─────────────────────────────
 ミクロコスモス研究版2004年5月16日「知識単位学3」
─────────────────────────────
                発行 ミクロコスモス出版
                編集長  森谷 昭一

──────────────────────────
ミクロコスモス研究学園 講義録 知識単位学 第3回
──────────────────────────
前回お話した、知識のまとまりについて、もう少し補足してから、次に進みます。

【知る事のまとまり】

 人間が知る過程は平板なものではありません。一定の速度で勉強を続けたとしても、「分かる」のは一定の速度ではありません。知るための努力と成果は直線比例はしないのです。いくつか例をあげてみましょう。

 「あっ、分かった。」という瞬間は、突然、そして瞬間的にやってきます。簡単なパズルを解いていても、数時間悩んだ後に、ふっと一瞬にして答えがでます。

 語学の学習などでも、分厚いテキストを一度読み通しても理解できない事が多いでしょう。そして、二回目もありま理解できず、3度目の学習のある時点で、急にふとテキスト全体が分かったように感じる瞬間があるもものです。そうすると、暗中模索だった各ページの文章が「手に取るように」分かってきます。

 発明・発見などのエピソードなどでも、「ひらめき」という言葉があるように、一瞬にして何か真理が現前に立ち現れるといった事があります。

 行者が修行をして「悟り」を得ていく過程は、ある一瞬でおきるようです。もちろん不断の訓練を継続的に行っているのでしょうが、成果は一瞬にしてやってきて、世界全体が塗り替えられる経験をもつようです。

 人間の成長をみていると、「なんだか急に大人になったな。」とか「急に歳とったみたい。」とか言われる時期があるようです。本人は気づかなくても、どこかにそんな展開点が存在する気がします。

 また一生を振り返ってみると、人生は平板なものではく、「闇の時代」「跳躍の時代」「絶頂期」・・・とかあるように、まとまりをもっている事が多いようです。
 個人の人生において、思想の展開点というものはあるものです。

思想や信条の「転向」、「回心」と呼ばれる出来事が知られていますが、思想の歴史的な分岐点が、ある思想家の中で、ある一瞬に起きるという記録は思想史の中に数多く記載されています。社会の変化は、個人の脳細胞におけるなんらかの不連続な変化によるのです。

 このように「知る」ことには、さまざまな不連続が見られます。と言う事は、知る事が何らかの「まとまり」、不均一性をもっている事を示しています。考えてみれば、ごく当たり前の事なのてすが、これらの断絶の原因を探ろうとすると、なかなかの難問である事が分かります。

どうして、このような事がおきるのでしょうか。知るための努力と成果がすべて直線的なら、物事を学ぶにも、教えるにもとても楽です。また、社会の進歩も一定の速度で、進んで事でしょう。もちろん、直線的な比例関係にある知識も多分にあるとは思いますが。

 また、戻ってしまう知識と、もう戻らない知識というものが存在します。悟りのような知識は、一度得ると、一生後戻りする事はありません。しかし、単純な記憶などは、活動をやめると時間とともに消えていくものもあります。確立されると、後戻りのない社会的な進歩というのも確かに存在します。

 もっとも、不連続だから、知る喜びがあるとも言えるかもしれません。長い日々の修練の末に、ある一瞬に何かを悟るように分かる事は、感動を伴うものです。

【知識のしまわれかた】

 どうして、このように知識というものは不連続があり、また「まとまり」があるのでしよう。いくつか理由があるとおもいます。大きくわけて2つの理由があるでしょう。ひとつは、知識そのものが「まとまり」で出来ている事、「結合」を必要とすることによります。もうひとつは、知識の「しまわれかた」による部分があります。先に知識のしまわれかたについて考えてみます。

 知識は何かにしまわれれて保存されます。入れ物に入れられると考えても良いでしょう。手紙なり書類なりが増えてくると、同じものをまとめて封筒にいれたり、バインダーに挟んだりします。何冊の本を全集ものとして箱にいれたりします。

図書館では、書物を書棚にしまいます。今でも秘書達の仕事は、書類をバインダーにいれて、ファィルキャビネットに分類してしまうことです。情報をしまうための道具はたくさんあります。文房具店にあるバインダーからホッチキス、ホールパンチ、綴じ紐まで、みな上手にしまうための道具です。

 情報をうまく取り扱うためには、うまい「しまいかた」をしなくてはいけません。「しまいかた」が悪いと、混乱して、必要な時に必要な情報が取り出せません。フロッピーやハードディスクやコンパクトディスクなどは、情報をしまう道具です。

 しまいかたと媒体は、同じような意味に使われてしまいますが、媒体は単に知識を乗せる固定的な物体であるのに対して、しまいかたは、その方法も含めています。書類をいれる袋は媒体とは考えられません。書類を綴じる紐やホッチキスも媒体ではないでしょう。でも、紙という媒体と同様に、紐や袋も知識を形成する上では、役割を果たしています。このように知識を担う物体を「知識担架体」と呼んでおきます。

 記憶喪失が特定の期間だけに起きるとか、心のありかたに不連続があるのは、脳への知識のしまわれ方による部分があるでしょう。脳の特定の部位に障害があった場合に、特定の機能や知識が失われる事を考えても分かります。

 書類を袋に入れたり、綴じたりする事により、そのまとまりを単位として、情報は運動していきます。なくしたり、棄てたり、運んだり、棚にしまったり、情報を操作する時には、綴じられた「まとまり」を単位として操作されます。
 
【結合による知識・近接効果】

 「あ」と「い」の文字を10センチも離して書いては、別々のものですが、近づけて書くと「あい」と読まれて、意味がうまれます。漢字の偏と旁を組み合わせる時も近づけて書く事により文字がうまれます。

このように、近づける事により、知識の単位が結合されて意味が生じます。これを「近接効果」と呼んでおきましょう。多くのものは、空間的に近接させるだけで、個々の部品にはない、別の第三の意味が生じるものです。

 文字は完全に隣り合わせにする近接効果ですが、絵画などでは、少しはなれた距離での近接効果があります。グラフィックデザインや書物の編集などは、文、図、写真などの近接効果による意味の創出を図る技術です。生け花や、庭における植木の配列を考える造園、店舗や博物館の各種ディスプレイなど、身の回りには近接効果による知識創出の行為が数限りなくみつかります。

 人間関係の近しさは、さまざまなレベルでの近接効果があります。地域による社会集団の形成が、人間関係を生み出すには一番基礎的で一番古いものでしょう。

 近づければ、なにか新しいものが生まれる。
 
これは当たり前過ぎて、いちいち言われない事ですが、知識を深いレベルから再考察するには、きちんと押さえておきたい事項です。

【時間的な近接効果】

 時間的に近接させる事によっても、新しい意味が生じます。条件反射をおこすと言うのは、ひとつの知識の現象ですが、これはベルと音とエサを時間的に近接させて与える事により、犬の脳の中に形成される知識のひとつです。

 文字による言語知識は空間的な近接効果による結合ですが、話し言葉は時間的な近接効果による結合による知識形成です。

 音楽は話し言葉と同じように時間的近接効果による知識構成です。歌や詩は朗読や歌唱によれば時間的な近接効果です。

 条件反射は不思議と言えば不思議な生物の反応です。音とエサという本来は無関係なものが「同時」というだけで結びつけられるからです。時は存在を生むとまで言われますが、時間的な近接効果は、考えてみれば、不思議なものです。生物という機構だけが持つ性質かもしれません。
 
【構造的な知識と集合論的な知識】

 ここらあたりかこの講義の核となる部分ですので、難しいですが、良く理解してもらいたいと思います。

次の設定をしておきます。

 知識のまとまりには、「構造的なまとまり」と「集合論的」なまとまりがある。

先の例で言うと、構造的なまとまりとは、文字が近接効果により単語になったような場合の事です。集合論的なまとまり」とは、書類を袋にいれた場合です。

集合論的と言う言葉をもっと正確に定義しておきましょう。数学の概念から来ています。

集合という考えがあります。整数の中に自然数があるとか言う時の考え方です。ABCDというカードを袋にいれて、CDEFというカードを別の袋にいれて、GFIというカードを袋にいれます。これで3つの集合ができます。そして、3つの袋を、大きな袋に入れれば、より大きな集合となります。

 この場合、大切な事は「集合は順序を無視して成立する」と言うことです。中のカードは中で、入れ替わっても集合としては、同等なものです。GFI  FGI  IGF は集合としては同等なものです。

 このように集合論的なまとまりとは、袋の中に豆粒が入っているようなものをイメージしてもらうと良いでしょう。豆粒が中で移動しても、重さや食料としての価値はあまり変わりません、中での位置関係とか順番などの構造を無視する事により集合は成立するのです。

数えると言う行為は、順番を無視する行為です。野原に放牧に出る前に、羊が123匹いて、帰ってきた時にも123匹数えたとします。数えるには、羊をいちいち名前をつけて整列させたりしないでしょう。一方、トランプや将棋の駒は、ゲームをしている時には、並び方が重要で、それを競うのです。構造なのです。でも、それも終わった時に駒を紛失していないか数える時には、順番は関係ありません。集合的に扱っているのです。

 このように、順番や配列などを無視して、数える事ができるのは、人間がものを「集合論的」に扱っている思考をしているからです。



【構造的な知識】

構造的というのは、樹の枝分かれした状態をイメージしてもらうと分かりやすいと思います。
 言葉のつながり方を示す方法として、変形分法などでしばしば使われる「枝分かれ図」というのがあります。(変形文法講座参照)単語と単語を枝のようにして結び、その結合点に「語」さらに、「句」、「節」、「文」などがきます。ひとつの結合をしめすその結び目を「節点」と言います。

この「節点」ごとにひとつの意味がしょうじます。このように全体が樹のような形になりますが、これで構造がしめされます。英語などでは、語順が大きな意味を持ちますが、言葉の並び方などの構造を良く示しているのです。

 変形文法の枝分かれ図は、文の構造を示すものですが、このような考え方を拡大して、論理や、各種の近接効果による結合に応用していったら、どうでしょうか。技術的に困難はありますが、いろいろな意味が、どんどん「まとまりがまとまりをつくる」階層構造を構成していく事がある程度分かります。

 言葉が意味をもつには、順番が大切です。英語などは語順で言葉の意味が決まります。ラテン語などは語順は無視されますが、ひとつひとつに単語の全体の中における位置をしめす目的で格変化が付されます。全体の中での単語がどのように位置づけられる、語尾の変化によるマーキングが行われるのです。

このように言語は音や単語配列という構造そのものが意味を成立させます。言語やその他の記号のすべてに言える事です。

 とにかく位置を入れ替えると、意味が変わってしまうとしたら、それは構造的であると言えます。

 遺伝子は、DNAの配列による情報です、塩基をひとつ入れ替わるだけで、重大な障害が起きる場合と、そうでない場合があります。入れかえても問題がなければ、無意味な塩基配列という事になります。

 一般的に知識とは「構造的」なもので、順番を無視した集まりは、「無意味」とされるのが普通です。単語を書いたカードをシャッフルして、出鱈目に配列しても、「意味不明」の配列が出来るだけです。

【補足】

 さて、本日はここまでにします。何か当たり前の事しか、言っていないとの印象を持たれるかもしれません。いままでの知識に関する哲学を、一度再構成してみたいとの意図をもっています。

そのため、日常の当たり前の事から始めて、専門的な哲学概念を再構成してみたいと思っていますので、そのように感じられるかと思います。

もう少し、後をついして聞いていただければ、その当たり前の事が、実は大きな問題を解く鍵になると気づかれると思います。また、次回もよろしく聴講ください。次回は少し、質問に答える時間をとるつもりです。

 ────────────────────────
      今日はここまで ではまた。
 ────────────────────────
【編集長より】

 前線が停滞したりして、なんだか梅雨のようですね。近年、記録を塗り替える気象データーが多い気がしますが。今週は野外に取材にいこうと思っていたのに、雨の予報が続きます。みなさん、体調はいかがですか。
                       編集長
 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
   編集長  森谷 昭一   

★ 編集部宛メール  公式メール 執筆者・編集部員に
           内容のみ転送の場合あり。

   micos@desk.email.ne.jp