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 ミクロコスモス大学報2002年11月22日「夢と創造」
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                  発行 ミクロコスモス編集部

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  ミクロコスモス研究学園報 「夢と創造」
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  うたて此世はをぐらきを
   何しにわれはさめつらむ、
    いざ今一度かへらばや、
     うつくしかりし夢の世に。



     松岡国男
     夕ぐれに眼のさめし時

 松岡国男 後の柳田国男の若き日の作である。

 この詩は吉本隆明の名著「共同幻想論」の「憑人論」の冒頭に紹介されている。吉本はこの詩を紹介した後、次のように続けている。

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「夕ぐれに眼のさめし時」とは柳田国男の心性を象徴するかのように思える。かれの心性は民俗学にはいっても晨に〈眠〉がさめて真昼の日なかで活動するというようなものではなかった。

夕ぐれに〈眠〉からさめた時の薄暮の中を、くりかえし徴候をもとめてさ迷い歩くのににていた。〈眠〉からさめたときはあたりがもう薄暗かったので、あたたび〈眠〉にはいりたいという少年の願望のようなものが、かれの民俗学への没入の仕方を良く象徴している。

 柳田の民俗学は「いざ今一度かへらばや、うつくしかりし夢の世に、」という情念の流れのままに探索をひろげていったようである。夕べの〈眠〉からみを起こして薄暗い民譚に論理的な解析をくわえるために立ちどまることはなかった。

その学的な体系は、ちょうど夕ぐれの薄暗がりに覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚がたどる流れにいていた。そして、じじつ、柳田最初に「遠野物語」によって強く執着したのは、村民のあいだを流れる薄暮の感性がつくりだした共同幻想であった。

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以下、論は柳田の少年時代の入眠幻覚、超感覚的知覚、と進み、「憑く」あるいは「予兆」と言う言葉を用いながら、精神病理学をふまえながら、吉本独自の「共同幻想」へと論を進めている。詳しくは、著作を丹念に読んでいただくとして、今日は「夢の世界」と「此世」についてのべてみたい。

 夢とは「美しいもの」だろうか。それとも「恐ろしい」ものだろうか。また「無意味なもの」、「はかないもの」、「未来への暗示」、「予兆」、「大脳におこるゆらぎ現象」、「現実の投影」、「深層心理の顕現」、「超越的経験」、「神の啓示の一方法」・・なのだろうか。

さまざまな論者がいて、またさまざまに夢を扱う文化形態がある。近代は、夢をより抑圧する、または切り捨てる方向に進んできた。柳田が追い求めたように、前近代の日本では、夢の世界と現実世界が混交した幻想が村落の共同幻想へ溶け込んでいた。

現代社会では、夢は精神病理の症例か、「深淵な」芸術作品の中に封じ込められてしまっている。そこでは、夢を合理的に「解釈」したり、夢を芸術作品に「昇華」しようとする。

それは夢を大事にするように見えて、科学的合理性や、芸術作品と言う明確な物質性へ消滅させようとする意図に過ぎない。「夢そのもの」をそのまま社会を流通させようとはしないのである。

夢を実在と認めるなら、夢は夢のまま、解釈も昇華もせず、個人の中において行動規範とすれば良い。また夢見る身体性そのものを、社会に受け入れれば良い。だが、近代はそれを許さないだろう。

「夢のお告げ」で裁判官が判決をする事など、今の社会は決して認めない。少数の巫女などの宗教的憑依者のみに、夢見る身体性を認めるのみである。

 近代は夢を抑圧する事で、成立してきた。だが、その世界からこぼれて、あふれ、吹き出す様々なエネルギーに、たじろぎ始めたのも事実である。それは、子供や若者や社会の脱落者等さまざまな「周縁」から吹き出し始めている。その例は、毎日の新聞記事に豊富にある。

 夢の世界と現実の世界と、どちらか広いのであろう。

そんな問も発せられる事もある。夢の世界の広さを言う論も、現実世界の豊かさを述べる論も、それなりに説得力はある。しかし、創造的な仕事を多少でも経験した者なら、無用な問であると言うだろう。彼らは、夢と現実は同一の存在で、両者は等しいものだと言うに違いない。

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 近年、創造性なるものを教育しようと奇妙な試みがさかんだ。創造性を「開発」する練習問題やら、訓練のための作業などが用意されているらしい。

暗記地獄につぐ「創造性地獄」が教育界にまっているとも言われる。真に創造的な人々がそれをみたら、押し黙るか、苦笑するしかないだろう。

創造というのは、病と狂気のすれすれの世界を彷徨い、強靱な魂の力で此世に帰還する事と同値である。創造的な人々が眠りの中を彷徨う時、あらゆる無意味な映像や音響や体感や虚無の世界を垣間見る。その片鱗でも、日常の世界に持ち帰る事ができるなら、偉大な芸術になるうるだろう。

それほど夢の世界というのは、濃厚で人類にとって広大な世界なのだ。だが、どんな創造者も、それを持ち帰る事はできない。夢の世界から持ち帰る事ができるのは、そのようなものが存在しうるという確信だけだ。

創作の時間というものは、夢の世界に実在していたものに近似した似姿を探し続け、日常世界の材料に固定する事だけしかできない。

だから、良き芸術の鑑賞者というのは、日常世界に存在する物的存在としての芸術を越えて、夢を共有しようとする。そのような真の鑑賞者の存在によって、創造者は、その存在が認知され、より遠い創造へと冒険する事が出来る。

しかし、夢が実在として氾濫するようでも、社会は存立しない。しかし、夢を裁断する合理という思考もまた夢のひとつである。科学体系ですら、夢なのかもしれない。

夢に対する議論はまた論じる事として、今回は創造というものの本質を知ってもらいたいと思う。芸術だけでなく、学問という創造も夢を経る事なくして成立する事はない。

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   今日はここまで   ではまた。
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【編集長の一言】

みなさん、お昼寝してますか。一日一回しか寝ない人は不幸ですよ。お昼寝に見る夢は、面白いですよ。不安神経症、パニック症候群の人達はお昼寝が好きだそうですが、必要なな時に寝ないと、頭が壊れますよ。

まあ、もっとも寝過ぎても、頭が壊れますけど。一日二回寝ると、人生が二倍になる。・・・本当かな。創造的創作者たるもの、昼寝すべし。・・かな。
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   編集長  森谷 昭一  

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