清水美知子

見えにくさを抱えて街を歩く

2006年10月

私たちは、常に環境の観察者です.ある時は一点に留まり、ある時は移動しながら、自分の周囲を観察しながら外界にある物体の構造、位置,運動を認識します.また、環境における自身の位置,方向、運動を認識し、姿勢や進行方向を制御しています.自動車を運転する時に絶え間なく周囲の車両や歩行者の動き、道路幅や方向を観察し、ハンドル、アクセル,ブレーキ操作するのとよく似たことを無意識にしています.

通勤,通学、買い物のように生活場面での「歩行」(目的を持って徒歩で環境内を移動すること)には、「安全」と「実用性」が重要です.安全を妨げる「危険」には、「ものに当る」、「つまずく/踏み外す」そしてそれらが原因となる「転倒」があります.「当たる」「つまずく/踏み外す」の原因には、「よそ見していた」「会話に夢中になっていた」などの不注意もありますが、「対象物が認識できない」「認識したが動きを制御できなかった」など身体機能の低下が大部分を占めます。通常の歩行速度(時速4キロメートル前後)でものに当たってもそれ自体大きな危険につながることはありませんが、その結果、バランスを失い転倒したとなると、骨折など大けがを負うことになります.その他自転車や自動車との接触も重大な危険です.

「実用性」には、歩行速度,歩行距離,運搬力などが要素として考えられます.歩行速度はひとりひとりの生活ペースにもよりますが、社会との関わりを考えるとおのずとある幅の中にあるでしょう.例えば歩行者用信号器の青信号の呈示時間は、歩行速度を毎分60メートルとして設定されているそうです.それより遅い歩行速度の人は、青信号の間に渡り切れないことになります.自立した地域生活を営むのに必要な歩行能力を「1分間に80メートルの速さで332メートル以上歩けること」としている論文(文献1)もあります.

糖尿病によるロービジョンの人の多くは、腎症や神経障害も発症していて、視機能低下に加え他の感覚機能や運動機能の低下が見られます.運動機能(歩行速度、瞬発力,平衡感覚など)や、環境認知機能(視機能、聴覚,体制感覚など)の低下とともに、危険を予測/察知/回避することが困難になり、「歩行」の安全性、実用性(効率性)も低下します.

文献1.Menard-Rothe K, Sobush D C, Bousamra M, Haasler G B, Lipchik R J(1997), Self-selected walking velocity for functional ambulation in patients with end-stage emphysema, J Cardiopulm Rehabil, 17, 85-91

  

道の左側

2005年5月

公共広告機構の「生命線」というCMを知っていますか?

>私の歩く道は黄色いんだそうです
>私はこの道の凸凹を、足の裏で確かめながら歩きます
>どうか、この道に自転車を置かないで下さい
>私たちの道が奪われています
(公共広告機構:ラジオCMより)

 社会に点字ブロックの重要性とその存在を再認識してもらうことをめざしたCMです.これを聞いて私は、点字ブロックだけが視覚障害者の道という認識が広まるのではないかと心配です.いうまでもなく視覚障害者の道は、他の歩行者同様点字ブロックを含めたすべての歩行空間です.
 ところで皆さんは道のどちら側を歩きますか?右側ですか?左側ですか?もちろん状況によってかわると思います.では、どんなことを考えどちら側を歩くか決めますか?歩道があるから、こちら側から見る景色がきれいだから、車と対向して歩きたいから、興味のあるお店があるから、日向(日陰)だから、電柱が少ないから、点字ブロックがある(ない)から、段差がある(ない)から、・・・さらに、利き手(眼、耳)がこっちだから、こっちの眼が見えないから、こっちの視野が狭いから、身体のこっちに麻痺があるから、杖をこっちの手で持つから、盲導犬はこっち側しか歩かないから・・・などなど.道路環境、身体状況(年齢、体力、障害の有無・種類・程度)、移動方法(杖、車いす、盲導犬、介助犬、シニアカー)、目的(通勤・通学、買い物、散歩、運動)、などを考えるのではないでしょうか.
 20年ほど前にある盲導犬学校から犬をいただきました.なぜ盲導犬として不適格だったのかわからないほど、訓練の行き届いた犬でした.その犬は主人の左側で、道の左側を歩くよう訓練されていました.それで彼と散歩するときはいつも道の左側を歩きました.歩く方向が反対になれば、右側が左側になりますから、道の片側だけを歩いていたということではありません.いつも車両が自分の右側を走っていたということです.5年前にその犬を亡くし、長年の散歩のパートナーを失うとともに引き綱と道の左側から解放されました.10数年ぶりに歩く道の右側は、まるで初めて歩く道であるかのようでした.
 道のどちら側を歩くかということを決めるだけでも、歩行者の状況や好みは様々です.階段途中で、上がる人と下る人が鉢合わせし、どちらも手すりを譲れず立ち往生するように、狭い歩行空間をいかに共有するかは難しい問題です.

点字ブロック

2002年11月

 点字ブロックを歩道、公共建物の入口、駅など街のあちこちで見かけます.点状あるいは帯状の突起を持ち、多くは30cmほどの正方形で鮮やかな黄色をしています.視覚障害者はそれを足裏で、杖で、あるいは眼でたどります.しかし、実環境に敷設された点字ブロックには利用者を悩ませる問題がいくつかあります.つぎの3つの状況を例に考えてみましょう.

状況1: 駅で、「市役所までの道順」をたずねた視覚障害者に、「この点字ブロックを辿って行くと市役所へ行けます」と駅員が答えました.  ここでは点字ブロックを駅から市役所までの道案内(誘導路)として使っています.大病院の床にある各診療科への誘導表示に似ています.ただ、点字ブロック誘導路はかならずしも起点から終点まで連続していません.交差点で、違法駐車自転車あるいは車両によって、時にはマンホールのふたで、誘導路は途切れ途切れです.途切れたときの問題は、まず途切れたのか、終点なのかが不明なことです.ひょっとしたら市役所に到達したのかも知れません.終点でないとすると、続きを発見しなければなりませんが、これが周囲を見渡せる晴眼者のように簡単ではありません.続きと思って、いま来た方向へ戻って行くことさえあるのです.点字ブロックには方向の手がかりがないので、買い物などで誘導路を一度離れ戻ったときにも同じようなことが起こります.横断歩道上に点字ブロックが敷設されている例がありますが、まだ一般的ではありません.都市部では誘導路が途中で分岐したり合流したりし、さらに視覚障害者を惑わせます.

状況2: 視覚障害者が商店街を杖を頼りに、商品陳列台、看板、自転車などを右左に避けながら歩いていました.それを見て、お店の人が「ここに点字ブロックがありますよ!」といって、その視覚障害者の手をとってやや強引に点字ブロック上へ導きました.  ここでは点字ブロックが視覚障害者が安心して(物に当たらずに)歩ける地帯を示しています.点字誘導路を外れるとものに当たりますが.点字ブロックの上ではその心配がないというわけです(現実は点字ブロック上にも物があることが多いですね).ただ、幅が数メートルある歩道の30cmほどの幅しか安全でないというのは寂しいし、時には不便ですね.ウィンド-ショッピングもしたいし、とにかく自由に歩きたいですよね.商店街を一周してきました、何にも当たりませんでした(触りませんでした)、でもどこにどんなお店があったのかわかりません.全盲の視覚障害者だったら触れて物の存在を知るのですから、なおさらです.商店街の営み、人並みに混じって歩きたいです.

状況3: プラットホームの端に設置してある点字ブロック.  うえの2例では点字ブロックを見過ごしてもあるいは見失っても、命を危険にさらす心配はありません.しかし、プラットホーム上では点字ブロックの見落しはプラットホームからの転落に直結し、大けが時には命を落とすことにもなります.人為にはミスがつきものですから点字ブロックで危険を100%排除することはできません.柵で囲ったプラットホームもありますが、全国的に見ればその数は0に等しいものです.

 以上、広く普及している点字ブロックですが、限界や問題を抱えていることが分かります.言うまでもなく視覚障害者の移動支援設備には、点字ブロックの他にも音響信号機、触地図、位置情報提示装置などがあり、それらが有機的に結びついて視覚障害者の移動環境が整います.安全が最優先ですが、自由と楽しさも忘れてほしくない要件ですね.

板挟み

2001年5月

 聴覚障害者は、道ですれ違っただけではそれとわかりません.白い杖を突いて歩く視覚障害者は一目でそれとわかります.でも、白い杖をもっていないと、視覚障害者も周囲のひとにそれとわかりません.知り合いに声をかけられて、誰だかわからず言葉が返せず、気まずい思いをしたり、近づいてくる自転車に気づかず、その進路へ踏み出して自転車を転倒させてしまったりという話を聞きます.
  周囲の人々の注意を喚起し、誤解から生じる問題を避けるのに、白い杖はよい目じるしになります.杖はまた物のあるなし、歩道の凹凸などを教えてくれるすばらしい道具です.白と赤の反射テープは人目をよく引きます. でも自分の障害に注目されたくない人、あるいは注目されたくない時があります.杖を持っていては人込みに紛れるのは難しいでしょう.通勤途中で、見ず知らずのひとに「きのうはお休みだったんですか?」、「毎日お見かけしますが、どちらにお勤めですか?」と声をかけられ、視覚障害者は想像以上に人々の目に留まっていることを知ります.
  沢山の視線を浴びながら毎日を過ごすのは、スターのような気持ちでしょうか.それともストーカー被害者のような重苦しさ、不気味さなのでしょうか.

黒 vs. 白

2000年6月

   視覚障害者の杖はふつうは白ですね.でも黒い杖もあるのをご存知ですか.多くの視覚障害者がはじめは人前で白い杖を持つのに抵抗があったといいます.「視覚障害を認めたくない」「視覚障害者と見られたくない」という気持ちがそうさせるのでしょう.このような人の中には足元の凹凸が見えない、通行人とぶつかる、夜歩くのが恐いなどの問題を抱えながら、白杖を持たず歩いている人もいます.
 白い杖を携行している時には法律の庇護を受けられますが、黒の時にはそれはありません.また、周囲の人は、その人の障害に気付きませんから、周囲からの援助をあてにできません.でも、視覚障害を負った人にとって白杖すなわち視覚障害者のレッテルを持つことは心理的に大きなハードルです.白杖に抵抗のある時、黒い杖の存在は重要なのです.

こころと身体

2000年5月

 赤ん坊を母親に見せながら、産婦人科医は「元気な男の子です」といった.「男の子?だれのこと、私は女よ!」と赤ん坊が叫ぶが、だれにも聞こえない.こころと身体の性が不一致な人々のことが最近マスメディアによく登場します.
  中途身体障害者にもこれに似た状況が起きます.こころの長年のパートナーだった身体が障害を負うと、こころと身体の関係がしっくりといかなくなってしまいます.身体が元に戻らないのだから、身体を受け入れるしかないのですが、こころは苦しみ悩みます.こころは身体の機能低下(見えにくい、見えない)、能力低下(何をするにも時間がかかる)そして人々の態度(かわいそうに、大変だ、ああはなりたくない)を、受け入れなければなりません.
  生まれたときから障害を持っている人は、このようなこころと身体の不一致より、社会との考え方のズレの方が大きいでしょう.短い足、大きな鼻のように障害も個性ととらえる考え方はこのグループには受け入れやすいでしょう.

盲導犬 vs. 盲導人

1999年7月

 いうまでもなく盲導犬は犬で、盲導人は人間、ガイドヘルパーとも呼ばれます.どちらも視覚障害者の移動を支援します. 視覚障害者と盲導犬はハーネス(胴輪)を介してつながります.犬に引かれるのではなく、犬と人がダンスペアのように一心同体となって歩むのが理想だそうです.盲導人と歩く方法は、いくつかあるようですが、盲導犬と歩くのに最も似ているのは、視覚障害者が盲導人の肘をつかむ方法です.盲導人の腕がハーネスになります.
  みなさんの中にはタクシーに乗ったときのように、盲導犬に「○○駅まで」と命令すると、犬がそこへ引いていってくれると思っている人がいませんか?基本的には盲導犬は人や物を避けて歩き、交差点、段差、階段など方向の転換点や危険なところで止まるだけです.盲導犬が停止したら視覚障害者は停止の理由を判断し、直進、右折または左折を盲導犬に指示します.これを繰り返して目的の場所へ近づいて行きます.目的地に到着したかどうかの判断も視覚障害者が下します. 盲導人と盲導犬の大きな違いは、盲導人は言葉を理解し、話すことでしょう.「二つ目の角を曲がって」とか、「マクドナルドまで」いうだけで、目的地へ着きます.逆に町名、店名など周囲の状況を教えてもらえます.
  不案内な場所で盲導犬をナビゲートする視覚障害者の負担は、盲導人と歩く視覚障害者とは比較にならないほど大きいでしょう.でも、ひとり歩きの気楽さは、ときに犬好きの通行人に妨げられることがあっても、盲導犬と歩く視覚障害者が優るでしょう.話好きな盲導人や道順をめぐって衝突する盲導人に比べ、話さず、従順な盲導犬の何と気楽なことでしょう.

阿佐ヶ谷時代

1994年

杉並区阿佐ヶ谷の国立東京視力障害センター2階の一室が田中先生の研究室でした.部屋は建物のはずれに位置し、訪れる人は限られていた.十畳ほどの広さだったと思うが、室内には電気機器のジャンクや資料の入った段ボール箱、古い実験機器が置かれ、人の歩ける空間は数畳でしかなかった.ドアを開けると正面に先生がいつも南側の窓を背にして座っておられた.かたわらには灰皿がわりの石油缶が置かれていた.先生はその頃通常の灰皿ではすぐに一杯になるほどヘビースモーカーであった.部屋には便所が付属していたが使われることはなく、その便所の臭気とタバコの臭いのミックスチャーは独特であった.壁には木製で見るからに手製と分かるインターフォンが掛かっていた.わたしはこのデザインが大変気に入っていて、後日センターが現在の所沢に引っ越すときに譲ってもらった.インターフォンは職員室とつながっていてピィ−ッと甲高い呼び出し音を出した.

この部屋で週に1〜2日の半日以上を先生と過ごした.盲人の歩行時の偏軌傾向(veering tendency)、ベーチェット病患者の循環機能、盲人の単独歩行時の心拍数などの実験をこの時期に開始した.使用した計測機器は中古あるいは自作で、機器の調整に多大な時間を費やした.なかでも心電計はお天気屋で、ご機嫌とりに苦労した.先生はわたしを使って実験を進めるのであるが、ずぶの素人のわたしの目と手は先生の期待するようには働かない.わたしの頭が邪魔をして先生の指示がストレートにわたしの目と手に伝わらない.

論文の口述筆記もよく行った.わたしはあたかも音声入力、音声ディスプレイのワープロである.ただ、処理速度は遅いし、文章の編集には更に時間がかかった.用紙はたちまち文章の挿入、削除,移動で真っ黒になった.とくに移動はワープロのように簡単ではない.どうしようもなくなると「一度書き直すか?」と先生は言い、わたしが書いている間はタバコを一服した.人間ワープロのわたしには滅多に休息はなかった.この作業はわたしにとっては楽ではなかったが、先生の思考過程をのぞく楽しみがあった.いくつかの短い語句で始まった論文の原案が少しずつ膨らみ完成してゆく過程をつぶさに見られるのである.次ぎに来る言葉の予測が的中して、一人喜んだりもした.タバコの数ばかり増え、原稿用紙がいっこうに埋まらないこともあった.わたしはインターフォンのピィーっという音を期待しながら、じっと次の言葉を待った.インターフォンの呼び出しはわたしにひとときの休息をくれたから.

パリ便り

1988年6月

パリの街は、東京の山の手線内側の大きさとほぼ同じだそうである.その中を、メトロと呼ばれる地下鉄が網の目のように走っている.メトロは全部で13路線、その駅は300近くである.パリ市内のどこへも、早く安く行ける交通手段である.わたしも仕事に、観光に、買い物にと毎日メトロを利用しています.ドアは八高線のように半自動,開ける時は自分で把手をあげるか、ボタンを押すかします.座席は4人の対座式で、ドアの左右だけ折りたたみ式の座席があります.たぶんラッシュ時の混雑に対応するためでしょう.5両連結の真ん中は一等車で、二等車の約1.5倍の料金を払わなければ乗れません.車内放送,ホームのアナウンスは一切ありません.運転手がドアの開閉を行い、閉じる時にブザーが鳴るだけです.目的駅を知るには、各駅の壁に表示された駅名と、ドアの真上の路線図が頼りです.

私のような旅行者にとっては、乗客を観察しているだけで、時間があっという間に過ぎてしまいます.ときどき地上に出た時、車窓に映るエッフェル塔やセーヌ川などの観光名所も物の比ではありません.パリにも流行はあるようですし、それを追う人もいるようですが、一人一人の個性がわが国よりも際立っているようです.中でも、女性の服装には目を引かれます.でも私自身も充分乗客の興味を引いているので、観察には視線が合わないよう注意しなければなりません.

その点,嗅覚による観察は容易です.そしてこれも視覚刺激に劣らず豊富で、自然な体臭から高価な香水まで様々な刺激で楽しませてくれます.このように目と鼻で車内を観察していると、突然耳に刺激が入ります.すでにご承知の通り車内放送やホームアナウンスではありません.歌や楽器演奏です.とくに買い物のキャリーに積んだ小型アンプを使用している時は、その音量も相当なものです.ミシュランのタイヤをはいた車両の騒音など軽く越えて明瞭に聞こえます.音楽はクラシックからジャズ、独奏からバンド演奏と多彩です.ひととおり演奏が終わると、空き缶を持って車内を一巡り。小銭を入れる人,知らんぷりする人、どちらもくったくがありません.メトロが駅に停まると次の車内へ移り、また一仕事と行った具合です.

パリに住む人にとっては必ずしもメトロは快適なものではないようですが、私にとっては退屈を居眠りで紛らしたり、周囲に神経をとがらす必要のない楽しいひとときとなっています.

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