●「0080 ポケットの中の戦争」の話
 
 私は富野由悠季崇拝派なので、私が「ガンダム」といえば、それは基本的に彼が指揮を取ったもの……つまり「ガンダム」(もちろん、これを 「1st.」と表現するのは大嫌い。1st.もクソもない。「ガンダム」と言ったら、それは取りも直さず、「あの」ガンダムのことなのは当然である  笑)、「Zガンダム」、「ガンダムZZ」、「逆襲のシャア」、「F91」、「∀ガンダム」などを指すことになる(「Vガンダム」は、残念ながら未見。他の ガンダムも基本的に未見)。
 
 だから、実は「0080」や「0083」も、最初は観るチャンスを自分から遠ざけていたし、実際観たのも、発表から5年やそこら経ってからだっ た(「第08MS小隊」は、幸い早い時期に観ることが出来た)。しかし、「0080」と「0083」を、逆の順序でやってくれていれば、私ももっとずっと 早くに、この2作品を観ることが出来ていたに違いない。
 
 「0080」……。そう、10年前のあのときの私の第一印象は……「「戦争」という出来事を、「対岸の火事」という今まで試したことのない全く新しい観点、しかも「子供の目」という、新鮮な視点で描いた、微笑ましい小作品」……というものだった……。
 
  ところで私は、大衆の気を引くために持ち出される「動物とか子供」が、実はあまり好きではない。シビアな「戦争」という現実を、ちょっと遠くから子供の目 線でコミカルに描かれたのではたまらない……。そんなわけで、私は長い間、「0080」を観ずに過ごしてきた。しかし、観る機会はいくらでもやって来るも のである。気は乗らないが、一応観ることにした。
 
 思った通りの展開だった。そこでは、「ザク」は好奇と興奮の対象であり、駄菓子屋(宇宙世紀にもあるのか? 笑)のオマケの階級章は、友達を服 従させるのに充分なアイテムだった……。期待通りの「嫌悪感」を感じたが、そのまま観続けた。やがて少年は、ジオン国の手助けをすることになるのだが、そ れでもお話はコメディータッチに進行する。
 
 最終話が近づくにつれ、内容そのものはシリアスになっていくが、主人公のアルとバーニィのやり取りの雰囲気は、終始変わることはなかった。しか し、物語は最後の最後だけ、意外なトーンを見せた。見始めるときとはまるで逆の、重苦しく、また別の意味で不快感の残る終わり方を迎えた。しかし不思議 と、ときどき「0080」が嫌いだったり苦手だったりする人が口にする、「やりきれなさ」というのは感じなかった。
 
 「0080」の最後において、「核爆弾は押収できたのだから、サイドは攻撃されることはなく、従ってガンダムを破壊する必要性もなくなり、バーニィの最後の戦闘は無駄な行為だったのではないか」ということが言われる。皆さんはどう思っているだろうか?
 
 正直申し上げて、もう核攻撃が明日にも迫っているというのに、ここでガンダムを破壊したところで、連絡系統のこんがらがっていた(というか、ダ メになっていた)サイクロプス隊の成果が、すぐさまジオンのおエラいさんに通じたかも心配だが、ここではそれは横に置いておく(笑)。
 
 私は、あそこで描かれていたのは、「人間の虚しさ」みたいなものだったと考えている。そして、富野氏がガンダムで描き続けてきたのも、実はこの 「虚しさ」だったのではないか? 少し言葉が足りないので付け足せば、富野氏は「分かり合えないことによる虚しさ」を描こうとしていた、と私は思ってい る。
 
 富野氏は、「人と人とは分かり合えない」という現実にうんざりだったからこそ(富野氏も私も、ズバリ「人間嫌い」です 笑)、人と人とが即座に 分かり合える、「ニュータイプ」を夢見たのではないか? 分かり合えるということは、相手の立場になって物事が考えられるということであり、それはすなわ ち、相手を思いやれるということである。
 
 「逆襲のシャア」の中で、クェスはニュータイプについて、「人やものを正確に認識できる人」だと言っているが、そういう人々こそ、自分の私利私 欲にとらわれることなく、壁一枚向こうは宇宙空間という、極限的に危険な、新しい時代の新しい大地で、お互いが共生出来得る……新しい宇宙世紀の人間にな れるのではないか……というのは、富野氏ではなく、実は私が最初にガンダムを観たときからの、私の漠然としたニュータイプ論なのだが……(もちろん、富野 氏がこういう説明をしたことはないが)。
 
 ちなみに、「エヴァンゲリオン」の庵野氏は、このうんざりな現実に対して、自身と他者との境界線が不明確になるという、劇場版のラストの衝撃的 映像で、これに自分なりの決着をつけていた(余談だが、自身と他者との境界線が曖昧になるのは、軽度の自閉症の症状らしいのだが……)。
 
 ちょっとわけ分からなくなってしまったので話を戻そう。富野氏は、人と人とが分かり合えずに生まれる悲劇を、「ガンダム」でも「イデオン」でも 好んで描いているように思える。それこそストーリーの至る所、「人と人とはこんなにも分かり合えないものですよ」的エピソードのオンパレードである。
 
 だいたい物語の脚本というのは、現実社会よりは、会話する二人の意志疎通が上手く行われることが多いものである(脚本は一人で書くんだから、当 たり前と言えば当たり前だが)。ところが、富野氏の脚本は、何だかもう慢性的に、会話がかみ合っていない、誤解の連打である。わけの分からん副詞を叫んで 終わりのことも多い(これは関係ないか 笑)。
 
 そもそも子供アニメの場合、例えば科学忍者隊の戦闘機の名前は「ゴッドフェニックス」と、敵のベルクカッツェにも分かっているのが普通である。 もっと言えば、「真ん中の垂直尾翼が見えないときは、1号機が合体してない。5台が合体してないので、バードミサイルは使用不能である」という、絶対バレ てはいけない最重要機密も、たいていは筒抜けである(笑)。それがガンダムとなると、さっそくホワイトベースの名前は、敵のシャアには「木馬」となる。 ま、名称の問題は「分かり合えない」という今回の問題とはちょっと違うかも知れないので、別の例にしよう。

 これは私がガンダムの中でも1、2位を争う好きなシーンなのだが、それは「逆襲のシャア」で、ケーラ・スゥがギュネイ・ガスに捕えられるシーン である。このときギュネイはアムロに、武装を放棄し、投降しろと要求する。ケーラの身の安全を第一に考えたアムロは、もっとも威力のある、奥の手であるは ずのフィンファンネルを真っ先に放棄する。
 
 しかし、その行為はギュネイには通じず、フィンファンネルを放熱板と勘違いしたギュネイには、むしろ神経を逆撫でする行為となり、「バカにする な」と、彼をますます熱くさせてしまうことになる。このあと、結果的にアムロは、ケーラを死なせてしまうことになるのだが、とにかく、このシーンは虚し い。
 
 だけど、何故だか少しだけスッキリしたような気分にもなれる。多分、日常生活でも往々にしてあるこういう誤解を、富野氏が自分に代わって描いて くれたと感じるからかも知れない(誤解してアムロを咎めたギュネイは、そのあとその放熱板が強力な武器であることを目の当たりにして、自分の判断が間違い であったことを知り、多少なりとも後悔することになる。富野氏に言わせれば、「それ見たことか」……である 笑)。そしてこのシーンは富野氏にとっても、 日頃言いたかったことが凝縮されているシーンじゃないかと思う。
 
 何だか話がグルグル回ってしまった。そろそろ結論を急ごう。結局、何が言いたかったのかというと、「0080」の最後も、ちょっとニュアンスは 違うが、「人と人とは分かり合えぬもの。そしてそれは、いつも虚しい」ということを描いていたような気が、少なくとも私にはしたのである。虚しいし、例え ようのない不快な視聴後感もある。しかし、少し経つと「0080」は、私にそれなりのカタルシスを与えてくれた。
 
 「0080」のラストにはカタルシスがない」という人もいるけれど、私には感じられたのだ。虚しさを感じることで、心がある種、浄化されたのか も知れない。今では「0080」は、「富野氏が監督しなかったガンダムの中で、もっとも富野ガンダムに通じるものがあるガンダム」と自信をもって勧められ るし、私の中では、富野氏以外が造ったガンダムの中で、初のフェイバリットガンダムとして数えられる記念すべき作品になったのである。

 
 
 
 
HOME