事から捉える時、絶対的ではっきりと二分できる面もあるのです。袋に入っているか、綴じられているかは、物理的には些細な事ですが、知識をを扱う上では、はっきり分けられる重要な区分です。

自由席か座席指定か、実体として座席指定でも友人どうしで並び変わったりして曖昧かもしれませんが、扱いとしてははっきり区分できるでしょう。

とにかく定位置が存在する収納法と、そうでない収納法は明確に二分されます。

【分類と構成】

構造的と集合的な区分は、構成的な結合と、分類の違いとして、現れます。少し身近な例で説明してみましょう。

「□□は○○と△△から『なる』」と言うときの『なる』ですが、ふたつの意味に使われます。

  水は酸素と水素からなる。

と言う時の「なる」ですが、これは構成をしめしています。水と酸素という異なる要素が結合する事により、水というあらたな構成物ができます。これに対して、

  人は男と女からなる。

というのは、分類をしめしています。構成だとすると、結合して一緒になったものが存在しなくてはなりません。男と女が一緒になった存在物はないでしょう。半陰陽の中間の性とかありますが、これは問題が違います。男と女が一緒になって夫婦になるとか、家族を構成するとか捉えるなら構成物です。

分類と構成を区分するのは、一緒になってできる実体的な何かが存在するかどうかです。抽象的な概念ではなく、あくまでも実体的な構成物ができる事が肝心です。

 「会社は営業部と経理部からなる。」は、営業部と経理部を統括する社長なりがいる筈ですから構成的な結合です。「会社は、一般職社員と総合職社員からなる。」は、統合する機関はなく、単なる分類で集合論的なまとまりです。
 
分類の例

  人間    大人   子供
  生物    植物   動物
  料理    和食   洋食
  脊椎動物  鳥類   ほ乳類
  
構成の例

  文      主語     述語
  俳句     上の句    下の句
  肉野菜炒め  肉      野菜
  カルピス水  カルピス   水
  学校     先生     生徒
 
【知識の操作】

 集合的と構造的について詳しく話しをしましたが、この区分が大切になるのは、これから話す知識の操作について考える時です。

知識は操作されます。情報操作というような用法もそうですが、ここで言う「知識の操作」はより広い意味で使います。いくつか例を挙げてみます。

○ 知的な仕事の大部分は知識の操作に関わるものです。編集という仕事を考えてください。原稿が入ってきて、それらから適切なものを「選択」して、不必要な部分を「切断」して、順番を考え「配列」して、割付をして送り出します。

○ 「学問というのは、書物を読んで、切り張りして、また新しい書物を生産するだけの事だ。」とか揶揄される事がありますが、当たっていない事もありません。文献学とか資料編纂のような学問は、そのような部分が大きいでしょう。むしろ余計なものを「付加」する事は禁則手段です。

○ コンピューターは情報を操作するものです。ワープロで、文章を「コピー」、「貼り付け」、「カット」、「デリート」して、推敲しますが、これも身近な情報の操作です。
 計算の内部では、メモリーの上で、情報を「読み込み」、「移動」、「削除」などのいくつかの操作を順次行って複雑な操作に対応しています。

○ コンピューターの基礎部分では、0と1の二値からなる情報をメモリー上に読みこみ、その間で操作をする事により計算を行っています。その操作は、基本的にはいくつかの単純な操作だけに還元する事ができます。機械語の命令文は、様々ありますが、基本的な「PUSH」「LOAD」などの少数の命令に置き換える事ができます。

○ 情報の操作は「読みこみ」「移動」などの基礎的な操作に還元できるので、単純なデジタル回路の仕組みで、高度な計算も可能になるのです。機械語と呼ばれるプログラミングは、ごく少数の命令語で、複雑な計算をさせる事が可能です。

○ 日常的に考えれば、書物とノートと文房具を使っておこなっている知的作業というのは、知識の「受け入れ」、「切断」、「削除」、「並べ替え」、「複製」、「結合」、「送出」などの基礎的なものに還元できます。

○ 事務所の道具と言えば、ハサミ、ホッチキス、消しゴム、コピー機、などですが、それぞれ切断、結合、削除、複製などの機能を果たしています。それは知識の媒体に対する操作をしている事になります。

○ 生物の生殖は、DNAという情報を操作しているものと考えられます。遺伝子を複製したり、染色体を組み替えたりしつつ生物は変化していきます。大きく捉えれば、生命活動も情報の操作の過程のひとつです。

計算機科学、事務処理技術、遺伝情報について、ここで細かく説明は出来ませんが、それらの学問では単純に言えば、情報の操作について、複雑で高度な事象をより原理的な操作に還元する技術を体系化しているものと考えられます。

【情報操作の単位】

 「読みこみ」、「複製」、「削除」、「送出」などの操作が知識の対象に操作されると述べましたが、今度は操作される知識の対象について考えてみましょう。

 書類や文章やデーター、遺伝子などの形で、入ってくる「知識」ですが、操作される時に、さまざまな「まとまり」を単位として、操作される事が分かります。

 文書係の人は、封書を開封して、書類を綴じて、配列します。操作の単位は「書類」です。推敲をしたり、校正をする時の操作の単位は、単語や文字です。

遺伝子が操作される時も、染色体を単位とすれば、「組み替え」となりますし、染色体内部では「逆位置」や「転座」などがおこります。遺伝子の4文字コード単位に起こる操作なら突然変異のレベルの現象がおきます。

 万葉集や古今和歌集などのアンソロジーが編纂されていますが、あれほどの大事業が容易にできたのは、巻物だった事にあると言われています。別々の巻物に書かれた歌を切って、新たな巻物に貼り付けていけば、簡単に編纂ができたのです。歌一首という単位で、切断、削除、選択、貼り付けという操作をしていく事により編纂がされたのです。紙を巻物としたおかげで、基本的には、現代のDTPにある操作事項は、古の時代から技術を手にしていた事になります。

【同じ操作も単位が異なれば意味が変わる】

  猫が 魚を 食べた  ねこがさかなをたべた

という文を順番を変えるという操作をしてみましょう。文節を単位として逆転させると

  食べた 魚を 猫が

となりますし、音を単位に逆転させれば

  たべたをなかさがこね

となります。音を単位に逆転すると

  nekogasakanawotabeta  → atebatowanakasagoken 
                  あてばとわなかさごけん

になります。録音してテープを反対回しにするとこういう発音になります。

  魚を 猫が たべた

は文節単位での操作です。

  猫を 魚が 食べた

は単語単位での移動操作です。このように、同じ操作でも、何を単位にして操作するかはきわめて重要な事になります。

操作される単位は、それぞれの分野で、階層性をなして小さなものか大きなものまで存在しています。
 
  言葉なら、音、音節、単語、句、節、文 、文章 などです。

  コンピューターなら 二値信号 文字コード ファイル などです。

  生物なら 原子、4文字コード、トリプレットコード、オペロン、
  染色体、などです。

詳しくは、階層性についてのミクロコスモス研究学園の講義を参照してください。

【操作される事によっておこる現象】

要素がなんらかの単位で操作される事により、さまざまな現象がおこります。生物が染色体や遺伝子のレベルで生殖という操作を長年続けられる事により、微小単位の進化がおきます。言葉の創作と言うのは、言語のいろいろなレベルでの操作によってなされます。俳句の初心者が指折り数えて、17文字に単語を並べているのは、まさに知識の操作の現場です。 

 図書館学は、書物という知識単位に対して操作をする方法の知識体系と見なす事ができます。文献学は、原理として、文書あるいは小さくても文を操作単位とします。文の中の単語を入れ替えて意味を変えてしまう事は、禁止事項でしよう。

文書の中の意味に言及して、単語まで操作して解釈するのは、歴史学本体、あるいは歴史哲学の領域でしょう。このような言語の操作によっておこる現象が人文的な学問全体となるでしょう。

 広くとらえれば、この世界で起きている多くの出来事に対して、要素単位を設定して、その知識操作と捉えて描く事が出来ると考えます。人間社会は、言葉によって操作されますから、その複雑さは問題となるとしても、基本的に以上のような描き方が可能です。

例えば、法的現象と呼ばれる、裁判での判決操作も、法令と事案を言語化した訴状との間で行われる操作に還元できます。政治も経済も貨幣や商品などの適切な単位を設定する事により、単位に対する操作として、描き出す事が可能です。

どんな複雑に見えても、基礎には脳や言語の操作単位が基礎となっていますから、体系化は可能なはずです。複雑すぎて、体系化できないのは、操作される単位の設定が適切でない場合が多いと思います。以上により、知識について単位という事にこだわる理由が多少ともお分かりいただけるでしょうか。

哲学や思想史などの分野で、そのような事は可能かどうかと思われでしょうが、基本的に可能だと考えます。ある思想の根本的な概念を正しく定式化する事が出来れば、それに対する追加、反転、削除などの簡単な操作の連続体系として思想史を記述する事は、今までも多くの学者の夢でしたが、単位設定に難があり、全面的に成功はしていないでしょう。
 
人間の心のような複雑なものが、このような捉え方が出来るか疑問に思われかも知れませんか、それもこの知識学の目標でもあります。心性の知識単位については、後に詳しく論じます。

ただ、ひとつ予告しておくと、人の悩みや、心の混乱というのは、知識が集合論的になっている状態であり、悟りや知的や発見というのは、心性か構造的なまとまりを体系的に構成している状態だとして描き出せると考えています。

【操作される単位の区分】

操作される知識単位には、構造的なものと、集合論的なものの両者があります。袋に入れられた書類を並べ替えていれば、集合的な単位を操作している事になります。文の操作は、大部分は構造的な単位に行われる操作です。

コンピューターにおける命令も、構造的な知識に対するだけでなく、ファイルやメディアに対する操作が出来ますから、両者に対する操作をしています。

 人を説得して、思想を変えていく事は、構造的な操作ですが、人という知識単位を袋として考えて、殺したり牢獄に閉じこめたりする操作は、人を知識の入れ物として集合的に扱っている事になります。

 平和的な外交手段なら、言語による構造的な操作ですが、相手国の施設や人を破壊や強制的な移動によって操作しようとするのは、集合的な単位に対して、軍事技術的な操作を行っている事になります。

 人を人種や身分で括って、その内面やもっている知識を無視して、それに拒否や受け入れなどの操作をするのは、人を集合論的に扱っている知識操作です。
 それに対して、対話をしたり、カウンセリングをしたり、教育をしたりするのは、内面の知識に対して、操作をしあっている事で、構造的な単位に対する知識操作です。
 
このように考えると、知識操作における、操作される要素の単位性が、いかに大切であるかお分かりになると思います。

【今回のまとめ】

 世界のあらゆる現象は、知識のある単位要素に対して、いくつかの種類の操作が行われているものと捉える事ができる。そして、その時、操作される単位が構造的か集合的かが非常に大きな違いとなる。・・・これが大まかな知識単位学のこれまでの所のまとめです。

だんだんと応用範囲が分かってくるとおもいますが、知識単位というものにこだわって、お話している意図が少しずつでも理解して頂けたら幸いです。

【質問に答えて】
 
ひとつだけ、質問を頂きましたのでお答えします。

[質問]

「分類」と「構造」の違いはよくわかりません。分類というのは、「集合的なものに近い」感覚もあります。構造には、そこに「何らかの役割を担う」とでも言うのか。また、「分類」は「互いに作用すること」がなく、「構造」は「互いに作用しあうもの」だとかでしょうか。


[お答え]

分類は集合論的なものであるのは本日の講義で理解していただけたと思います。質問された方の「何らかの役割を担う」と捉えられたものは、本日の講義で「知識の操作」にあたるものだと考えますがいかがでしょう。

次回に講義しますすが、操作されるものと、操作するものは相対的なもので、操作するものも、コンピューターのプログラムのように知識でできています。その意味では構造がなんらかの機能を担うものであるとの考えは正しいとは思います。

 分類」は「互いに作用すること」がないとの考えは半分正しくて、半分正しくないう点があります。社会学における大衆や、崩れた本棚の書物などは確かに互いに作用しません。分類的な違いである男と女なら作用はしませんが、男と女で恋人というような構造的な結合なら相互作用のある最たる物です。

 ただし、それを扱う時となれば、また違う立場になります。本来内部構造をもち、相互作用をもつ若者を、ひとくくりにして扱えば、集合的な分類として操作する事になります。内部にさまざまな人間がいて高度な構造体である国家をひとくくりに悪性国家と括って、軍事的に殲滅させようとかすれば、集合的な扱いをしている事になります。

私の講義での集合論的と構造的の区分について、その用い方に少し混乱があるかもしれませんが、すこしづつ整理していきたいと思います。

またご質問ください。

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      今日はここまで ではまた。
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【お知らせ】 

対話をテーマとして「連短」ですが、そろそろ締め切りです。ちょっと伸ばしますので、数日中に多くください。

【編集後記】

 梅雨になりましたね。ちょいと、近所の海岸に夕暮れ時にいったら、海が雲に煌めいて、山には霞がたなびいて、刻々と変わる光に風景が見事な変化をみせてくれました。

海は波が低く、小さなさざ波の波紋が、左右に揺れ動きます。茜色とか言うのでしょうか、雲の色が海面の色に映えて、複雑な模様をしめします。 光の筋が、何本も自分の方に放射状に集まって見えます。

それらが、秒を時間単位として変化していきます。ちょつと眼をつぶって、また開くと、もう色彩の様子や霞は変化しています。

昔、マネが睡蓮の池の光を捉えようと、僅かな時間に大量の絵を描いていますが、もの凄い事に挑戦したものだと思いました。

写真を撮っても、多分、この美しさは固定できないと思いますした。

何か自然を捉えようとか、表現しようとか言う情熱は大切ですが、余計な事しないで、ぼっと、現実の自然をそのまま鑑賞するのも凡人の正しい道かとも思います。

人間が捉えなくても、海も太陽も山もずっとあるに違いないですから。・・・

  編集長
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ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部

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