──────────────────────────────
 ミクロコスモス研究版2004年5月10日「知識単位学2」
──────────────────────────────
               ミクロコスモス編集部

────────────────────
 知識単位学 第2回
       担当 森谷 昭一
────────────────────


 第二回は、知識の単位性について復習から始めましょう。

前回では、知識学を単純な設定から出発してみようということで、

 「知識は、『まとまる』ことにより成立する。」

という設定から始めました。今回は同じような設定ですが

   知識にはいろいろな「まとまり」がある。

という設定をしてみましょう。似ていますが、少し意味が違います。

 一冊の書物は、ひとつの知識です。一冊の小説を読み終われば、読み終えたという感慨とともに、ひとつの「なにか」を得た気がするものです。編集によりいくつかの小説を集めたものや、詩のアンソロジーのようなものとなると、また別の形の「まとまった知識」になりますが、分離していて、一冊ずつ持ち運べる独立した書物というのは、知識のひとつの単位といっても良いでしょう。それを分析すれば、章や段落や、さまざまな知識の単位が下位にみられます。

 図書館の棚にいき、本の集合にふれると、一冊の本とは異なる別の知識を、そこからを受け取る事があります。良く大学図書館などで、○○○文庫と言うコーナーがあって、特定の学者や文人の収集した書物を独立してまとめてあります。数千冊の書物の集積は、その読書家の人生なり個性なりを表して、それなりの感慨がわくものです。蔵書そのものが知識となるのです。

書物ひとつひとつは、同じものでも、他の書物の組み合わせの中に配置されると、別の意味をもつてくるものです。天文学者の書棚にアインシュタインの論文があるのと、詩人の書棚に詩集とともに方程式の並んだ論文があるのでは、違う意味をもつでしょう。

【教授法の知識単位】

 良い先生の授業と、そうでない先生の授業はどこが違うと思いますか。いくつか違いはあるでしょうが、そのひとつとして、「まとまりのある」授業と言うことだと想います。次々と話を続けるのだけど。どうも眠くなる授業と言うのは、部分部分は分かるのだけど、全体として何を教えたいのか伝わらない授業です。まあ、今の私の授業が見本かもしれないのですが 、要点のみつからない知識というのは、あまり良い知識ではないようです。
 良い授業は聞き終わった時に、ひとつのテーマなり、感慨なりが、受け手の中にわき上がるものです。「ああ、なるほど。」といった気持ちや、「分かった。」と言うひとつの「まとまった」気持ちが聞き手に生まれるのが良い授業だと言えるでしよう。

 教授法という学問があります。教授法では、知識を一度分解して、授業の中に再構成するために、いろいろな「まとまり」、知識の単位、を方法として成立させます。「単元」「細単元」とか言う用語は、教授法における知識の単位のひとつです。カリキュラムも教育学における知識単位です。

教師はひとつの「問い」を発して、それを中心にして、あるまとまりを作ったりします。

「塩が溶けると、元にもどらないのかな?」

などと言う設問をして、順次実験をして、説明をして、ひとつの結論にもつていったりします。その中で、生徒は「ああ、溶けるってのは、消えるのではなくて、混ざるだけなんだな・・」といった、「ひとつの知識」を得ていくのです。良い教師は質問上手であると言われますが「問いと答え」という、ひとつのまとまりを作る事により、知識を生徒の中に浮かび上がらせる事ができるのです。

 営利的な塾業界などでは、業界用語として「おみやげの持ち帰り」と言う言葉があります。やってきた、生徒に一日に一つで良いから、何か「分かった。」、「何か学んだ。」と言う実感をもって帰ってもらうようにしろという事です。営利的な教育機関としては、顧客である生徒が、対価に対して、何かを持ち帰らないと、営業成績にかかわるからです。

 何かひとつ目立つ事項を決めて、ひとつのまとまりを作っておく事が、生徒には「おみやげ」として実感されるわけです。かなりの金額を払う講演会などでも、ひとつの感慨を受けないと、何か損をした気分になるでしょう。まとまりのない知識は、受け手にとって意識にのぼらないということです。

【心理における知識単位】

 「ひとりの人間はひとつではなない。」と言われます。ひとりの人間の中にも、見つめてみると、別の自分がいるように感じます。いやいくつかの「自分」がいて、共存したり、戦ったりしているというのが大多数の人の感じる所でしょう。人間という知識の集積体を構成する「知識構成要素」として、さまざまな心理学上の知識単位があるのです。

 「無意識の自己」「自我と自己」「集合無意識」などの言葉で分析される無意識世界も、複雑な知識の構成要素が人間心理の中に含まれる事を示しています。カインコンプレックス、シンデレラコンプレックス・・・様々な無意識の心の知識の単位が独立して、人間の中に仕舞い込まれていると言っても良いでしょう。

 事故で、頭をうって記憶喪失になる場合があります。一時的に記憶がなくなる場合でも、すべての記憶が一斉になくなるのではなく、特定の一年間の記憶とか、特定の分野の知識とか、部分的に記憶が喪失します。そして回復する時は、部分ごとにまとまって回復します。これは、脳の損傷を受けた部位ごとに、違う記憶が保存されている可能性を示唆しています。

このようなことを「脳の機能局在」と言いますが、脳は部位によって違う機能があり、また記録されている情報が違うのです。だから、損傷を受けた部位によって失われる記憶が違ってくる訳です。脳の解剖学的な構造が、人間心理の構造に関連している事はある意味では確かなな事です。脳の構造性が、人間の知識の構造に関わることは、確かなことと思えます。

 二重人格、多重人格などの例や、意識で抑えられない自分の存在などからも分かるように、人間というのはきわめて複雑な知識の単位構造をしている事が分かります。
 
【コンピューターにおける知識単位】

 プログラミングをしている人は分かると思いますが、コンピューターを上手に操るには、情報のまとまりを理解して、「構造化」する事が肝要です。プログラムにはさまざまな、単位があります。プログラミング言語において、何行かのプロクラムをまとめて、「アルゴリズム」という単位をつくります。そして、これを「サブルーチン」や、「関数」という単位にまとめあげ、そして、それを共通に利用したり、再利用したりします。

小さなプログラミングの単位を組み合わせ、より大きなプロジェクトにまとめあげていきます。 タスク、ジョブ、カプセル、などの用語はみな、プログラムにおける「まとまり」、情報の単位を示しています。

 情報のしまいかたも、いろいろの種類のまとまりを作っています。クラスタ、ファイル、レコード、フィールド、トラック、シリンダ、ボリューム・・・などはすべて情報のしまい方の単位に関する用語です。

 上手にコンピューターを使いこなすには、いかにうまく情報の「まとめ」、構造化するかにかかっています。

インターネットの成功の秘密は、多重的な「編み目」構造をした事によると言われています。樹木のような階層ではなくて、一カ所へのルートがいくつも存在する事により、ミスが分散され、中央集権でない、分散化された情報網が出来た事によって、世界の知識のあり方を変えたと言われています。そこにも、いろいろな情報のまとまりが見られます。

今や、コンピューターの中で歴史がつくられていく時代です。戦争も、戦争に対する民主的な活動も、どちらも、今やコンピューターの世界で執り行われているのが現実です。未来の歴史学者は、古文書を解読するかわりに、古いハードディスクを解析する専門家になる事でしょう。

別の講義で、詳しく分析したいと思いますが、コンピューターは構成的に知識の世界を構築していきます。そこで提供される知のモデルは、これからの知識学にとってきわめて重要なものです。

【知識の乗り物】

 さて、もうひとつ、単純な設定をしておきます。次に示すものです。

 知識の現象には、知識と、知識の乗り物がある。
 知識の乗り物を媒体と呼ぶ。

解説します。文字は「紙」なり「羊皮紙」なり、「木簡」なりに記録されます。空中に書いても、記録されません。情報を「保存」するには、何らかの固定的な物体に痕跡を残す事が必要です。知識を保存するための固定的な物体を「記録媒体」と呼びます。石、木片、竹、バビルス、紙、蝋管、レコード、テープ、フロッピィ、CD、ハードディスク・・・・様々な媒体が現れてき消えていきました。

 知識の媒体になるものは、人為の世界だけではありません。人間の脳、あるいは身体全体は、大量の情報をのせています。生涯の記憶量としたら、相当な量になるでしょう。神経細胞のどこにどのように情報が乗せられているか、不明な事が多いのですが、脳細胞や免疫細胞などがを情報の媒体と捉える事もできます。ただ、テープや紙のように真っ白な存在ではなく、それ自体で構造をもっている知識でもある媒体である可能性があります。

 社会を知識の媒体と捉える事も可能です。うわさやデマが、ひとりひとりの意志と反して、暴走していく時があります。もちろん個々の人間の脳が媒体なのでしょうが、その広がりを考えて論じるなら、社会全体を媒体と捉える事ができます。

 社会全体に書き込まれた情報が文化と言えるでしょう。言語はその一番大きなものです。実体的には言語は社会を構成するひとりひとりの人間の脳の中に書き込まれているのですが、それが千年にも渡って永続していく事を考えれば、社会全体を記録媒体と捉えて考察するのも有意義です。

社会現象と呼ばれるものは、脳細胞が媒体なのでしょうが、その集合体を考える時に、どのようなモデルを想定すべきか問題となるでしょう。

 生物の遺伝情報は、DNAとある種のタンパクが媒体です。遺伝子の乗り物として染色体を考える事も出来ます。精子や卵子などの配偶子も遺伝子の媒体として捉えられます。花粉、種子、卵子などの情報の媒体の伝搬によって、生物はより広い範囲に生命を広げていきます。生物そのものが、情報の媒体と捉える事もできます。

 すへての知識・情報には必ず媒体となるものが必要である。

と仮定してみましょう。あるゆる知識の媒体を考えてみましょう。

例えば法律という知識は何が媒体でしょうか。公文書館やら法制局やらに保管されてい原本の紙は確かに媒体の一つですが、これが焼けたからといって法律が消えるわけではありません。大量に印刷された六法全書のすべてを集めて燃やしても、法律はなくならないでしょう。みんなの記憶に残っていれば、法律です。

慣習法となれば、さらにそうで、媒体は社会であるといっても良いし、脳細胞だといっても良いでしよう。もあ最近は法律も膨大にになって、記憶にたよるのは無理でしょう。まあ、裁判官が判決の書類をワープロから消去して、判決が遅れたなんて事がありましたから、ハードディスクが媒体になる可能性は高くなっているようですが。
  
【媒体は知識のあり方を左右する】

 知識のあり方は、媒体に大きく左右されています。伝承という脳細胞を媒体とする文化から、文字を発明して石なり、亀の甲羅なり、木なりを媒体にした文化への移行は歴史の転換点でした。また、石に文字を刻む文化と、紙を利用する文化では、文化のあり方が大きく違います。

そして、印刷が可能になって、文化のありかたは、また急変しました。文明のあり方は知識の媒体の変化によってかえられてきたのです。ここ十年ばかりの間の、記録媒体の急成長は、文字から画像、そして動画でのやりとりと、急変してきている事はご存じの通りです。

 少し細かい観点から、媒体のありかたが知識を左右する場合を考えてみます。画家や書家は紙や筆の質にこだわります。そこに描かれる絵や文字のありかたが媒体である紙に大きく左右されるからです。木炭を使った素描などでは、紙の模様が直接描かれるものに反映されます。

タッチ、マチエールなど様々な用語がありますが、媒体の性質との対話に画家や書家は力を注ぎます。古代に粘土板に文字を刻んだ筆記家や羊皮紙に文字を描いた人達も、媒体の性質と対話していたはずです。そして、その性質に知識のありかたも左右されていた事は確かです。

 ただ、そのような媒体の性質を平均化して、できるだけ平滑な記録の出来る方向に向かっていくのが近代化の流れだったかもしれません。紙はできるだけなめらかで白くされてきたし、筆から鉛筆さらにボールペンまで、より媒体が知識に口出しできないように進化させられて来ました。レコードからCDへと雑音は減少させられました。

そして、情報のデジタル化により、究極的に知識が媒体の性質から分離されてきました。墨の濃淡で、言葉の意味まで表現していた仮名文字の表現世界はそこにはありません。

【知識と媒体との区分】

少し細かい事ばかり話しましたが、知識の現象を捉える時に、知識とその乗り物である媒体とを区分して考える事は必要です。しかし、完全に区分して考える事の出来ない事も説明しました。媒体が知識を変容させる事を考慮したとしても、知識のありかたを考える上では、この区分は大切になります。

 知識の媒体にこだわるのは知識の実体を突き止めるたいという欲求から来ています。どうして、 知識の実体という事にこだわるのでしょうか。2つの例をあげます。

 今、コンピューター画面には世界の情報が集約されて表示されます。クリックひとつで、世界中の膨大な情報にアクセスする事かできます。まるで、そこに世界があるように錯覚すらするバーチャルリアリティの世界が作られています。

コンピューターの実体的な仕組みをしらないと画面そのものが知識の媒体であるかのように受け止めがちですが、そこにある知識の実体は、どこか遠くにあるサーバーのハードディスクにあります。少しでも機械的な知識があれば、画面の上の情報の実体的な媒体をつきとめる事ができますが、多くの人は仮想空間を実体と受け止めがちです。

コンピューターを介して、通信を行なえば、画面の向こうには、ひとりの人間がいて、その人間と対話しているのが事実なのですが、距離を隔てて、画面によって遮断されれば、まるで機械と対話しているような錯覚を得てしまいます。このように知識の実体をいつも把握する姿勢をもたないと、情報化社会においては、一部の人間は仮象の世界に翻弄されかねない可能性があるのです。

 ふたつ目です。どんな知識も実体となる媒体があるとする事と、そうではないと考える事は、哲学上きわだった違いとなるのです。実体つまり媒体をもたない知識があると考える事は神秘主義と呼ばれます。言葉にならない知識、実体的な媒体を持たない(目に見えない存在)があるかどうかは、有神論、無神論の違いとなっていきますから、綿密に取り扱う必要があります。この講義では、そのような古くからの論議には入り込まないようにします。

その答えはさておいて、知識の実体・媒体を探す姿勢だけはもつべきと考えています。
 抽象的でとらえにくい知識があります。「神」「美」「真理」「こころ」「霊」「生命」などと言う知識に対して、その媒体、実体を考える事はある部分で可能です。「いのち」の実体的な媒体は、大量に分散されている種子や胞子や卵子などです。あまりに大量で分散されているので、抽象化しがちですが、それらが一斉に消失すれば、種が絶滅するように生命も絶滅します。

美や神などの概念も、多くの人間の脳細胞のある部分に同じ情報が分散されて乗せられていると考える事もできます。それが良いか悪いかわかりませんが、そのような追求のしかたは試みてみたいと思います。

さて、本日はここまでにします。知識とその乗り物という考え方とその問題点を理解していただければ、結構です。


さて、次回からの予定ですが、次のようなテーマが今、頭にあります。この通りにはならないと思いますが、おおおよそこのような方向で講義していきたいと考えています。考えながらの授業で、分かりにくいとおもいますが、どうぞ一緒につくるつもりで参加してください。


 知識担架体
 集合論的知識担架体と構造的担架体
 ふたつの体系性 集合論的と構造的
 知識の操作と操作体
 知識の成立と結合体
 知識の地図と知識世界
 知識の計量と知識距離
 知識の構造
 上位の知識と下位の知識
 分類の問題
 最大知識空間
 知識単位の発見と新規作成
 知識単位学の構想
 知識単位学の応用分野


 ────────────────────────
      今日はここまで ではまた。
 ────────────────────────

【編集長のつぶやき】

春は毎日眠いですね。気持ちが良いからかな。梅雨が近づくと、だるくて眠いですね。夏は暑くて眠いです。秋も、静かでねむいですね。冬は寒いから寝ていた方がいいですね。要するに年中眠いのですわ。食べてねていたら、それだけて幸せかも・・・人生の目的は寝ている事か?・・・・・眠いから、そんな事も考えるのはよそう・・・本日の記事は長いので、途中で眠らないでください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
   編集長  森谷 昭一   
★ 編集部宛メール  公式メール 執筆者・編集部員に
           内容のみ転送の場合あり。

   micos@desk.email.ne.jp