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     メイルマガジン 「ミクロコスモス」  総合版
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                 2002/6/27
         ミクロコスモス編集部
              編集長 森谷

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       今日の名言  モイーズ
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  フルーティストの音は毎日変わる。昼と晩でも変わる。

                    M.モイーズ
 

 マルセル・モイーズはフルートの神様と言われるフランス人です。ただの「名手」ではありません。チェロのカザルスとともに、今世紀の演奏法そのものを確立した偉人なのです。チェロもフルートも今でこそ、きらびやかな独奏楽器ですが、カザルスやモイーズの前には、今とは違った演奏法でした。また音楽における地位も、今より地味でした。
 
楽器そのものの改良や、演奏法の開発、教則本やカリキュラムの作成をおこない、数知れない弟子を養成して、多くの名手を誕生させました。その教則本のひとつに「ソノリテについて」があります。ソノリテとは音色という意味ですが、フルート奏法にとっては、この言葉はもう少し深い意味があります。絵画で言う「マチエール」に近いものがあります。
 
 これはとんでもない意図をもつ練習教本です。フルートは3オクターブ程の音がでますが、3オクターブの半音階のすべての音の間の組み合わせを示した楽譜が、この教本にのっています。そして、そのすべての音の跳躍の組み合わせについて、最良の音を出すように、求めているのです。

 鍵盤楽器なら、どうという事のない練習ですが、フルートでは、とんでもない要求なのです。フルートはその高さの音毎に、あごや唇の形や体全体の位置関係がすべて違うのです。微妙な違いなどではなく、決定的に違うのです。その莫大な組み合わせの一覧が楽譜として書いてあり、それらすべてを体が暗記するように要求しています。そう誰でもついていけるものではありません。
 
 さすがフランス人と思わせる極めて合理的な方法です。日本だと「、魂がそなわれば、どんな吹き方をしようが良い音がでる。技より精神だ。」といった向きもあるのですが、フランスの芸術は根本的に違う思想があります。徹底的な技術主義と合理主義です。偶然や、個性や、思いつきを、まずは徹底的に排除していくようなメソードなのです。

ある高名なフランス料理の達人の料理のやり方が紹介されていました。その地域でとれる魚から野菜まで、あらゆる食材を調査してコンピューターにデーターベース化する。そして、それらの組み合わせを考え、試して最良のものを選び出す。きわめて合理的な料理のやり方です。まるで、科学者が細胞培養の培地を研究するような方法です。

それを見た典型的日本人が、「あんな風な料理など食べたくない。料理は心だよ。あんな事して美味しいのかね。」のような事を言っていましたが、フランス文化の本質を理解していません。フランスの音楽や美術の基底には、徹底した合理主義があって、それだからこそ美味しいのです。その場の思いつきや「感」に頼らず、科学的とも言える「レシピ」の追求こそが美の神髄なのです。

西洋音楽を理解するには、根底にある合理主義を理解して、実行しなければと、思っていました。

 ところがです。次の一文が、教則本の一頁に書いてありました。何年もの間、何を当たり前の事をいっているのか、つまらない事が書いてあると思っていたのですが、とんでもなく無知でした。こういう言葉です。


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 徹底的に、技術を修練して、あらゆる身体的な偶然性や、環境の変化に対応して、理想の音をにたどりついたとしても、それは一定不変の「理想の音」が存在するわけではない。それは、ある範囲を持ち、昼と晩とでも、違う音がある。
 ──────────────────ソノリテより────────

フルートの中級程度の練習者は、ある一定の「理想の音」が存在すると思いこんで、一度良い音が出ると、そこで体を固定してしまいます。それが身体の動きから自由を失わせ、型にはまった固い演奏法にしてしまいます。

あのような順列組み合わせの合理的な追求の末にも、まだ残された「自由領域」があると、あの言葉は言っているのです。

 練習者が型にはまってしまった時に、この一言に出逢うと、解き放たれたように、演奏法がより高い段階に進むのです。理想の音には、幅がある。それを楽しみ、その幅の中で、表現という事ができるし、また個性というものも存在できる。そのような本当の世界への入り口が、この一言なのです。

 東洋のものは、いい加減な非合理であるような書き方をしましたが、違います。道元のような人もいるのです。道元に「赴粥飯法」(ふしゅくはんぽう)という著作があります。禅の修行の時の、食事の作法を定めたものですが、病的なまでに仔細な事を定めています。

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「拇指を鉢の手前側につけ、人差し指と中指を鉢の向こう側につけ、薬指と小指は使わないようにする。左の掌を上に向けて鉢をもつ場合も、右の掌を下に向けて鉢を取る場合にも、常にこのようにするのである・・・・・・」
────────────────────赴粥飯法より─────

 こんな記述が延々と続くのです。好き勝手にしたい盛りの若者にこのような課題をさせたら、個性を奪うものだとか、言い出すかもしれません。道元の意図は、まったく反対です。道元は無限の自由を与えようとしているのです。

ここに書かれた作法を厳守しようとしても、そのままでは実行できません。どんなに仔細を定めても、まだまだ範囲があるのです。鉢に使う指の事は指示されても、その力の加減や、微細な位置は自分で工夫しなくてはいけません。
 
 大いに自主的に創意工夫できる人でないと、多分道元のメソードには、ついていく事はできないと思います。そして、正しい作法の中にも、幅があり自由や個性がある事を発見するでしょう。本当の自己や個性を育てるには、徹底的に型にはめるのが良いと、多くの達人が言いますが、こういう事なのです。
 
 もちろん道元は、この事を知り尽くして、このような著作を残したのです。道元の「赴粥飯法」は、いい加減さを悟りの自由と思いこみがちな日本の通俗仏教にあって、傑作中の傑作だと言われます。

 さて、フランスの合理精神のモイーズ、と東洋の精密思想の極地の道元ですが、どちらも「技術主義」という点では一致します。精神や魂を吹聴する前に、具体的な身体の使い方の仔細に全精力を傾ける。文化的に遅れたドイツは精神主義に走り、進んだフランスは技術主義に傾く・・と揶揄されますが当たっていると思います。

些細な技に力を注ぐのは、本当の精神をすでにもって、魂の完成している人間だからこそ出来ることです。 モイーズのソノリテに書かれた一言に励まされて、音の合理を追求したフルーティストは、力の抜けた自由で美しい音色を響かしているのです。

 どん分野でも、高いレベルに到達している人達は、みなこの真実を理解していると思います。「フルートの音は毎日変わる。」一言を入れ替えれば、様々な人生の指針が生まれます。

 料理の味は毎日変わる・・・・

 書の筆先は毎日変わる・・・・・

 踊りの姿は毎日変わる・・・・・
 
自由というのは、好き勝手にする事なとではありません。修練の末に型を完成した後に残された幅の中で生きる事なのです。その自由に達してみると、実に広大な宇宙だと分かるはずです。


【編集長より】

 今回の記事は、編集長のフルートの先生からお話をいただき、私が原稿にしました。編集長も「ソノリテ」はやりましたが、とてもとてもついていけませんでした。プロというのは凄いものだと分かった事だけが成果です。
 編集長の音も毎日変わりますが、練習してないので、気まぐれで変わってしまうだけです。大先生のような境地に到達したら良いなと思うのですが、寝ないで練習しても、ソノリテの膨大な組み合わせは実行できません。

 参考文献

    道元 「典座教訓」「赴粥飯法」 中村璋八 訳注
    講談社学術文庫 980 820円 
    ISBN-4-06-158950-6

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  きょうは、ここまで。
       ではまた。
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【編集長のわめき】

 わ〜ん。フルートの練習したいけど、場所がないよ〜時間もないよ〜 練習しないと体が腐っていくよ〜
  
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     ミクロコスモスロス出版局 
       メイルマガジン編集部
        編集長  森谷 
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