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     メイルマガジン 「ミクロコスモス」  総合版
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2002/8/2
  
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    心理学  入門
    自分はひとつか・・・ひとりの中の複数人格
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 多くの人は、自分はひとりだと思っている。「私は○○○○という名のひとりの人間であり、死ぬまでそうだ。」そう思いこんでいるだろう。自分の中に「もうひとりの自分がいる。」・・そんな事を言い出したら、「ちょっと心の病気でない?」と言うだろう。

 確かに、「解離性性同一性障害」と名付けられた人格障害が古くから知られている。しかし、この障害は、本来すべての人に内在する傾向が、特殊な展開をみせた結果である。もともとしっかりまとまった「自己」があって、それが病的に「分断」されるわけではない。結びつけていたひもがほどけてしまったと捉える方が近い。人間はもともと、ひとつの存在ではないのである。

 「子供の頃の写真を見ると、なんだか自分とは絶対に思えない。」と言う人は多い。それをひとつの人間として、捉える方がよほど努力を要する。家でぐうたら寝ている時の自分と、会社で調子よく人付き合いしている自分は別の自分と感じるだろう。

 怒ってとんでもない事をしそうな時の自分、何も気力もなくなり死を考えてしまう自分、幸福感に満ちた自分、・・・・客観的に別人と観察できるような「自分」をたくさん知っているはずだ。

 こういう事は文章を綴る事の多い人は良く実感している。「詩心あふれ、ほとばしり出る」ように文章を綴った自分の書いたものを、「すべて無用で、くだらないものに思える自分」が冷たい感情で読んだり、「冷静沈着な自分」が分析的に読んだりする。こういう事があるからこそひとりの人間で客観的で良い文章が書けるのである。

 良い文章の書ける人は、自分の中に多くの別の自分を住まわせる事のできる人間である。間違い探しをしたり、批判をする別の自分ばかりではない。その文章に勇気づけられたり、感動する自分さえ、ひとりの身体という入れ物に住まわせる事もできる。

 そして、別の時に自分さえ感動させる事のできた文章や芸術作品というのは、他人をも動かしうる場合が多い。「自分にも面白くないものを人に見せるな。」とか良く言われる事だが、書いた時の自分ではない、の別の自分に評価されないものを他人に提供するなと言う事だろう。

 もうひとりの自分を「飼い慣らす」事は、少年期、青年期には困難である事が多い。そのようなものの存在を否定したり、それを異常と捉えてしまって、かえって精神を不安定にしてしまうのが青年期の特徴である。

「自分の中にもうひとりのの自分を見出すとき、それは人生第二の出発である。」

との言葉があるが、真の意味の「大人」とはそんな存在だろう。文章を書く人間、人間に関する学問をする人間にとって、別の人格を飼い慣らして、やっと本当に仕事が始められる資格を得たのである。

 解離性性同一性障害の患者は、異なる人格でいる時、別の人格をまったく認識しない。もうひとりの人間が、自分の中に存在する事を理解できない時、逆説的だがひとりの人間としての「統一性」を失い、不適応をきたしてしまうのである。ばらばらな私を統一する「大きな自己」を育てる事が、人を成長させる事に他ならない。しかし、それはいつも分離してしまう危険性と隣り合う冒険的な作業でもある。

 他人を見る時にも、個人を「ひとりの人」として見ない方が、好ましい場合がある。夫婦の不和等は、多くは配偶者を「いつも変わらない、ひとつのもの」として捉えてしまう事に起因する事が多い。

「昔はあんなに格好よかったのに、今はどうして・・」なんて捉えることが間違いなのである。人はいつも変わっていく。そして別の人間への変容が、人間存在そのものである。こんな達観を得た夫婦は、のんびりと人生を楽しんでいく。「同じ人に何度も何度も違う恋をし続ける。」そんな事を達成した夫婦が迎える老年というものは、美しい人間像のひとつである。
 
 「ひとりの人間はひとつではない。」これを真理として、把握できる立場にある職業は多い。教師なら、「あの○○君が立派になって別人のようだ。」そんな経験は無数に積み重ねているだろう。教育の仕事などは、ひとりの人間の中のある人間を殺し、別の人間を生まれさせる試みであるとまで言う人もいる。ひとつの真実だろう。患者と心理療法家との複雑な関係など、複数体複数の関係と捉えるのが正しい。

 ひとりの人間は複数の人格が含まれるならば、社会関係における個人と個人の関係は、「複数の人格対──複数の人格」の多様な関係となる。そのような捉え方なしに、人間を良い方に向かわせる知恵は生まれない。ある個人の別の面を発展させて、正しく社会で活躍させる・・そんな人の関係を作れない、管理職は人間を固定したひとつのものとして捉えてしまうから、社員を「育てる」事ができない。ひとりの人間の中にある、無限の可能性を秘めた別人格に気づかない人間は、目的のために相手を抹殺する事しか考えなくなる。

 悪も善ももちあわせた二者が、それぞれの善と善が交流しあうまで、複雑な相手の動向をみながら、自分も多様な面を繰り出していく。そんな人間関係の継続を「したたかさ」と呼ぶのである。したたかとは、感覚が麻痺して、相手を無視するような事ではない。複雑な心の多重性を交流させ、より良きものを醸し出していく行為なのである。
  
 心の病や、苦悩、人間間のトラブル等は、本来は複数の人間の複合体である個人というものをひとつのものと決めつけてしまう事から始まるようである。近代的自我の確立とか言うが、古代の方がかえって、人間は複合体であるという観念をもっていたかもしれない。

 有名な仏教経典である般若心経に「色不異空 空不異色・・・」(注)という一節があるが、ものはものではない。ものがものでないからものである・・・そのように解釈ができる一節である。この論法では

「人間は人間ではない。ひとりの人間が、今の人間ではなくなる事によって、人間は人間でありうる。」

「人間個人というものは、本当は存在しない。移り変わり、複数ある心が変化し続けている存在なのだ。」

そのように心理学的な捉え方をする事ができる。東洋思想は、一般的にひとりに「複数の人格」を見て取る事が多い。特に仏教は、そこから出発して、統一体としての「悟り」を目指すベクトルをもっている。そんな論法を精緻に構築して、巨大な心理学大系となっているのが「唯識論」である。仏教の基礎哲学となっている心理学である。

 自分の中の別り自分、それを深めて探求していけば、「異なる他人が自分の中に存在する。」「すべての人類に共通の、誰かが心に存在する。」・・ちょっと奇妙な興味深い心理学の世界が広がる。

精神分析は、このような論功を進めてきた。近年の脳科学や生物学の知見も、生命が複数の生命の統合体である事を描き出してきている。これらは、また別の機会に紹介する事にしよう。

自分の心をみつめる出発として、「もうひとりの自分」を見つめる事から始めてはどうだろうか。

【少し分かりにくいまとめ】

 ひとりはひとりではない。ひとりでないひとりを統一するひとりの存在にによりひとりがひとりになる。それはより高いひとりを必要とする。

注 7月27日号参照
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  きょうは、ここまで。          
         ではまた。
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【編集長より】
 あまり、コンピューターと本ばかりに向かっていては、記事が狭くなりそうなので、ちょいとしばらく、取材活動をさせていただきます。しばらく都内を探検して、天気を見計らって、「青春18切符の旅」に出る予定です。なので、どこにいくか不明です。天気まかせ、時刻表まかせ、どうなる事やら。

 取材の内容はまた戻りましたら、ご報告させて頂きます。

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    ミクロコスモスロス出版局 
      メイルマガジン編集部
       編集長  森谷 昭一 
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