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ミクロコスモス研究学園報2002年11月18日読み物「数理人生学1」
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              発行 ミクロコスモス編集部
  
   本日は等幅フォントでお読みください。
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   ミクロコスモス大学報「読み物」数理人生学1
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こんな詩がある

   生きることの1/3

  生きるということの
  1/3 は悲しみで出来ている
  生きるということの
  3/1は悔しさで出来ている
  残りの1/3はね 笑うことで出来ているはずさ
      中略
  3/1 は何処まで行っても
  割り切れることがないように
  生きるということも
  何処まで行っても
  割り切れないのかな
      後略

         さだまさし「夢のつづき」から

さだまさしの曲 生きることの1/3 である。こんなふうに人生にを考える時に、数字や数学の記号を用いて考える事は良くある。例えば

  悲しみの数 と 喜びの数 は同じ
 
良く歌詞に歌いこまれる定理である。これを式に表してみましょう。

  悲しみの数 = 喜びの数 

   n(S) =n(J)

 n(a)というのは aの数という意味の数学の書き方だ。nは numberである。悲しみ(sadness)の数と 喜び(joy) の数が等しいという式である。変数を英語の頭文字で示したが、別に日本語の頭文字でもどこの言葉でもかまわない。変数の定義は省略させてもらうが、なんでも良いのである。

こんな書き方でさだまさしの歌詞の定理を書いてみる

  生きること = 悲しみ/3 + 悔しさ/3 + 笑い/3

  L = S /3 + K / 3 + G / 3

「こんな数理などなりたつのかいな?」「だいたい三分の一という定数ぱどうやって調べた?」とか、批判するむきもあるかと思うが、そこは「だいたい・・・」という事なのだろう。

● だか、冷徹に成り立つ数理もある

  勝利の数 = 敗北の数

  n ( w ) = n ( y )

引き分けを無視すれば、勝負というのは勝ちがあれば、当然同数の負けがある。公式に値しない程の事実、というより「公理」に近いかもしれない。「負けとは勝ちでない事」というような「定義」から来ているからだ。

だが、こんな簡単な事でさえ、人間は忘れてしまう。勝利を歌う歌は多いが、その時に負ける者の事を同時に考えているなんて歌は少ない。

● 冷徹さに寂しくなるような数理もある。

   回復の数  = 罹患の数 − 1 (人生において)

   n ( u ) = n ( r ) ─ 1

 どんな病気も必ず、治るものである。だから人の生は続くのだが、ただ一回だけ治らない時がある。それは死因となる病に罹る時である。

   罹患の数 = 回復の数

だけであれば、みんなあれほど生命保険にお金をつぎ込まないかもしれない。
ただ、「 ─1 」の項の存在が人を不安に陥れるのだ。

● 同じく冷徹に成立する数式

  借金額 = 貸金額

   V ( a ) = v (b )

は、経済学の基礎法則というより当然の「前提」である。中央銀行の総裁やら客観的な経済学者なら、経済世界を達観して見つめられるのは、この種の定理があるからである。

しかし、借金側になるのと、貸金側になるのでは、天地の差があるだろう。倒産件数と自殺件数は冷徹に比例している。数理というのは実存を越えて冷徹に客観的である。

● 思い出の数 − 忘却の数 = 人生

      n ( r ) ─ n ( b ) =  L

「君の事は一生忘れない。」そのように、人は何度人生においてそのように叫ぶ事だろう。だが、多くは忘却のかなたに去る。人生のお終いに、どれだけの思い出が残るのだろう。でも、たった一つでも残った事があれば、それで良いのかもしれない。それは人生そのもの、人生が存在したという証なのかもしれない。作られた思い出の数から忘却したものを差し引けば、人生が残るという事だ。

 忘れたものこそ、人生の根底を規定しているとの御意見もあろうかと思うが、人は無意識を自ら鑑賞できない。数式において、数どうしの引き算の結果が数でない事に注目してもらいたい。

● さて、こんなのはどうか。

 思い出の数 = うたの数

 n ( r ) = n ( s )

「うたの数だけ、思い出がある。人生の数だけうたがある。・・」というのは、ミクロコスモス放送局の音楽番組のイントロのアナウンスだ。社会の表面に現れにくい、人々のの人生の内面の世界だが、歌を通じて推し量る事が出来ると言う事だろうか。

こう考えると、莫大なCDの山も、過去のヒットチャートの数字の羅列も、なんとなく愛おしく思えて来る。見えない人生の数理も、見える社会の事象に換算できれば、案外と数値操作にのるかもしれない。

● 馬鹿の数と利口の数はどちらが多いのだろう。

  馬鹿の数 = 利口の数 

なのか。もっと複雑のようだ

   利口の数 / 馬鹿の数 = 文明の進歩率

  n ( C ) / n ( f ) = r ( B )

利口なやつが10人いても、馬鹿が9人いれば、9人の利口は9人の馬鹿の対応に追われるので、残る1人だけが、文化の進展に寄与する創造的な仕事が出来る。

  利口の数 = 馬鹿の数

だとすると、文明の進歩率は 1 となるので、平衡的な社会となる。徳川300年の安定は利口の数と馬鹿の数が同数だったと言う事なのか。

   利口の数 > 馬鹿の数

なら、進展率は1より大となるので、進展社会となる。反対に

   利口の数 < 馬鹿の数

となると、後退社会となるのだろう。先の例では、進歩率は0.9 となる。現代日本のがそうなのだろうか。救いと思える人物も多いのだが、この冷徹な数理の前には、希望の星もくすんでしまう。

このように「率」が登場する数理では、分子分母の項の僅かな差が事態を左右していく。生物の誕生率と死亡率から算出される成長率の微分方程式はかなり厳密に、イナゴの大発生などの自然現象を予言できる。

半分、冗談のつもりでたてた仮説なのだが、案外正確に統計事実を反映しそうなので、恐ろしい気もする。

●こんな数理人生学など、試みていると、「人生は数字じゃないよ。」「人生の方程式などないのだ。」という批判が、そこらじゅうから降ってきそうだ。
 しかし、

   幸福量 = 貨幣価値

あるいは

   人間価値 = 成績点数
   
と決めつけたのは誰だろう。大型のコンピューターを使用して、処理される模擬試験のデーター。高度な数理を駆使して貨幣価値が操作される金融工学。これらの操作を保証する根底には、このような数理人生学風の定理が必要なのだが、それは無視して計算と統計ばかりが、ますま緻密で先鋭化して来ている。ふと、アホかいなと思う時もある。
 前提のあいまいな経済学やら教育統計学に、数学的才能を朽ち果てさせるより、「人生を数理して」楽しんでいる方が、社会に害悪を与えず、なにより楽しいと思う。

● 救いのない数理ばかりなので、心あたたまるのを最後に

 愛の数 = 夢の数  

 n ( l ) = n ( d )

愛するというのは、相手に夢を描いて、そして未来と人生の高みに、自らを「投機」する事だと哲人は言った。高等なようでもあり、可愛らしい愛の姿でもある。しかし、これも裏返せば

 憎しみの数 = 絶望の数

となってしまうのだろうか。

  悲しみの数ばかり数えちゃいけないよ、
  愛や喜びも必ずあったはずだから。
  人生に絶望しちゃいけないよ、
  夢もそれだけあるはずだから。
  天秤はとまっていれば
  わずかな重みで動くんだから。

           切断面の響き「人生処方詩集」より

という詩がある。これは勇気も与える。しかし裏返しに不安も与える。 

心あたたまる話にする筈だったが、また冷ましてしまったかもしれない。

どうも数理と言うのは、公平、冷静なもので、人を温めてくれもするし、冷ましてくれもするらしい。

さて次回は「無限」を扱ってみようと思う。

  宿題である。

   真実 = ?
   
   幸福 = ?

について数理法則を考えて仮説を数式化してみて欲しい。
       
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   今日はここまで   ではまた。
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