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     メイルマガジン 「ミクロコスモス」  総合版
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                  2002/7/6
         ミクロコスモス編集部

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     今日の語源  
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────1──────────────────────────
【ねぷた】

 青森・弘前のねぶたは、日本の祭りの中でも、有名で規模の大きなものだ。観光パンフレットには、由来がこんな風に記されている。


 「眠たい」という事を「ねぶたい」と言い、それから 「ねぶた」になりました。


これによると、夏の眠気をはらう祭りだというわけである。確かに今のねぶた祭りは、眠気を吹き飛ぶような勢いの祭りではあるが、語源はもっと単純なものである。

 語源は 「たなばた」 七夕 棚機  同時期の行われる仙台の七夕と同じ。

 タナバタ →[語頭の ナ の脱落]  ナバタ → ae の母音交替 ネバタ
 → [au 母音交替] ねぶた

 青森のねぶたは、電気発電器を仕込ませた、きらびやかなものになって、夜まで大騒ぎのカーニバル風に なってる。でも片田舎の同様な行事は、もう少し暗い雰囲気で、先祖供養の祈りの雰囲気を残している。ねぶたは、七夕の音韻変化による語というわけだ。

────2──────────────────────────
【梅雨】

 梅雨ももうすぐ終わりそうだが、さて梅雨とは書くが、語源は(五月降り)から。

  早苗を植える陰暦五月を 「早苗月」言った。 サナエツキ
  → [略して] サツキ 

  サツキに降る雨で サツキフリ→ [サ キ]の脱落 → ツフリ 
  → [f の脱落 ]ツウリ → [子音 j の追加] ツユリ 
  → 語尾の脱落 → ツユ   

 複雑だと信じにくいかもしれないが、文献、方言の例証をたどると理解できる。露(ツユ)が語源との解釈の方が単純だが、露は秋だけにもちいられる。

────3──────────────────────────
【かち】  「ありがち、ありがち。」の カチ だが、語源は 
    かたより(片寄)から。

  病気に片寄る  ビョウキカタヨリ →[ヨの脱落] ビョウキカタリ 
  → katari[t(ar)iの縮約  ]→  kati 病気ガチ 
 
  病気がち を「勝ち」 と解釈しては言葉の豊かを失わせてしまう。


──────4────────────────────────
【勝って】 身勝手  勝手にしやがれ  語源は 「偏り」 我が身偏り 
 ワガミカタヨリ → ワガミカタ → ワガミカテ → [促音添加 ]
 ワガミカッテ 

 勝手なやつが自分に偏っていると考えるのは心理学としても豊かな捉え方だ。

──────5────────────────────────
【勝手がわからぬ】 上と文字は同じですが、 語源は違います。 形の意味のカタから。  様子 模様 ぐあいの意味に用いられる。

──────6──────────────────────────
【お勝手】  台所の事を勝手といいますが、これも上とは語源が違います。

 語源は   糧 カリテ から。 糧所 カテドコロ → カッテドコロ
      → カッテ 

 主婦が勝手にできるから、というのはちょっと違う。 
 
 「我が身偏り・形が分からぬ・糧どころ」が 「身勝手・勝手が分からぬ・勝手 」 と漢字書かれてしまうと意味不明になりますね。 漢字での日本語表記は、莫大な表現の豊かさも生んだのだろうが、誤解も生んだ。

───────7───────────────────────

【まとめ】
 基礎日本語 構造日本語 という考え方がある。是非は別として、外来文化の影響前の日本語の形を知りたいと思う。もっとも日本人の由来そのものが外来の可能性もあるし、日本の起源・由来は、また謎の中謎なのだろう。
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   きょうは、ここまで。
        ではまた。
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【編集長より】

 昨年、編集長は夏の東北を野宿旅行をして、「青森 ねぶた」「秋田 竿灯」「仙台 七夕」 を一時に回りました。でも、どれも好きになれませんでした。

どれも、なんだか、凄い規模ですが、商業化されすぎて、心に響くものはありませんでした。「ねぶた」などは台車に大型発電器をしこんで、多数の電球を光らせています。「コンサートじゃあるまいし。」とふとおもいました。あの数の観光客に対応するには仕方がないですけど。

 秋田の竿灯は電球ではなく、ちゃんと蝋燭です。失敗して燃えそうになったりして、より素朴ではありますが、現代のビルの間のアスファルトの上での組織化された祭りである事は同じです。

 旅の途中に、ふと寄り道した、とある田舎町での寂しげな小型ねぶた祭は、少し心やすらぐものでした。明るくはない町に浮かぶ、「ねぶたかざり」のほのかな光にどことなくひかれました。子供会のねぶたの絵は、子供達の描いた「千と千尋の神隠し」でしたけど・・・

 しかし、暗黒の中にほのかな灯火に浮かぶ祭りというのは、もう想像の中にしか存在できないのでしょうか。

 恐れと祈りが現存する本当の祭りが、いつか復活すると良いのですが。せめて、語源をつうじ日本の文化の古層を探って、心の祭りの用意をしておく事しか出来ないのですが。

【編集長より言い忘れ】
  
 あっ、仙台七夕の事忘れてました。・・・あれはもう、なんだかプラスチックの祭典ですね。七夕って好きでないです。仙台生まれ、七夕の町仙台名掛町の育ちなんですけどね。だいたい、仙台は東北じゃありません。浦和の次の、北関東です。新宿あたりと大差ないです。面白くない町だあ。現在市民の方、申し訳ありません。 ・・・・元住人の編集長。

あしたは、七夕・・でも・・それはどうでもいい。旧暦の星空の下で、ちやんとした七夕してみたいですね。生の笹に、麗しい文字の短冊とかでね。これも違うかな・・・・

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         ミクロコスモスロス出版局 
         メイルマガジン 編集部
         編集長  森谷 昭一