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update 1998.1.8
■ essay(T) ■
●夢 1998.01.08
夢ってのはドリームじゃなくて、寝てるときにみるヤツだ。子供の頃からよくみる夢があるんだよね。どうして何度もみてしまうのだろう。
1つは、時代劇風で、たぶん戦国時代。私は姫で、何人かの人と逃げ回っている。もう1つは、昭和初期。私は織物を作っている工員で、やっぱり何人かの人と逃げ回っている。情景は同じで、5メートル位の川幅の橋の下に隠れている。追いかけてくる人が橋の上を通る。見つからないように橋の下にうずくまっている。着ているものは腰のあたりまでドロまみれで、冷たそうなのだけれど季節は感じない。他の仲間達と話している様子でもない。ただ橋の下で見つからないようにじっとしている。追人が橋を渡り、右に曲がって走っていく姿が見える。一人が一瞬こちらを振り返る。私の心臓は一瞬止まりそうになる。幸いにも1メートル位の高さの草が私達を隠してくれているので、追人には気づかれない。でも、目と目は合っている。どうして気づかないのか不思議なくらいみつめ合っている。ほんの一瞬だけ..。しかし、彼は気づかず仲間達と走り去っていく。これの繰り返しなのだが、まだ一度も捕まっていない。どうして逃げてるのかわからないけど、こんな夢をよくみる。
あとは、自分の歯がぼろぼろに溶けていく夢。舌で歯をなぜると、ざらざらしてて、どんどん歯が崩れ落ちていく。どうしたんだろうと思い、洗面所で歯を眺める。全ての歯がぐらぐらしていて、手で触ってみると簡単にとれてしまう。とれた歯を手のひらに置いて触ってみると、簡単につぶれて砂状になってしまう。こんな具合で私の歯は全てなくなってしまう。恐ろしい夢だ。
昔よくみた夢は、ウルトラマンに出てくる怪獣が私の家の近くに来て暴れているのとか、友達に裏切られる夢。最近、この手の夢は見なくなった。
振り返ってみると、私の夢は案外そのときの心境と繋がっている。焦りや不安などから夢をみてしまうだ。幸せな夢はあんまりみたことないね。
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●衝撃 1997.10.17
大子(だいご)のおばあさん(母の母)に会いに行った。ずっと1人で吉沢(よしざわ)という大子町の外れの山の中で農家をやってたんだけど、今は母の弟(長男)と一緒にすんでいる。83才になる彼女は農家を辞めてからぼけてしまった。母から聞いてはいたけど、こんなにも変わり果ててしまっているとは、正直思ってなかった。文章を進めるのが困難なくらい、悲しみがこみあげてくる。
階段をあがって南向きの彼女の部屋のドアを開けると、変わり果てた目のすわった老人が不思議そうにこちらをのぞいた。手をさしのべ、誰が来たのだろうという表情で見ている。祖母は私のことをわからなかった。母さえもわかっていない。少々、尿の臭いがしている部屋でジッと息をしている。長い間ジッといろんなことを我慢してきた人生だった彼女は、ここにきて全てを忘れてしまい、人生を終えようとしている。どうしたらこんなになってしまうの?本当に文章にするのが痛々しく、重たすぎる。それでも大好きな祖母のことを書いておきたいと思った。
彼女の人生は詳しくは知らないけれど、幼少の頃は裕福な家に育ったと聞いている。何不自由ない生活ののち(?)祖父と結婚し、4人の子を生んだ。女3人、男1人。母はその2番目の子だ。大子町あたりは農家が6割以上で、母の実家も農家だった。20年前までは、蚕(かいこ)を飼育していて、繭(まゆ)を取っていた。そのもっと昔は高価なものだったらしく、かなりいい値がついたらしい。私が小学校のころまではまだやっていた。5cm位の真っ白な芋虫みたいな蚕を、気持ち悪く見ていた記憶がある。彼女は大子町でいもや小豆やお米を育て、ずっと農業を営んでいた。祖父は現代の男達には無くなってしまった典型的な頑固おやじだった。父の父もそうだが、明治、大正生まれの人はどうしてああもわがままで頑固なのだろう。現代の人には想像できないぐらい自己を貫き通す。こんなに裕福で幸せな世の中では、あんな人間は育たないのだろう。女達も自己表現する場所もなく、ただただ旦那様に尽くしていた時代があった。もっと私は私の人生を生きたいんだと、声を張り上げたかったはずなのに、そんな時代が存在していたんだよね。私だったら息が詰まって逃げ出してしまうだろう。祖父は良妻賢母の祖母と結婚し、幸せで自由気ままな人生だったはずなのに、途中で、自分の家族と、他の女との二重生活に入る。事のなりゆきはわからない。母にも聞いたことがない。でもそうなんだ。だから、ひいおばあちゃんが亡くなってからずっと1人だった。母もその姉弟達もなるべく実家に帰るようにしていたけど、人生の後半はずっと1人だった。
書いてるうちにゴミ捨ての時間がいつの間にかやってきてしまって、慌てて生ごみと紙ゴミの燃やせるゴミを仕訳て捨てに行く。なんだかやりきれない気持ちになっていて、こめかみが川の字になってきたので、公園でつづきは書こうと思う。バッテリーチェックOK。
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●クリエイティブな仕事 1997.10.18
強烈に何かを作りたいと思う。幼いときから、何かを作ることが好きだった。小学校の工作や絵を描く時間が大好きだった。3年生のときの担任の先生に「図画・工作の時間はいつもと違って生き生きしている」と言われたことは、学校で初めて誉められたことだったから、よく覚えている。そのころからだろうか、物を作るということに執着しているのは。この世にたった1つのオリジナルなもの。作ってみたいなそんなもの。何を作るかは、まだ探している途中だけど。そのための努力は惜しまないつもりだ。いろんなことに挑戦して、感性を磨いている途中だけど。チャレンジし続けたら、いつか出会うでしょたぶん。物を作るのでなくて、技、技術でもよいのだけれど。やっぱ、生きてる以上、何か残したいよね。
私はコンピュータの仕事を選んだ。人の仕事のサポートでなく、物を売るのでもなく、機械のように単純に製造するものでもなく、情報を処理するための脳みそを作る仕事だ。思い描いていたものとは、ほど遠くもなく近くもない仕事。ただメンテナンスだけやってるのは製造業と同じだから、企業のシステム開発ではなく、ハードワークなわりにお金にならないソフトハウスを選んだ。もちろん独立系のソフトハウス。異業種の情報も入ってくるので面白そうだと思った。
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●何とかフェスティバル 1997.10.15
目のちっちゃなかわいいばあちゃんが、くしゃくしゃの顔で笑いかけてくる。じいちゃんは「セブンイレブン行くんだけど、こっちかな?」と語りかけた。洞峰公園は’生き生き何とかフェステバル」という老人達の運動会が行われている。こんなに多数の老人達を目にするのは初めてかもしれません。またまた快晴の15日。心地よい風。ちょっと少なくなったとんぼ達。それにしてもさっきのじいさんは、家からお弁当を持ってこなかったのかな。そう言えば見学する家族はほとんどいない。水曜日だから仕事なんだろうね。もうちょっと孫とかがいてもいいのに。さみしい時代が来たもんだ。(なんて言ってるけど、きみもばあちゃんのゲートボールを見に行ったことないよね。)だれじゃ
虫達の音楽会を聴きながらさっき作ったおにぎりを食べる。彼ら、彼女らに、私はどんな風に写っているんだろう。公園の芝生であぐらをかきながら、デカビタ飲んで、ラジオかけて、おにぎり食って、日光浴しているわたくしを。それにしてもいい天気だよ。おてんとさんありがとう。むむ、おにぎりに塩かけるの忘れちゃったみたい。たらこが出てくるまでがまんがまん。何か公園でやってると思って、急いで作ったからね。テントのスピーカーから「もー恋なんてしないなんて〜」とマッキーの歌が大音量で流れてきて、私のラジオが聞こえない。(老人の運動会なんだから、演歌とか流せばいいのにね。)ほんとほんと。
今日はいつも寝ているベンチがとりはずされていて、寝ることが出来なかったので、芝生に座ってます。パソコンは持ってこなかったので、自筆でノートにこの文章を書いてます。
’つくば音頭’が流れてきました(本当につくば音頭というのかは?)。「つくばつつんば元気よくおどろ??つくばおんどのはなやかさ。つくばつくづくすきになる〜」。詩が笑える。ぷ。田舎の矢祭(やまつり)音頭はどんなだったっけ?小学校の運動会だやったやつ。んー全然思い出せない。
じいちゃんが「お昼食べたか?やっか?(あげようか)」といってきたので、「おにぎり食べたから、いいよ。」と断った。サンキューじいちゃん。
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●シンディ・ローパー 1997.10.13
バルコニーに机を置いてパソコンくんとひなたぼっこ。やっと念願のミュージックを聴きながら、野外での執筆ができます(執筆とは言わないじゃないの)。丁度よいサイズの机をつくばにある中村家具店で4850円で買って(安い)、その初日を迎えました。サウンドはエリッククラプトン。(いい感じ)。天気は晴れ(すばらしい)。左手には筑波山、前方には草木の生い茂った洞峰公園。アコーステックギターの奏でる音楽が心地よい。小説家にでもなったような気分でパンチング(えらそうに)。パソコンくんは、仕事でしか使ってなかったのに、今や大切な道具です。仲間からメールが届いたり、情報を得たりと、ネットワークを利用したら、世界がグッと近づいて来ました。退屈だなんて誰がいったの(とんでもない)。
サウンドは、クラプトンからシンディーへ。ミニコンポの調子が悪く、3回もCD入れ直したんだけど、やっとかかりました。もう7年も使ってるからね。最初は、CDのトレイも出てこなかった始末。ここ3年位はあまり聴いてなかったから...昨日、コンポを分解して、筆や綿棒でお掃除して、やっと直った次第です。
どうしてだろう。あんなに好きだった音楽を3年も聴いてなかったなんて。19のころは毎日聴いてたのに。「忙しいときほど音楽聴いて心を休めるんだ」とある人がいってた。そのとおりなんだろうけど、聴くことができなかった。「心にダムはあるのかい」(あんちゃん風)。今こそ心に沁みるミュージックを。(しみるはこの漢字でよいの?)。と、あれこれ書いていくうちに、大好きな、’シー・バップ’が流れてきた。
リアルタイムな文章で、書くことがおもしろくなってきた。 タイピングする手も軽やかに動く。
そして、’オール・スルー・ナイト’。シンディーの声は、チャーミングであったかいね。アリーナで聴いたあなたの声をいまでも覚えています。抜群の声量でシャウトしていたあなたの声、あなたのダンス、あなたの笑顔、口を尖らせて歌う顔、最高でした。年をとったら(充分年とってんだろ)、シンディーのようになりたいな。いつまでも、元気で、輝いていて、何かをもっている....
’アイ・ドロブ・オール・ナイト’。切ない歌声で歌うシンディーもよいね。シンディ−は、むこうの日本食堂でバイトしてたことがあって、かたことの日本語ができるんだよね。(日本食堂でなくて、すし屋だったかな?)アリーナで彼女を観たときは、「み・な・さ・ん・こ・ん・に・ち・は」、「い・ら・しゃ・い・ま・せ」などいって会場を湧かしていました。
そろそろ、11時で、バルコニーに陽があたらなくなってきました。シンディーのアルバムも終わりに差し掛かってきたので、退散します。今日は、地元のプロバイダーに出向いていき、契約してこようかと思っています。今までのプロバイダーは、アクセスポイントが東京と横浜しかないので、乗り換えなければいけないのですよ。それでは。また会いましょう(いったい誰に話しかけているのじゃ)。
’ヘイ・ナウ’(レゲイバージョン)で終了。
”ヘイナウ、ヘイナウ!
隣の住人にいつか怒られんぞ。
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●引っ越し 1997.10.10
1997年9月22日。住み慣れた横浜に別れを告げ、筑波研究学園都市に引っ越してきた。引っ越しというのは、いろんな発見がある。福島を離れてからの12年間の宝物を沢山発見できた。
わたしをバイクに乗せた小説、アリーナや武道館に足を運ばせたテープ。テープのほうがまだ断然多い。お気に入りのものはきれいにタイトルがレタリングされている。好きな曲ばがり集め編集したオムニバステープ、FMからのエアチェックでとったテープなんかもでてきた。そう、あの頃はお金がなくて、’友&愛’というレコードのレンタルショップによく通ったものだ。ラジオは’FMレコパル’(まだあるの?)をチェックし、録音してた。
音楽は、U2・スティング・シンディー・プリンス・アーハ・ストーンズ・ドンヘンリー・マドンナ・ヒューイルイス・クラプトン・ロッドスチュワート・カーズ・フィルコリンズ等を聴いていた。ならべてみるとベストヒットUSAの影響が大きいんだよね。小林克也の軽快なDJで深夜にやってたやつ。
本はバイクのからんだ小説がほとんどで、50冊位あった。よこはまではダンボールに入っていて、押入の中に眠っていたが、ここでは部屋が一つ増えたので、大きな本箱を一つ購入し、全て収納した。ほこりを取りながら一つ一つ手にして並べていると、気持ちはあの頃にフィードバックしてしまい、整理が終わった頃、’そう、これをホームページにしよう’と漠然と思った。引っ越しの前から、やまつりやまとモーターサイクルのページはイメージしていたが、このとき、やっと全体像が見えた。
今となっては、大切な宝物となったテープや本達。残して置いてよかったな。こんなに沢山、押入に眠っていたんだね。あの頃と同じ気持ちで、聴けることは二度とないけど、時間をかけてもう一度聴いてみよう。時間は充分あるのだから。それにしても、私のコンポはテープが聴けるのかな?。長い間、カセットを入れてないから、いかれてるかもしれない。
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