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ミクロコスモス総合版2003年1月8日御近所情報「御幸が浜」
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発行 ミクロコスモス編集部
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編集長の御近所情報 御幸の浜ご紹介
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本日は編集部のある小田原御幸の浜の様子をご紹介します。ちょいと散歩で撮影してきました。一枚目は、1月1日に凄い風の中での突堤です。
御幸の浜を歌った詩をご紹介しましょう。
小田原風景
御幸ガ浜にて
松が大洋を来る風にふかれる
海が茫洋として連いている
この一帯の海辺の風景、
何といふ深い魂が大洋から湧き出るのだ。
多、綱を引いている人々の手に、
朝の日は海の彼方から引き出される、
世界の輝きが彼らの労働の中に光る
福田正夫
沖を走り行く帆、
それは、一日の糧のために遠く海洋に、
魚の群を追ふのだ。
きけ、彼らのうたう歌を、
勇ましく悲しい船出の歌を。
福田正夫 「民衆」大正8年3月 より
福田正夫(1893-1952)は小田原生まれ、小田原育ちの詩人。民衆詩人として、活躍、小田原にゆかりのある詩を数多く残しています。
島崎藤村、北村透谷などとも関係が深く、雑誌「焔」を主宰。 小田原在住の北原白秋、吉井勇らと交友。童話や小説など広い分野で活躍。
後に、民衆詩派と耽美主義派との対立から白秋らと詩論を戦わせています。小田原音頭、真鶴音頭、その他、校歌などでも小田原では、その名を見る事の多い詩人です。
大正八年頃の御幸が浜は、実に自然に恵まれた美しい場所だっのでしょう。さまざまな漁業の地としても、沖に漁船が行き交ったようです。
湘南海岸の穏やかさが、ここらで途切れて、やがて真鶴に続く荒々しい海が、この御幸が浜から始まります。波と風の強さは今でも変わらないようです。
松が歌われていますが、東海道を飾った松なのでしょうか。多くの松があったはずです。
さて、今の御幸が浜はというと、次の写真は、浜から陸側を撮ったものですが、湘南バイパスに分断されてすっかり、情けない姿になっています。
大きな松が、寂しく残されていますが、この詩に歌われた松なんでしょうか。今度樹齢を調べてみます。
編集長の家はここら
↓
さあて、編集長の家ですが、上の写真の松の右にあるクリーム色の建物の裏の方に隠れています。海からすぐの所でしよ。湘南バイパスがもうすぐ終わるあたりです。小田原出口を過ぎて、もうすく早川口です。
こんなふうに↑、湘南バイパスに分断されて海には迂回しないと行けないのですが、直線なら歩いて百歩で海岸に到達するはずです。
最近なんでしょうか。御幸が浜には、突堤がつくられ、いつも釣りの人が大抵来ています。アジ、クロダイ、ボラ、なんてのメイン。遠くまで投げないと釣れないので、上級者向け。 ↓
突堤全景。行く度に光の様子で風景が違うので、散歩コースとしては、楽しい場所です。夏には、この先の海で花火が打ち上げられます。↓
真鶴方面です。箱根、伊豆、方面が良く見えて夕方の灯りはきれいです。でも、高架道路だらけで、なんだか殺風景。↓
突堤から、早川までの所はとっても荒れています。凄い波で、いつも浸食されるのか、台風の度に石が散乱して、道がなくなり、いちいちブルドーザーでかき回しています。 こちら方面はなんとも荒くれた、海岸です。なんだか、温暖化のために海が陸を浸食しているせいではないかと疑いたくなっているのです。もちろん、道路まで波しぶきがとびますから、通行止め。花火大会の時は、この石の山の上に人が群がっていました。↓
こんな部分もありますが、海の美しさだけは、今も変わらないようです。紹介した詩にあるように、日の出の時にても取材にいってきます。ここの浜は、「小田原町人」のお散歩コースのようで、たくさんの人がやって来ます。まあ、浜の様子は変わっても、海はそうそう変わらないようです。
まあ、遠方よりわざわざ来る所ではいなですが、近隣の方は「自分の海」にするには良いのではないかと。では、また取材をしたらご報告します。
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今日はここまで ではまた。
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【編集部より】
福田正夫はちょうど今年が没後50周年になります。それで、著作権が消失しましたので、ここでも御紹介する事ができます。
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ミクロコスモス出版 ミクロコスモス編集部
編集長 森谷 昭一
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