9月初めより紹介してきましたこの『La Buche/ブッシュ・ド・ノエル』ですが、とうとう東京での封切り、11月11日が近づいてきました。ここでは音楽中心のご紹介をさせていただきましたが、肝心の作品そのものには特に触れないままでしたので、フランス現地の映画評を中心にご紹介してみたいと思います。

 公式サイトの方では、映画誌『STUDIO』の評を載せておりましたが、ちょうどこのリンクのお話を配給のロサ映画社から連絡いただいたときに、書店で入手した『STUDIO』誌がちょうど
エマニュエル・ベアールの特集号で、ベアール自身が自分の出演作品について書いた部分もありましたので、これらも含めて出演者の簡単なページも作れればなどと思っていたのですが、その後色んな事が起きて忙しくなってしまい、M・ルグランの作品リストを追加するのが精一杯でした。

 スペースの都合もあるので、各評の全訳文を載せることは出来ませんが、ポイントとなる部分を抽出してみましたので(ストーリーにはあまり触れないようにしてあります)、観た後で自分の感想と照らし合わせてみてはいかがでしょうか。

Le Monde

 『ブッシュ・ド・ノエル』の中では、義務的な繋がりで結ばれた家族たちにとっては、地獄のような季節であるクリスマスのお祝いが、ユーモアをこめて描写されている。三姉妹の関係は、時につれて非常に複雑になっていきながらも、彼女たちはお互いを見つめ直していく。
 シナリオはやや人工的で、数日間のうちに、急に登場人物たちの関係が変化したり、クロード・リッシュやフランソワ-ズ・ファビアンにカメラに向かって語らせたりしているが、巧みに計算して作られたコメディーの原則を守っている。気の利いた台詞を狙ってはいないが、伏線の中で滑稽味を帯びてくる会話や、サビ-ヌ・アゼマとフランソワ-ズ・ファビアンの2人の見事な演技、ミシェル・ルグランの音楽が融和して、エレガンスすら感じさせる。

Dossier Cinema/"La Buche" Vu Par Un Scenariste

 ダニエル・トンプソンが題材にしたのは、既に脚本家として何度か扱った、家族というお気に入りのテーマである。この映画の冒頭、葬儀のシーンでのギャグは、登場人物たちの関係も説明する、滑稽な映画のお手本とも言えるシーンである。もう一つのお手本は、2人の登場人物、父親(クロード・リッシュ)と3人の姉妹の中で最も関係の悪い次女ソニア(エマニュエル。ベアール)が、無言の内に心の通い合う様子を分らせているシーンである。父の部屋に訪れる人々は、皆息苦しそうにしている。しかしソニアは映画の終盤、初めて彼に会いに来てこう言う。「ここは居心地がいいわね。」それは他の訪問者に比べて可笑しく聞こえるが、その言葉はどんな表現よりも見事に、その父と娘がよく似ていることを表している。しかし、この映画の成功はシナリオだけに留まらない。この映画では登場人物たちがカメラに目線を投げかけるだけで、まるで自分に語りかけているように思えて、我々は彼らが決して独りぼっちではないと悟るのだ。

Liberation-Cinema

 これまで数多くのユーモア溢れる成功した映画の脚本を書いてきた、ダニエル・トンプソンの初監督作品に、人は物凄いコメディーを期待していたが、『ブッシュ・ド・ノエル』で描かれるのは、頑固なまでに陰鬱な展開の家族の問題である。幸いなことに、最後には壊れた家族の関係の壷は、感情という糊で修復されるのだが。
 音楽の趣味は良いし、役者たちもリラックスした良い仕事(特にクロード・リッシュ)をしており、ポスターも完璧だ。しかし問題は、この映画の中の実存的苦悩が、観ている我々を酷く憂鬱にすることで、早い話が、ダニエル・トンプソンはウディ・アレンではないということだろう。滑稽な台詞、感情の絶妙なかみ合い、というのはなかなか成功するものではない。サビーヌ・アゼマの才能のお陰で、七面鳥のシーンは笑いを呼ぶが、全ての登場人物が、彼らのささやかな内緒事や、喉にひっかかっている思い出を語り始めると、こちらは身の置き場がなくなってしまう。

La Presse-Cinema

 ダニエル・トンプソンは、葬儀で幕を閉じた陰鬱な11月の終りから、運命的なクリスマス・イヴとの間に、サスペンスを設定した。ロシアの血をひくユダヤ系の家族のささやかな幸せのために、彼らを互いに結びつける生物学上の絆を確かめさせたのだ。この映画の鍵は一つの問いに集約される。つまり、誰が誰と寝たのか?ということだ。
 これが初監督となるダニエル・トンプソンの名を聞いて、人は彼女の父、ジェラール・ウーリーと共にこの30年間に書かれた滑稽極まりないコメディーの数々とその成功から、おどけたコメディーを想像するだろう。しかし、この映画を観て、すぐにそれが深刻なコメディーだと気付くはずだ。
 最高のシャンパン、トリュフ・・・、豊かな御馳走を前に唾が出ずにはいられないし、パリのイルミネーションに彩られたシャンゼリゼを夢見ずにはいられない。しかし人々は大通りから、突然に幾分苦く、そして型どおりの出来事の起こるコメディーの路地へと連れ戻されるのだ。


 
この映画の評価は、概ねル・モンド紙の評に代表されるような好意的なものだったようです。ただ、これまで喜劇的な作風の脚本が多かったダニエル・トンプソンの初監督作品に対して、人々が想像した作品とは少し違っていたのも事実のようで、この事に対する最も辛口の評が、上記の"Liberation"のそれでしょう。

 私が試写でこの映画を見せてもらったときに、実は自分が想像していたものとは大分違う映画だと思いました。それはコメディー云々ではなく、フランス映画として観た場合の違和感というか、何かそのときはうまく説明できないものでした。しかし、上記の"Liberation"の中にあった、<ダニエル・トンプソンはウディ・アレンではない>、これに膝を叩きました。まさにウディ・アレンが撮ってもおかしくないような題材、でも出来上がった映画はウディ・アレンとは違う。多分ウディ・アレンならもっとこの映画を上手く撮ったには違いありませんが、それはウディ・アレンという現代最高の映画監督の1人と比べた場合の話であって、この映画が不出来という訳ではありません。

 こうした家族をテーマにした苦いコメディーは、元々ダニエル・トンプソンがどうしても手がけたかったものなのでしょうが、その苦さもクリスマスという季節を舞台にすることによって、カヴァーできると考えたのだと思います。この映画の宣伝コピーにもあるように、その苦さを
<優しく包んで>くれるのが<愛の季節(クリスマス)>だったということです。