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 ミクロコスモス総合版2002年9月24日「ゼロに戻る音」
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          発行 ミクロコスモス編集部                                 ────────────────
     ゼロに戻る音
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 今、7台のコンピューターを使っている。「ジーン」と比較的小さなものから、「ぐぉーん」と大きな音のものまで持続的な回転音を響かせている。大きな音のマシンを消すと、次マシン音が聞こえる。それを消すと次のマシンと、いつも最も大きな音だけが聞こえる。持続するより音圧の大きい音は、小さなものを隠してしまう。感覚の法則どうりだ。

 全てのコンピューターを消した瞬間に、途方もなくほっとする。耳の感度が回復すると、こんどは冷蔵庫の回転音が聞こえ。それがやむと、遠く離れた道路の車の音が聞こえる。それらも、途絶えるとやっと小さな虫の音が聞こえる。もしなにもなければ、耳をすますと海の波が聞こえても良い場所なのたが、そこまで聞こえた事はない。持続する音は、他の音を被っていく。

 モーターやエンジンの回転による「持続音」が、自然音と根本的に異なる点がある。「休み」がないのだ。波や風の音は、大きなピークもあるが、ゼロになる瞬間を必ずもつ。「ざざーん。」の「ん。」の後に沈黙の間がある。自然音にリズムを感じ、心がなごむのは「ゼロに戻る」音だからだ。

 「やすらぎの音」と称して波のCD等が販売されているが、それで、やすらいだ事はない。どんな優秀な機械でも持続する雑音が存在するからだ。持続する機械音は、人がそれを認識していないレベルで、神経を傷つけているように感じる。人間の最も鋭敏な感覚能力を削りとっている。ヒーリング○○○という商品が増えているが、気が知れない。

 この数年、自分の心臓の音や息の音を聞いていない。山中で静寂が訪れる時、聞こえるのは自分の体の音だ。怖いほど大きい。人工環境に生まれ育って、初めてその静寂に出逢うと、恐怖を感じるらしい。それで、ラジオをつけたり、話をしないと、自然の中にいられなくなる人が多い。

 静寂の中で、自分の体の音を聞いて、それを整え、遠い自然の音と響き合う音を聴く。どちらも自然音だから、ゼロに戻る時がある。波が合うとき、遠くがきこえる。幸せな瞬間だ。歩いて山登りしないと、この瞬間に出会えない世の中になってしまった。悲しい事
だ。

 多少でも遠くを聴きたくて、夜なかに海岸にいってみりたりする。それを破るのは大抵、速度違反の車の音だ。夜中に車で走ると心が安らぐ人がいるらしい。若い頃の自分も含めて、なんとおろかな事だろうと思う。何かからの逃避なのだろうが。

 イライラ犯罪とも言えるような理不尽な感情暴発が増えているようだ。ひとつひとつの出来事に論評する気などない。ひとつひとつは実存的な出来事で他人の論評など許されぬものだから。ただ、巨視的に世界の流れとして、現代は持続する機械音に押しつぶされ「ゼロに戻る」自然の営みが奪われている。これは、人を時に感情爆発させる、とてつもなく恐ろしい事態なのだが、誰も気づかないようだ。

 暗黒と無音の世界では人の内面を探検できる。それは、人間を強く、そしてやさしくする。静けさ、ゼロの音は他人を聴く始発点だ。人を理解する事は、やさしさの源泉なのである。自己の内面を飼い慣らす事が強さの源である。

自分は音楽が何よりも好きだ。だからこそ、あまり聴かない。徹底的に聞き込み、覚え込むと、いつでも心の中で再生できる。こうした、実の音のない音楽は、生の音とは別の美しさをもつ。この楽しみを覚えた人間には、町で鳴り響く音楽ほど迷惑なものはない。

海岸や山では、自分だけの心に響く音楽を再生して、自然の音とともに楽しむことは、少し訓練がいるかもしれないが、最高の音楽の聴き方なのだ。高山にに登り、広々とした見晴らしの中で、ホルンの音を自分だけの聴覚空間に自己再生して響かせる。美しい世界が広がる。

 最近はどんな店でも音楽を流し続ける。CDや楽譜を扱い音楽を売る店までがそうだ。これでは曲を想像して選ぶ事もできない。完全にやめろとは言わない。時に流される曲に心動かされる事だってあるかもしれない。音が大きすぎるのが問題でもない。ゼロの時がない事が問題なのだ。

 せめて半分、3分音が続いたら3分の沈黙があるようにしたらどうだろうか。曲はより先鋭に心に届くし、かえって宣伝効果もある筈である。このごろは、一瞬の隙間も嫌うらしく、編集までして無音の時間を無くしている。

もっとも、無音があると、別の雑音が聞こえて来て、落ち着かないのかもしれない。レストランでも目的の音を聴くためでなく、雑音を消すためにより大きな持続する音を流す。そのような拡張の連鎖が、世界をこんな騒がしくしてしまつたのかも知れない。

 ゼロに戻って、自己の体の音を聴く。それが出来ない時、人間はより大きい持続する刺激で、神経を押さえようとする。煙草、薬物、アルコール依存、糖分依存、香辛料麻痺、イヤホーン無しに落ち着けない音響中毒。・・・・ゼロに戻る事を失った状況というのは、そんな病の世界だ。自分の内部の音と戦い、ゼロの存在と慣れ親しむ事の出来た人間は、それらに負ける事はない。

 音のない世界、刺激のない世界というのは、はじめから安らぎの世界ではない。初めて無音を経験すれば、耳鳴りと思えるような自己内部の音におどろく。環境の暗黒は、あらゆる人間内部にひそむ、雑音虚妄、不安などに気づかせ、それらと出逢わせる。それらと戦い、それを飼い慣らすと、やがて自然の音が聞こえてくる。

人間の内部は、無音ではない。無数の雑音や映像が氾濫する空間である。人が暗闇で視覚を鮮明に使ってみると、無限に様々なものが見えている事に驚く。様々な万華鏡のような模様や、記憶から来る怪奇な映像が「まぶたの裏」に展開する。特に体調の悪い時などは、人の脳神経の視覚および聴覚システムは、かなりの雑音を生じるものらしい。夢の世界も、多分この延長にあるものだと思う。

 現代は、沈黙で人と向き合っているのが我慢できないらしく、テレビを付けっぱなしにしたりする人間、無音におびえる人間が増えている気がする。自分はそういう人達とどうも通じるものを持てない。悲しく寂しい限りだ。人間内部の、雑音や非合理世界を飼い慣らすには、訓練によって自己意識を強化する必要がある。

自己の強さがないと、ゼロになる音は出会えない。暗黒の静寂の中で、自分を飼い慣らして、自然の音を聴いている、そんな強い人間になりたい。もっとも訓練された演劇人の肉体は、とてもない大きな声も出せるし、かすかな声も出せる。その中間も自由に表現に使える。人の強さは、力の強さではない。自己の内部の自然をいかに、支配出来たかが強さである。ゼロの状態をもてる事は、人の強さから来る。 


何もしないで、ぼっとしている。それは人間の最高の幸福なのだ。しかし、人と会えば、何か話さないといけないと現代人の多くの人が思い込んでいるようだ。相手が心の底から浮かんでくる想いを言葉にする瞬間を、黙っていつまでも静かにまっていても良い。それは、他の人間に対する最大の敬意だと思うのだが。

音でも、映像でも、香りでも、味覚でも、知識でも、人の行動でも、人間の関係でも、あるゆる事で、時に、ゼロに戻る瞬間が必要なのだ。意志と訓練で、それを取り戻さなくてはならない。

秋も過ぎて、虫達が地に戻り、風のやむ一時に山は、そんな静寂を用意してくれる。最近少し、持続音にやられっぱしで、神経システムがひ弱になって来たようだ。もう少ししたら、山にゼロの音を取り返しにいこうと思う。

    もりや あきかず

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   今日はここまで   ではまた。
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【 編集長より】800字のエッセイのつもりで、1600文字を超える評論になってしまいました。なんともだらしがなくて、申し訳ありません。長いけどお読みください。

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ミクロコスモス出版  ミクロコスモス編集部
   編集長  森谷 昭一   

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