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 ミクロコスモス教員版2003年3月20日教育コラム「ほめる事・叱る事」
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     教育コラム
    「ほめる事・叱る事」
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 「人を育てるにはほめる事が大切だ。」これはあらゆる教育についての書物に書かれている。そして、その道の達人達も良く口にする言葉だ。それは、正しい事ではある。

旧体制の日本のスポーツ界の指導者のコーチング等に対する批判の言葉等と受けとめれば、それはとても正しい。

 だが、このような言葉を読んで、「その気になった」ような指導者の言動も指導法もどうもいただけない時がある。ほめ方が何か定型的で、心から信じられないのである。

敏感な子供なら、本当にそれが正しい自分への評価なのか疑いたくなるような「口癖のようなほめ言葉」も多い。

 そして、人間が成長するには「うち砕かれる」事もきわめて大切だ。嘘のようなほめ言葉で、塗り固められたら「馬鹿殿様」にでもなるしかない。

自分は優勝確実とうぬぼれて、コンクールに応募してひどい評価を受け。さらに優勝した優れた作品をみて、さらに打ち砕かれる、そんな経験を積み重ねて人は成長するものである。

 最近は確かに、ほめられる経験をもたずに育った子供も多い。一方で、叱られる、打ち砕かれる、否定される経験をもたずに育った子供も多い。それは、どちらも悲劇である。

 ほめる事と叱る事を対立させて、そのバランスなんて事を考えてしまいがちだが、どうもこの「ほめる 対 しかる」の対立の図式がどうも誤りのような気がする。

 人間にとって大切なのは、ほめられる事でも、叱られる事でも、そのどちらでもなく、「正しく評価」される事なのだ。それも、指導者の主観ではなく、絶対的な座標での「位置」を知らせる事なのだ。

 ほめるのでもなく、欠点ばかりを叱るのでなく、正しく到達した位置を知らせる事に、教える者は力を注がなくてはならない。それは、教育の仕事の大きな部分をしめる重要事項だ。

 だが、その時気をつけなくてはならない事がふたつある。ひとつは、指導者は到達したと言う事実を正しく評価して生徒に返す事である。

地図もない所で10キロを歩き通す訓練をしたとする。歩いた経験のないものは、5キロ地点を2キロ地点と思いこんだり、8キロ地点とおもったりする。

その時に大切なのは5キロ地点を5キロ地点と知らせる事だろう。「ほめなさい」と言うのは、5キロ地点で5キロも歩けた事を正しく知らせて、そしてそれを共に喜びなさいと言うことだろう。

そして、同時にまだ5キロある事を知らせる事が叱る事、否定する事になるのだろう。ほめるとか叱るの問題ではない。

 もちろんこのような評価を系統化している教育システムや制度はある。コンクールや、段位や級のシステムなどは、絶対的な位置を知らせるシステムである。その精度や有用性の論議は別にして、とにかく有効な評価システムにふれるだけで、子供は伸びていく。

 ふたつ目は、これから先の具体的な方策と、目標設定を伝える事だ。ただ、頑張れと言うのでは、親の愛としては正しいだろうが、指導する事を専門とする立場としては失格だ。

今5キロ、次の6キロ地点までは、○○して歩けと、具体的に言うのが指導なのだろう。その道を歩き通した経験のある指導者だけに出来る事なのだ。歩く道の地図を頭にもっている人なら、正しく初心者に絶対的な位置と共に、次の方策を与える事もできる。

 うまい指導者は確かに頻繁にほめているようにみえる。だが、良くみていると、それはほめるのではなく、正しく評価して、次の指示もしている事が分かる。その言い方は

  「上手いね。凄いね。」

というように、抽象的ではなく、

  「さっきの時より、高く伸びるようになったね。今度は」

  「縦の線が、まっすぐに書けるようになって来た。今度は横だね。」

  「一度だけどできたね。あと100回くりかえせば、確実になるよ。」

のように、きわめて具体的だ。

こられは、いわゆる「ほめている」のではなく、正しく指摘しているだけだ。正しく指摘される事を必要とすると言う意味では、「ほめる」事は大切だろう。だが、その言葉を誤解してはいけない。

 その道の達人の稽古やレッスンは、正しく「ほめて」そして同時に、「うぬぼれ」させたりせずに自然に「打ち砕き」も行っている。

一流の音楽家のレッスンなどを見ていると、正しい知識の世界の地図をもった人間の指導の適切さを感じさせられる事が多い。

適切な知識の地図をもって指導すれば、「ほめる対しかる」の図式は超克されていくものだろう。

 さて、これは指導を専門とする者の話だが、親子あるいは家族での「ほめる・しかる」は、どう考えたら良いだろう。

子育てにおいては、親子共にあらかじめ進む世界の地図を持てない。多少とも人生を長くやって先に歩いているとは言え、長い人生のスケールで言えば、子供も親も共に知らない道を歩くようなものである。

 ほめ上手、しかり上手な親というのはいるものである。それは大抵は、ほめるとか叱るを意識したりせずに「自然体」な親である。

自らが、芽が伸び、葉が開くといった自然の日常的な営みに驚き、喜ぶ事ができる親ならば、子供の成長を自然に喜び、それがほめる事と同値になっているだろう。

そして叱る時、意図してそうするのではなく、「穴に落ちそうになった時に、自然に大きな声で注意する。」、それが人からみれば、叱る姿になっているような人と人の関係である。

そのような親の持つ地図は小さな世界の細かい地図でなく、「より大きな縮尺の地図」をもっている。つまり広い人生観や世界観を確かにもっている。それが自然体で、親子共々自然に喜び、危険を察知して先に進んでいける原動力になるのだろう。

より大きな世界観をもてば、子供の存在そもののをほめ、より高いものの存在に叱られることが可能になる。

 ほめられる経験、叱られる経験、共に不足している子供が増えている。それは社会全体として、大人が知識の地図を持てなくなってきているからだろう。確実な座標なしに、正しくほめる事も、叱る事もできない。

ばらばらな情報量は増えているが、確固たる座標系をもった知識の世界像が崩壊しているのが現代である。それが、教育の混乱や、家族関係の諸問題を生み出しているのではないだろうか。

 絶対的な位置を知らせる制度としてのコンクールや検定制度などがあるとも書いたが、そのような制度は本当に理想的に知識や技能の世界の地図になっているだろうか。

現実には、「学歴」やら「優勝歴」「検定資格」などに様々な問題があり、真実の知識の世界の座標系になりえていないのは大きな教育問題ではある。ではどのような、より正しい知の世界の絶対座標系があるのだろう。

教育に携わるものは、それを細かく再構築する必要がある。そして、大きな全体地図を持つことが、正しくほめてかつ叱る基盤なのだろう。

 「ほめる事が大切だ」のような言葉は多いが、くれぐれも皮相的な受けとめ方ではけいない。子供達に、すぐに「叱られる」結果になるのがせいぜだ。

ほめるのでも叱るのも本当は必要は無いのかも知れない。「知の世界を共に歩む者が、今、どこにいるかを互いに知らせ合う。」考えてみれば、それだけの事なのだ。

                    Y/T
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      今日はここまで ではまた。
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【編集部より】

 本日は教員版ですが、あまり専門的ではないので、総合版読者にも送付いたします。

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ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
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