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ミクロコスモス大学報2003年1月14日「構造の外に出る」
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             発行 ミクロコスモス研究学園
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         構造の外に出る
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  はじめに

 構造と言う言葉は、学問の世界では、すこし面倒な意味をもたされている。構造不況、建物の構造解析などでもお馴染みの言葉だが、実は深い意味で用いられる。

そして同時に、使い手により、非常に多義性のある言葉だ。本稿では、構造という言葉の一面を紹介して、学問一般への取り組みの姿勢をもってもらえる事を願って書いてみたい。

 血液型の社会的意味
 
 自己紹介に血液型やら星座やらをつけるのが巷では、常態化している。血液型で性格やら相性が分かるという事になっているからだそうだ。さて、血液型で性格が分かるか、果たして血液型と性格が相関関係があるのかどうか。

実は、血液型発見の直後から、様々な人の性質との、関わりについて膨大な研究が残されている。それらは、今から評価すれば、骨折り損だった種類の研究なのだ。

民族によって、血液型の頻度は違うから、世界規模で、なんらかの統計処理をすれば、もっともらしい数値はつくれてしまうかも知れない。しかし、高度な有意差を見出す事はこれからもないだろう。

これが、「輸血における血液型の相性」であったら、きわめて高い相関性をもつ真理であるが、そのような確実さと比較したら、性格と血液型のの関連などは、自然科学の基準からすれば、ほぼ否定される命題である。

 では、なぜ今も「血液型○○判断」などか、行われ続けるのだろう。科学が進歩して、高度情報化社会になれば、否定的なデーターを豊富にもつ命題なぞ、すぐにも消えていくはずである。しかし、むしろ年々血液型や誕生日による占いなどは、流行していっている。

 血液型うんぬんを話題にして人間に、「そんなのは誤った説で、否定されている。」とか説明すると、大抵は「血液型信じないの?」といった反応が大部分である。

「信じる、信じないの問題ではなく、事実ではない。」と説明しても、大抵は無駄である。知識が足りないからという訳でもなく、博士号をもつような人物でも、こと血液型やら「動物占い」やらになると、妙に熱中していたりする。どうしてだろう。

 ひとつには、相関などまるでない誤りの真理であるからこそ、流行るのだとも言える。性格とは無関係の意味のまったくない、血液型という人の表徴だからこそ、占いやら、自己紹介という「遊び」に用いる事ができるのだ。

これが、血中の特定のホルモンの値だの、特定の部位のDNAの配列とかで、関連が明白であったら、遊びにならない。

骨相占いと言うがあるが、体格や、骨の形を表徴にとって占うと、事実との相関が高くなる。顔つきと性格は、遺伝子の連鎖関係のせいだろうか、だれでも気づくように関連は高い。だから、骨相占いは流行らない。あまり当たっては困るのだ。

自己紹介の時でも、最初から、体重やら本籍地やら、学歴や、思想信条やらを紹介するのは、初対面においては、はばかれられる事が多いだろう。自己紹介したという事実だけが必要な時、あるいは本当は自己紹介などしたくはない時はある。そのような時、血液型やら、誕生の星座などを適当に羅列しておけば、「つきあいの形」は成立する。

今の時代、誕生日などの個人情報の開示は、いろいろ危険を伴う。多分、そこら辺が血液型を「名乗る」実利的な必要性なのだろう。

 だか、そのような事を外して考えても、血液型を教えあう行動は続くと思われる。個人情報の開示がなんら危険性をともなわず、むしろ素性が知れている仲でも同様である。なぜ、人は、このような「非科学的」な現象にこだわるのだろう。実は、これが「構造」と呼ばれる、概念を理解する入り口になる。

【構造とは何か】
 
 血液型や誕生日などの表徴で、人を分類するのは、それらが「構造」をしているからである。一番簡単な構造の例として、「じゃんけん」がある。「ぐう、ちょき、ぱあ」という記号(石、ハサミ、紙でもなんでも良い)の間には、「三すくみ」の関係がある。この関係性を「構造」と名付けるとしよう。

A B AB O という四つの「記号化」された人の表徴は、さまざまな構造をもたせる事ができる。4×4で16通りの組み合わせができるという単純な「構造」でも良い。

Oだけを別分類として、その他とのかみ合わせを考えても良い。たんなる碁盤の石のようなもので、どうでも並べる事ができる。

一方で人の性格を示す言葉にはかなり数多くある。「明るい、暗い、湿っている、諦めが早い・・・」これらも実は無定型で、明るいとはどういうことか、何ルックスとか測定できるような客観基準ではない。

性格という言葉そのものが曖昧で実体があるようで、実ははっきりしない概念なのである。

だか、そこに用いられる「言葉」例えば、明るい─暗い 鋭い─鈍い まあるい─角張る」のような対立構造を構成する事はできる。これらを組み合わせる事により、言葉の方に「構造」を作成する事ができる。

どのうよな構造をつくるはか、占いの創設者なり、雑誌の執筆者の勝手な「恣意」で良い。とにかく、分かりやすい構造をもっている事だけが、大切なのである。

あとは、血液型という「構造」と「性格を示す言葉の「構造」を結びつけて、より大きな「占い」なり「相性判断」なる「構造」をさらに作成すればよい。いや、構造をもったものなら、創作されると言うより「発見」されて自動的に結びついていく。

これらは、個々の人間が意識しない社会全体の言語生活の中で進行していく。習ったわけでもないのに、自然と分かって面白がるのは、この無意識の構造に、個人が取り込まれるからである。

  人類学での構造主義

 このような考えを押し進めたのが、「構造主義」と呼ばれる、思想展開である。学説史をたどる余裕はないが、言語学に始まり、人類学で定式化され、後にあらゆる学問に浸透していった学問の方法論の潮流である。ひとつだけ、人類学での理論を紹介してみよう。

 世界の少数民族の中には「トーテム現象」とよばれる社会組織をもっている民族がある。いわゆるトーテムポールの「トーテム」である。

あのポールには、いくつかの動物の姿が彫り込まれているが、トーテムと言うには、その社会の構成員を「私達はワシの子孫」「あの人達はクマの子孫」というように、動物をシンボルとして、社会を分断するのである。

そして、その分類された「トーテム族」どうしに、どれとどれは婚姻が出来ないとか、クマ族からワシ族のみに嫁に行けるといった複雑な法体系が張り巡らされている。

これらが、その民族の経済から、政治までを統率する原理になっているのである。

そして、どうしてクマとワシ族で婚姻ができないか、訊ねると「神話」によって説明される。とにかく、科学的なな因果関係では、説明できない、一見非合理な現象である。

これらが、「構造」と民族学では呼ばれている概念である。社会の成員にとっても、実は説明不可能な「社会の規則・慣習」「説明原理」なのである。

民族の外から客観的に観察すれば、不可解で合理性を欠いているが、分析してみるとかなり精緻な構造をしている事がわかる。そして、最終的には血液型と性格のとの結びつきのように、科学的な因果関係では説明できない結合のしかたをしている。

 近代社会も、例外ではない。中国・朝鮮・南アジアなどでは「本貫」とか「氏族」とか呼ばれる、戸籍にも記載される分類があり、その間では今でも婚姻関係を結べない。その是非を科学的に論争しても無駄で、社会の制度としか言いようがないとされるが、「構造」なのである。

【現代における構造】
 
 構造と言うものの捉え方を修得して、社会をみてみると、現代社会も「構造」に満ちあふれている事が分かる。「車のナンバー(品川・湘南・足立・・)」などで、所有者を分類して品性を当てはめたり、髪型で人格を分類したり、人々が機能以上に服装や車やハンドバックなどの表徴にこだわるのは、みな「構造」と解釈可能である。

 構造主義者達は「文化そのものが『構造』である。」とも言う。確かに考えてみれば、因果性では説明のつかない非合理な慣習は多い。どうして、葬式は白黒幕で、祝いは赤白か。どうして、牛は神聖で、豚はけがれているか。

ハレとケとは何か。なぜ、成人式には装いをして祝うのか。社会慣習の大部分は、歴史をたどっても、科学的な合理性をもとめても不可解なものばかりである。

 構造主義者達は、これらの分析、特に親族構造や「神話」の解釈に分析手法をうち立てて、明快な説明を試みている。それらは、うなづけるものも多いが、どこまで、あらゆるものが、分析されうるかは、難しい。

一部の構造主義者の考えでは、「社会はこのような「構造」が網の目のように、張り巡らされた構造体で、個人と言う存在そののが、網の目の結節点に過ぎない。」とされた。

きわめて決定論・運命論的な主張を展開したのだが、そこに発生的手法や個人の「構造創製」などと、実存主義的な手法をもちこんだりものもいる。

構造の眼で、世界をみれば、神話、宗教、文学、芸術、から生物の形態、コンピューターのプログラミング、数学まで、あらゆる事が捉えられる。

このような学問の方法、世界の捉え方が「構造主義」または「構造分析」である。人類学者達が神話にほどこした精緻な分析は美しささえ感じさせるものであるが、すべてに有効であるかはまだ不明である。

構造と言う概念をおおざっぱに解説したが、詳しくは、各講座を聴講してもらいたい。最後に、学問に対する姿勢について、一言述べて本稿を終わりたい。


【学問とは何か】

 学問とはなにか。本大学でめざす学問とは何かを書けとの注文であるが、学問とは、要約すると「構造の外に出る」事であると思う。

見えない社会集団の無意識の構造に個人が支配される事を「構造にとりこまれる」と言うことにしよう。意識した上で楽しんでいるなら別だか、本気で血液型占いに左右されて、結婚相手を選ばされたりしたら、それは「構造にとりこまれる」ことになる。

構造は「社会を安定させ、意味を生み出す」と言う、高度な働きをもしているが、時に非合理で、個人を圧殺するような力をもつ。人間に民族や服装まであらゆうる表徴をレッテルとして、非合理に個人を圧殺していく「差別」と呼ばれる諸現象は、「構造」といっても良い。

 知らないうちに、自分とは違う「イメージ」「神話」が作られ、時に差別されたり、時にあがめられたりする。これは、古代から現在まで続いてきて、また未来も続いて行く事だろうが、これは人々が「構造にとりこまれた」状態のままである事を意味する。

戦争や民族間紛争も基底には、このような無意識の「構造性」が支配していて、まだ分析されないままでいるのが、現代の危機の一因なのだろう。

個人が活かされる社会は、この「構造」を、われわれが分析しつくして、対立することなく、うまくやっていけるような環境なのだろう。構造はあらゆる所に張り巡らされている。われわれは、構造の内部でしか生きていけない。しかし、内部にいながら、なんとかそれを認知しようとする努力が、学問そのものなのだ。

他の執筆者達と話し合って研究学園の目標のひとつにしたい事として、あげられた事項のひとつがこの、「構造の外に出る。」と言うことである。
これから、いろいろな講座を通じて、「構造の外に出る」事を目標に学んでもらいたい。それには、まず「構造」の意味を理解する事から始めたい。

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      今日はここまで ではまた。
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【編集長の独り言】

市民会館の前を通ったら、晴れ着の新成人達がたくさん歩いていました。まあ、いいんだけど、なんだか似合わないのが多いな〜。 七 五 三 ・・二十 かな〜。

 今日も夢中で仕事を続け、作業服のまま、ささっと来て、すぐに仕事場に帰り、また夢中で仕事をして、夕方に、完成した仕事に、親方から一言だけ「おめでとう」とか言われる・・・・

そんな本当の成人式、本当の大人なんて、いないのかな。きっと、見えない所で、しっかりと、そんな成人式をひとりで迎えたやつがいるに違いない。目立たないけどいると思う。あまり流行らないだろうけど・・

式にいって、飲んで暴れたり、騒いだり・・・そんなの眼にもなく、どこかの地下でガンガン、ロッカーやっているやつとか、大学の研究室で、ひたすら古文書読んでるとか、そういう「気骨」のあるやつが好きなんだけど。まあ、目立たないだけで、絶滅しないで、一定の割合でどこかに存在すると思う。

そんな、やつらに、エールを送ります。

  未来は君たちの前ににある・・・・のかな?

  ははは、ちょっと昔を思い出しました。

みなさんの成人式はどんなでしたか。・・          

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  ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
     編集長  森谷 昭一  

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