赤の女王と雄

 「赤の女王」とはルイスキャロルの「アリス」に出てくる女王様で、前に前にと走っているのに、まわりの風景は全く変わらず、全く進んでいないように見えるというナンセンスキャラクターです。
 生きた化石といわれるオウムガイ、カブトガニ、シーラカンスなどその祖先が誕生したときから、「進歩」という意味では全く変わっていない様に見える生物達がいます。また人間も含め他の生物も段階的に進化してきていて、その途中は形態の変化が見られない時期が続くことが化石記録からも見られます。形態に変化がないときは「進化」が止まっているのでしょうか?
 一見、祖先と変わっていないように見える生物達も、一刻も休むことなく進化と競争を行っているらしいと最近は考えられています。「なに」に対しての進化、競争か?というと、それは主として病原性物に対してと見なされています。これを走っているのに進んでいるようには見えないルイスキャロルのお話にたとえて、「赤の女王仮説」と呼びます。
(もちろん、大型捕食者などに対しても軍拡競争しているのですが、個体が死ぬ原因は大型生物に食べられる事に比べても、病気で死ぬ場合が結構多いことが分かってきました。特に、生物が大きくなればなるほど「病気」の占める割合は高くなります。)

 天然痘、コレラ、結核、ペストなど人類史を書き換えるほどの影響を持ったこれらの感染症も、ヒトの生物史という意味では、つい最近に巡り会った疾病です。梅毒はルネサンスになってから登場しましたし、AIDSの登場は1959年の少し前にヒトがHIVウイルスと出会ってしまってからのようです。霊長類として地上に出現してから、いや有核生物として海に生まれてからどのくらいの病原性物と人類・及びその祖先は出会ったでしょう。その幾多の生命を脅かす病気に種の個体全てが滅ばされることなく、数十億年を生き抜いて現在あるのが、ヒトをはじめ現世生物です。
 この病原生物の中でもウイルスは手強く、ヒトの1万倍の速度で進化する種類もあります。そのような「強敵」に対して、排除したり、飼い慣らしては無害なものにしたりと戦い続けて滅びなかったのが今の私達です。

 ものすごく強力な病原生物に対しても生物は結構しぶといようです。その例としてオーストラリアのウサギがあります。有胎盤類のいなかったオーストライア大陸に狩猟動物としてウサギが持ち込まれると、あっという間に個体数を増やし羊産業を壊滅させかねないほどに増殖してしまいました。
 これに対してウサギに対して致死率「100パーセント」という粘液水腫ウイルスが持ち込まれ、オーストラリア大陸からウサギを絶滅させる計画が実行されました。このウイルスが持ち込まれた後、大陸はウサギの死体であふれました。数年間生きたウサギが見られなくなったオーストライアですが、やがてこの大陸にウサギは復活しました。新たに持ち込まれたわけではなく、数万匹に一匹という粘液水腫ウイルスに自然耐性を持ったウサギが生き残りその子孫が再び繁栄し始めたのです。
 殺虫剤に抵抗性を持つようになったハエなどのように生物はなかなかしたたかです。

 有核生物には雄と雌がいて有性生殖をし、子孫を残すのが一般的ですが、中にはギンブナや西洋タンポポのように無性生殖や自家受精で増える種もあります。
 雌だけで増えていくことができる無性生殖には有性生殖に比べて有利な点がいくつかあります。まず、雄という子を産まないよけいなものがいらないので、単純に繁殖個体が2倍になったと同じ効果になる。また、無性生殖はもっとも良い組み合わせの遺伝子で固定されているのが普通なので、有性生殖のように受精時にあまり適応的でない遺伝子の組み合わせを作ってしまう恐れがない。雌雄の巡り合いによけいなエネルギーを使わずにすむ。その上、新天地にたどり着いた個体がたとえ一匹でもすぐ個体を増やせる。等々、有性生殖に比べ、無性生殖には有利な点がいくつかあり、実際、移入動物などで、繁栄しているものには無性生殖や自家受精できる生物が多くを占めます。
 しかし、不思議なことに、無性生殖のみをする種には必ず母種と推察される近縁種がいるのに、無性生殖から新機軸の種は生まれ出ないようです。無性生殖をする種は遺伝的に同一のため、何らかのきっかけで、全個体が全滅してしまう可能性が長い時間の中ではほとんど必発に起きるようでです。
 有性生殖では受精時に染色体のあちこちで交鎖がおき、HLA(主要組織適合抗原)をはじめとして、様々な遺伝子のシャッフル(かき混ぜ)がおきます。HLAが異なれば疾患ごとに感受性(感染、発症しやすさ)が異なります。「遺伝子の多様性を保っていくこと」、これがヒトに1万倍の速度で進化できるウイルスに打ち勝って来させた秘密のようです。(AIDSでも、全く発症しない自然抵抗性を持った人達がいます。)
 このシャッフルのために有性生殖をする種は、半分の個体を直接子供を生まない、一見無駄に見える「雄」という存在を作り出したようです。
 「病気があるから、雄の存在意義がある」というヒトの雄としては何とも奇妙な気持ちのするお話でした。