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 ミクロコスモス総合版2002年9月13日文字世界「文字の楽しみ」
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               発行 ミクロコスモス編集部

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     文字の世界  文字の楽しみ
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 文字は美しい。また楽しい。書道の話ではない。古今東西、数え切れない文字存在する、または存在してきた。その文字そのものが楽しいのである。

 中西 亮 氏の 「世界の文字」 という本に学生時代に出逢った。印刷会社の社長で、仕事と関係の深い世界の文字を趣味として収集し、成果を一冊の本にしたものだ。その本を手にして以来、世界の文字の美しさに魅了された。

 さらに大きな言語学の文字事典を手に入れて、毎日眺めていたことがある。とにかく楽しいものだ。それは絵画より美しい。そして、ひとりの人間の発想など破壊するほど奇想天外なものがある。
 
 オーガム文字など一見して文字とは思えないが文字である。一本の線に、短く線を交差させていき、その向きや本数で意味を示す。縄文字に近い。文字というより絵と言えるのが、ヒッタイト文字、シュメール文字、モソ文字、マヤ文字などだ。うきうきする世界が広がる。中西氏の本に収められた文字の本の一部である。

 マラヤム文字 シンハラ文字 ビルマ文字 クメール文字 ハングル フェニキア文字 シュメール文字モソ文字  ウィグル文字 契丹文字 コプト文字 ヒエログラフ アズティク文字 アイマラ文字 クリー文字 ヒエログラフ インダス文字 ヒッタイト文字 ルーン 文字 アルバニア文字 ポクスヘッド文字カロスチ文字 ジャワ文字・・・


 昔から、文字の練習、書道が大嫌いだった。「はね」とか「はらい」とか、「止め」がないためテストで不合格にされたり、なにか理解できない世界だったのだ。「書き順」というものの存在が不可解であった。できあがりで「同型」なら、書く順番にどのような意味があるか理解できなかったのだ。家業が広告や看板だったので、職人さんが、横線だけ先に描いて、縦線を後に描くのをみていたから、 学校で習う「標準書道」という硬直した世界がなんとも別世界だった。書き順は、各自が決めるべきものと考えていたのだろう。

 でも「もじ」やら「え」やら悪戯書きの類をかくのには熱中していた。漢字を適当に変形させたり、奇妙な文字を「発明」したり、記号を「つくる」のは楽しかった。こんなのは、きっと少数派の子供だったと思う。そういう文字の楽しい世界で遊んでいた子供には、学校での書道・書取は気が狂っているとしか思えないものだ。

 それでも教科書にもちらっとのっていた、甲骨文字とか、古代文字に、なんだか憧れのようなものをもっていた。 古代文字を解明していく物語も好きだった。ほんのひとときだったが、言語学者に憧れた時もあった。そんな、子供時代の忘れ物を思い出させてくれたのが  中西 氏 の本だった。

 いつの日から、どうして、こんなに文字というもの、いや「国語」の文字修得がこんなに抑圧的で硬直したものになってしまったのだろう。文字を扱うという事は、もっと創造的で夢いっぱいの遊びのはずなのだが。古代の絵文字や、現行の文字の美しい手書き写本などを眺めていると、そう思う。

 日本でも江戸の頃の庶民の「手習い」の資料などをみてみると、もう少しおおらかだったようだ。庶民の文字は今のような楷書ではなく、のたくり文字に近かった。多分、明治政府の、国語政策、教育政策の過程で、今のような硬直した文字教育体系が作り上げられたのではないだろうか。単なる仮説で検証はこれからだが。
 
  指導要領で、習う漢字を綿密に設定して、楷書で 「とめ」 「はね」「はらい」などを偏執狂のように追求して、みんなに「斉一な文字」を書かせる意図はもちろん産業育成である。国民だれもが、正確に文字を書ける日本だからこそ、こんな高度工業国家になった事は確かな事なのだが。だが、その一方で発想のゆたかな、「はずれた」子供達は、きっと抑圧されていったに違いない。「じじくり」をいつまでも続ける風のような子供というのは、ある一定の割合で存在する。

 文字など、間違えても良いのである。「はらい」やら「とめ」やらどうでも良い。点のひとつやふたつ、線の一本や二本間違っていても、読めれば良い。
 
 いや読めなくても良いのかもしれない。「伝える」という機能だけが文字の機能ではあるまい。「美しい」「楽しい」という働きだってあるはずだ。文字が伝達の機能に特化する以前の、原初の遊びの世界から、文字の教育は出発すべきだと思う。

 「かな」となると、多少はこのような「遊び心」「美しさ」を含む世界である。「かな」の世界は、文字の創作という試みを多少は含んでいる。ただし、かなも手本を倣う現代では、少し違うが。

 抑圧的な文字教育は古代からの文明の豊かさや、人間文化の無限の多様性に目を開くチャンスを奪ってしまう。本来、文字は楽しい。美しい。文字など永遠不変のものでなく、言語現象であるから、本来移り変わっていくものだ。文字の規定など世代を単位てして測定できるほどの速度で変わっていく。

 もっと、 子供達に「文字で遊んで」もらいたい。みんなで文字を発明しあって、発表するうちに、個人の世界と共有世界の「伝達」という根元的な事柄に気がついていくような試みをしたらどうだろう。

 多分、情報技術の発達で産業を支える技術としての文字は、機械に任せる事が出来るようになるだろう。その時、個人の「手書き文字」は、芸術性、あるいは個人の内面の世界の記号性の発見をするような機能をみんに追求するようななっていくだろう。

 古代文字は読めれば、それはそれで楽しいが、鑑賞するだけでも十分に楽しい。そして古代に人が確かに生きた事が、なんとも実感として伝わってくる。また現行の文字、生きた世界の文字に触れると、同じように今生きている人の生活する世界が現前するように感じられる。世界中の文字で発行された、新聞が 中西 氏の本に掲載されているが、まさに世界を旅するようだ。文字の楽しさと美しさをもっと多くのの人に知ってもらいたい。そして、意味なんかほっといて、文字に遊んではどうだろうか。

 上の画像は、世界の文字をフォトショップで合成して、色をつけたりしたものだ。何文字か分かるだろうか。ただし、数個、文字でなく、適当にえがいた「いたずらがき」が加わっている。さあ、これらの文字のうち、いたずらがきはどれか分かるだろうか。
               編集長
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     今日はここまで ではまた。
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【編集長より】
 本日の記事は編集長個人の主張です。
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