「ハワイアン・スイート/オータサン」
ビクターVICG-60524 (2002年6月21日発 売)
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オータサン(ウクレレ)、ブルース・ハマダ(ベース)、ボブ・アルバニーズ(
ピアノ) |
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「ハワイアン・スイート」解説
ジャズの雰囲気があふれたハワイアン音楽アルバムの誕生
「オータサンの弾くハワイアン音楽は?」と聞かれると「ハワイアン・ウェディング・ ソング」や「小さな竹の橋」を思い浮かべるかたも多いことと思います。
たしかにTV番組やコンサートで「ハワイアン音楽を!」とリクエストされますとすぐにこれらの曲を弾くのですが、オータサンの弾くハワイアン音楽の真骨頂は今回のアルバムのようなジャズやボサ・ノヴァの雰囲気を持たせたコンボ演奏に あります。2001年、2002年と連続してオータサン・トリオによる 日本へのコンサート・ツアーを持ったのも、このようなジャズ・テイストの演奏を日本のファンの皆様に聴いて頂きたいという気持ちの表れなのです。そして今回のアルバム「ハワイアン・スイート」はそのタイトルのように全曲がオータ サンのハワイアン・アルバムなのですが、コンサート・ツアーのメン バーであるピアニストのボブ・アルバニーズとベーシストのブルース・ハマダを中心としたジャズの雰囲気があふれた演奏のアルバムとなっています。
さらにこのアルバム・タイトルの「スイート」には「組曲」という意味もあり、彼等以外のジャズメンとの共演も含まれている、いわば「ジャズ・テイストによるハワイアン組曲」といったアルバムになりました。ミュージシャンの横顔(カッコ内は録音に参加しているトラックの番号)
オータサン :ウクレレ(全曲)
オータサンの横顔は前作「ウクレレ・デュオ」(ビクターVICG-60452: 2001年6月21日 発売)に詳しく紹介させていただきましたので、ここではオータサンのステージ・ネームについてご紹介しましょう。
本名がHerbert Ichiro Ohta(ハーバート・イチロ−・オータ)ですので、若い頃すなわちエド・サリヴァン・ショーに出演した頃や日本駐留中の呼び名は 「Herbert Ohta(ハーバート・オータ)」が使われていました。これに対し、1964年 日本から帰国してSushi(鈴懸の径)/Bonsai(森の小径)でレコード・デビューした際に、プロデューサーであったドン・マクディアミッド・シニアの発案で 「Ohta-san」と命名され、基本的にはこれが現在まで続いているのです。ただ、この「Ohta-san」はハワイや米本土では「ステージ・ネーム」として通 用するのですが、我が国の場合は「大田さん」という一般呼称にもとれ てしまいますので、日本語では「オータサン」と、すべてカタカナ表記をしてステージ・ネームであることを強調してきました。一方、Herbertの愛称が Herbであることから「Ohta-san」という呼び名に平行して「Herb Ohta(ハーブ・オオ タ)」というステージ・ネームが録音やステージで使われ、最近まではこちらのほうがむしろ広く使われてきました。
しかし、彼の息子であるHerbert Ohta Junior(ハーブ・オオタ・ジュニア)が同じウ クレレという分野の演奏家としてプロ・デビューして以来、彼等父子 のステージ・ネームがファンのあいだで混同して受け止められるという例もありましたので、ふたたび「Ohta-san」という呼称をメインにすることとし、 日本語ではこれを「オータサン」と呼ぶことに統一いたしました。機を一にして息子のほうもステージ・ネームを単なる「Junior」(日本語では「ジュニア」 と表記)と変更しましたので、今後は父子の「混同」は避けられるものと期待しています。 マリナーズのイチロー選手が米国でも認められてきたので、この際、ステージ・ネームを「オータサン」ではなく「イチロー」にしようか、などという冗談も出たことがあったようですが・・・ボブ・アルバニーズ :ピアノ(1,3,5,6,8,9,11,12)
今回のアルバムの主力メンバーであり、ブルース・ハマダとともに2001,2002年の日本におけるコンサート・ツアーのトリオのひとりでもあるボブの横 顔をご紹介いたしましょう。
彼は1957年にニュージャージー州のニューアークで生まれ、8歳からピアノ演奏を始め13歳のときには全ニュージャージー州ピアノ・コンペティション の一位を獲得いたしました。1975年から1979年までは有名なボストンのバークリー音楽院に学び、多くの指導者のもとでクラシック・ピアノ、作曲そし てジャズの即興演奏法をマスターいたしました。 彼の音楽は聴衆に広く受け入れられ、数多くのグループとの共演が行われてきました 。その中でも1981年に全米からカナダにかけて行われたバデ ィー・リッチ・ビッグ・バンドのピアニストとして選ばれたことは、彼にとっても彼のファンにとっても大きなエポックでした。 彼の活動を列記しましょう。
まず彼はハーレムにあったクラブでハモンド・オルガン をしばらくの間弾いていたのですが、その後1980年代の後半になるとプエルト・リコに渡り、そこのラテン・バンドでピアノを弾くようになりました。当時このバンドに在籍していたフルート奏者のマリシオ・スミスがオータ サンの古くからの友人で、オータサンのレコーディングに参加したり、アレンジを担当したという間柄でしたが、このマリシオが後述のようにボブをオー タサンと結びつけるきっかけをつくりました。
1990年から1994年にかけてのボブはニューヨークのロックフェラー・センターにあるレインボー・ルーム専属のピアニストとして活躍するかたわら、リタ ・モレノやキャロル・シャニングのブロードウエイ・ヒット曲集のレコーディングやライブにシンセサイザーで参加したり、レイ・マンティラのラテン・バンド のレコーディングやツアーに参加していました。
彼とオータサンとの出会いは1994年のことでした。上述のマリシオからボブ・アルバニーズという優秀なピアニストがホノルルに行っているとオータサ ンに連絡があったので、ちょうどホノルルで開催されていたジャズの催しに参加していたボブの演奏をオータサンが聴きにいったのです。たまたまオータサンはアニタ・オデイとのアルバムを制作中でしたが、アニタが彼女のバンドのピアニストと喧嘩をしてしまい、ピアニストなしでの録音をせざるを 得ない状況にあったのですが、ボブの演奏が気に入ったオータサンはすぐさまボブをアニタのアルバム録音に参加して貰い、そのCDを無事に誕生 させることができました。そしてこれを契機にオータサンのジャズ・アルバム録音の際には声をかけるとボブはその都度わざわざニューヨークから飛 んできてくれるようになりました。そして、遂には2001年、2002年には日本でのコンサート・ツアーにまで参加してくれる間柄となったのです。
長いこと独身であったボブが結婚を決意しそのセレモニーをニューヨークでおこなう予定日があのニューヨークを中心とした多発テロ事件の発生した 2001年9月11日その当日だったので、当然ながらセレモニーはキャンセルとなり後日あらためて実施されました。ブルース・ハマダ :ベース(1,5,9,12)
私事で恐縮ですが、最近はハワイでナマのスチール・ギターによるハワイアン音楽演奏が楽しめるスポットが極めて少なくなりましたので、ホノルルへ 行った際にはいつもハレクラニ・ホテルのラナイにある「ハウス・ウイズアウト・キー」というレストランでアレン・アカカやケイシー・オルセン(以前はジェ リー・バードも出演していました)のスチール・ギターの音色を楽しんでおりました。そしてある日このレストランからホテルの中庭を置いて反対側にあるラウンジ・バー「ルワーズ・ラウンジ」でピアノおよびベース/ボーカルのふたりのミュージシャンがジャズを演奏している様子が偶然目に入りました が、そのベーシスト兼ボーカリストこそ今回のCDおよび2001年と2002年の日本ツアーに参加したブルース・ハマダだったのです。
ブルース・ハマダは1957年すなわちボブと同じ年ににホノルルで生まれました。ドラマーであった父親のブルース・ハマダ・シニアの影響を受けて小さ いときから音楽に興味を持ち、ハワイ大学の音楽教育学部を卒業後、ロサンゼルスに あるディック・グローブ音楽学校でベース、キーボード、作曲学、 編曲学そして音楽プロデュース学等を学びました。
一般的にハワイ生まれのジャズ・ミュージシャンが大成するにつれて米本土に移動するという傾向があるようですが、ブルースの場合はジャズの本場からも認められるようになってからもハワイに踏みとどまり、数多くの地元のミュージシャンや各地からハワイを訪れるミュージシャンのバックを務めてきました。今までにもオータサンがジャズアルバムを制作する場合は、ライル・リッツ、バイロン・ヤスイそして彼ブルース・ハマダがベースを担当してきました。
ほかの二人よりも「若い」というメリットを買って、オータサンはこのブルースを2001 年、2002年の自分の日本ツアーに帯同しただけでなく、それ以外 のツアーにも紹介したため、沖縄で二度にわたって開催されたウクレレ・フェスティバルやGONTITIのライブ、そして日本のテレビ局の番組にも出演する等、我が国のファンにもお馴染みになってきました。
彼の唄も絶品で、演奏会で披露する彼の歌声を期待するファンも数多くいるようです。 現在彼は上述のハレクラニ・ホテルのラウンジ・バー「ルワーズ・ラウンジ」でジム・ハワードのピアノと組んで演奏しているほか、「ブラック・オーキッド」 というレストランでフュージョンのグループと一緒に演奏をしています。以上3名がこのアルバムの中心的ミュージシャンですが、彼等以外にも素晴らしいミュージシャン達が参加していますので簡単にご紹介いたしましょう。
ライル・リッツ :ベース(2,3,4,6,7,8,10,11)
ライルの横顔も前作「ウクレレ・デュオ」(ビクターVICG-60452)に詳しくご紹介いたしましたので省略しますが、ライルとオータサンのつながりはきわ めて深く、「ウクレレ・デュオ」でこそライルのウクレレ演奏が披露されましたが、通常はあくまでもオータサンをバックアップするベーシストとしてレコー ディングに、コンサート・ツアーにと活躍しています。彼はスタジオ・ミュージシャンとして一流のミュージシャンのバックをベースで務めてきた超一流の ベーシストであることはもちろんですが、ジャズ・ウクレレというウクレレの新しい分野を開拓したミュージシャンとしても大きな存在と言えます。
ダニー・オットー :ギター(2,4,6,7,8,10,11)
オータサンの何枚かのCDに参加して華麗なギター・ソロとボーカルを聴かせてくれたダニーはこの録音後しばらくして亡くなりましたので、このアルバ ムが彼の最後のアルバムと言うことができます。 ジミー・フナイ:ギター(3) 今回のアルバムには僅か一曲の参加ではありますが、ナンド・スワンと並んでオータサンのレコーディングやコンサート・ツアーにたびたび参加して独 特のアドリブを聴かせてくれております。
モーガン・グラント :ドラムス(2,4,7,10)
もともとピアニストであったダニー・オットーのお兄さんと組んで演奏していたモーガンは、ダニーがオータサンの録音に参加した際に一緒に呼ばれま した。ライブでの彼の演奏はパワー溢れる力強いものなのですが、レコーディングではお聴きのように極めておとなしい音でバックを務めています。 彼も戦争経験があるのでオータサンと想い出話に花が咲くことがあるようです。
ノール・オキモト :ドラムス(3)
ブルース・ハマダ同様、本場のミュージシャンから認められているにもかかわらず、ハワイを本拠地として活躍しているドラマーです。毎年夏にホノル ルで開催されるジャズ・フェスティバルで彼自身のジャズ・コンボ「アウト・テイクス」で出演するかたわら、同じ時期に同じホノルルで開催されるウクレ レ・フェスティバルのバックも勤めています。彼は極めてたくさんのハワイのミュージシャンの録音のバックアップをしたり、キーボードを弾いたりと大 変器用なミュージシャンでもあります。
オータサンと「ローG調弦」
本人はイヤがっているのですが「ウクレレの神様」と呼ばれるだけのことはあって、オータサンに関するたくさんの「伝説」がウクレレ・ファンのあいだに 存在しているようです。
曰く「オータサンはハワイアン音楽が大嫌いである。」とか「オータサンはローG調弦のウクレレしか弾かない。」、さらには「オータサンはマーティンのス タンダード・ウクレレしか弾かない。」等々、まだまだあると思われます。そのなかで「オータサンがローG調弦を発明した。」という「伝説」について検証してみましょう。
まず単刀直入にオータサンに訊ねてみました。「オータサンがローG調弦を考え出した んですか?」するとすぐに答えが返ってきました。
「最初にローG 調弦を弾いたのはボクじゃあないヨ。誰だか知らないけどネ!」と、
なんとこれだけで 検証は完了してしまいました。しかしこれに追い打ちをかけて「たしか1963年に録音したアルバムのレジェンダリー・ウクレレでは4弦が高いアメリカン・チューニング(米本土で長いこと採用されてきた調弦法で4弦から A−D−F#−B、これに対してハワイアン・チューニングと呼ばれる調弦はG−C−E−Aとなります)を弾いていた筈ですが、いつから(ハワイアン・チ ューニングの)ローGを弾くようになったんですか?」と切り出すと
「あれはネ、1964 年にハワイへ戻って本格的にウクレレ奏者として活動する時に、音域を広げようと考えてこれを採用したんだヨ。」という答えでした。もともとヴァイオリンからコントラバスまで(もちろんリュートやギターも)すべての弦楽器用の弦としてはヒツジの腸からつくった「ガット弦」が使われてい ました。同一の素材であるガットを用いた場合、弦長が一定とするとピッチ(音高)と弦のゲージ(太さ)は反比例いたします。すなわちゲージが2倍にな るとピッチは半分、つまり1オクターヴ低くなるのです。ウクレレの原型といわれるブラギーニャがポルトガルからハワイに到来し、これに手を加えてウ クレレという楽器が誕生した際に、どのように調弦するかが問題点だったと思われます。そしてハワイの人たちにとっては弾いたことのないブラギーニ ャの調弦よりは、すでに馴染みになっていたギターの調弦を適用しようと考えたに違い有りません。
そこで単純にギターの1弦から4弦までを張り、弦 長の短い分だけ高いピッチに調弦してみると、弦長が短い割には4弦のゲージが大きすぎるために、音程が悪かったり、太くて押さえにくかったりした と推定いたします。 そこで思い切って4弦のゲージを半分にして本来のピッチの1オクターヴ高い調弦にし、コード・フォーム(和音の押さえ方)には何の違いもないだけで なく、この調弦によってダウン(下向き)、アップ(上向き)いずれのストラム(コードを弾くこと)でも似たような音色が得られるというウクレレ独特の効果が生まれることがわかり、この調弦方法が定着したのではないでしょうか。
その後、巻き弦をつくる技術が進歩し、ガットはもちろんのこと、いろいろな繊維の上に金属線を巻き付けて質量(重量)を増加させられるようになった ことで、あまり太いゲージの弦でなくても低いピッチが得られるようになりましたので、逆にウクレレの4弦を1オクターヴ低く調弦して音域を拡大しようという試みをする奏者がたくさん現れたことと思います。
先日も友人の持っている1962 年発行のウクレレ教則本にこの「音域拡大法」が紹介されていたと知らされましたが、この教則本でさえ発行年はオータサンがローG調弦を採用した1964 年より前なのです。
曲目紹介
- ハワイ
ジェームス・ミッチェナー原作になる映画「ハワイ」の主題歌としてエルマー・バーンスタインが作曲した「Hawaii(またはI am Hawaii)」というタイトルの 曲がよく知られていますが、ここで演奏する曲はオータサンの完全なオリジナル曲である「Hawaii」です。オータサンのオリジナル曲の作詞者としては ジェイミー・ホープが最も多く担当しており、今回のアルバムでも「Hawaii」以外の3曲は彼女の作詞によっているのに対して、この曲はオータサン自 身が作詞も手がけており、オータサンの祖国ハワイに対する想いがこめられている歌詞になっています。以前はアンドレ・ポップがオータサンのため に作曲した「Song for Anna(天使のセレナーデ)」がオータサンのステージでのテーマ曲としてつかわれていましたが、最近ではこの「Hawaii」を盛んに演奏しているようです。
オータサンと親交のあった映画俳優で歌手の石原裕次郎もこの曲が大変気に入って、彼の次の映画にはこの曲を主題歌として採用しようと考えて いたそうです。しかし残念ながらその実現前に彼が亡くなってしまいましたので、オータサンは彼の死を悼んで「To You(Youは裕に掛けています)」という曲を捧げました。
- ジャングル・レイン
1959年にデイヴィッドMクペレが作詞作曲し、1971年にロバート・アレックス・アンダースンが補作した曲です。「失恋の悲しみでさまようジャングルに 降る雨がその悲しみを晴らしてくれた、もう私は大丈夫」といった歌詞が付いています。1970年代に「ハワイアン・サーファーズ」およびそのグループ のメンバーであった「アル・アンド・クレイ」という兄弟の唄でヒットいたしました。当時流行していたエキゾティック・サウンドのようなタイトルが付いていますが、内容的にはラブ・ソングと言えましょう。
オータサンはロバートとも親交があり、彼に作詞を依頼した曲もあります。そしてこの縁なのでしょうか彼の曲をたくさんレパートリーに加えています。
演奏はダニーのギター、ライルのベースそしてモーガンのドラムスをバックにオータサンはほぼメロディーどおりにウクレレを弾き、ダニーがアド・リブ でからまるという素直な構成になっています。
- サンズ・オブ・ワイキキ
名曲「珊瑚礁の彼方」の作者であるジャック・ピットマンが1960年に作ったラブ・ソングで、ハワイ・コールズのスターでもあったカラニ・キニマカや女性 歌手エマ・ヴィーリー、そしてダン・ホー等の歌手が好んで唄っていました。「ワイキキの浜辺の砂粒一つ一つに恋の想い出がある。私はここにいるの で貴方だけの存在にして欲しい、そしてふたりの未来をワイキキの黄金の砂にして欲しい。」という歌詞が付いています。
実は今回の演奏に参加したメンバー全員がバックをつとめてギャリー・アイコが唄った同じ曲の録音が以前リリースされたことがありましたが、それはあくまでもいわゆる「唄伴」でした。おそらくそのときにこのメロディーの美しさに魅せられて彼等が別にセッションを行ったのでしょう、そしてその録音が大切に保管されていて、今回陽の目をみることになったのではないかと想像いたします。ボブの張り切ったイントロに続くオータサンのウクレレ、 さらに転調してウクレレのアド・リブからピアノのアド・リブへ、そして最後はさらに転調してウクレレとピアノのからみへとこの曲が華やかに進行していきます。
- スプリング・スペンズ・ザ・ウインター・イン・ハワイ
1964年にドン・マクディアミッド・シニアとロバート・アレックス・アンダースンが 共作した楽しいフラ・テンポの曲ですが、ここではボサ・ノヴァで演奏されています。過去にはあまりレコーディングされていないなかで数少ないCDであるオータサンの「Chotto Matte Kudasai」に収録されているこの曲のタ イトルが「ウインター(冬)」ではなく「サマー(夏)」になっているのは大きな誤りでした。
歌詞は「寒い冬の風が吹いて気温が華氏マイナス10度(摂氏マイナス23度)になる季節はハワイへ行く格好の時だよ、あの“春“でさえ冬になるとハ ワイで暮らしているっていうことを知っているかい?」と米本土の人たちをハワイに誘ういわばハワイのPRソングと言えましょう。
モーガンのリズムにはじまり、ライルがベースでメロディーをとり、つづいてダニーがギターでアド・リブを加え後半にやっとオータサンが登場、最後に はふたたびライルのベースとダニーのリズムするというシャレた構成で軽快に演奏しています。
- ワイレア
ジェイミー・ホープ作詞、オータサン作曲になるスロー・テンポの曲。ワイレアはマウイ島南岸の大きなホテルのある保養地で、「ヨットの帆を張って風 に乗ってごらん、ワイレアは貴方を待っている。そしてそこで貴方は本当のパラダイスを目にするだろう!」という歌詞が付けられています。
ほかの曲とことなり、オータサンのウクレレによるイントロとそれに続くウクレレとピアノによるメロディーが広い海原に浮かぶヨットや岸にうち寄せる 波を想像させてくれます。単音弾きのウクレレにもかかわらずこれだけの情感が出せるオータサンの演奏テクニックは、やはり「素晴らしい」という一 言に尽きます。
- カ・マカニ・カーイリ・アロハ
マシューHカーネが1916年に書いたラブソング。自分の元から去った妻を想い、なんとか帰って来て欲しいと願った男がカフナ(呪術師)に相談し、彼のくれた薬をその昔ふたりがよく行ったマウイの海岸の水に注いだところ、その効果により妻が戻ってきたという物語。タイトルの「カ」は定冠詞、「マカニ」は風、「カーイリ」はむりやり奪い取る、「アロハ」は愛、すなわち「風が奪い去った愛」となります。
この曲は普通朗々と歌われているのですが、ここではサンバのリズムに乗せて軽快に演奏されます。オータサンとダニーによるメロディーに続いてボ ブのアド・リブ、そしてふたたびオータサンのメロディーという構成でさらっと全曲が演奏されます。
- フライング
パトリック・ダウンズが1982年に作ったふたりの別れの唄でピーター・ムーンの唄とウクレレによる演奏でヒットいたしました。「私たちは撚りあわされ たレイのように何度となく抱擁してきた想い出があるが、いま空港から旅立つあなたはその想い出だけをのこして海の向こうへ去っていく。」という悲しい内容の歌詞がついています。
演奏はこのような悲しい雰囲気を全く感じさせない軽快なスイング・テンポで進行します。こういう曲のほうがアド・リブが取りやすいのでしょうか、ウクレレのメロディーにウクレレとギターによるアド・リブが続き、ふたたびウクレレのメロディーに戻り、さらにハ長調(C)でありながらAメイジャーで終わるというこの曲の特徴も見事に生かして演奏しています。
- ワイキキ
この曲はアンディー・カミングス1938年の作品です。そのころ彼はハワイ島の有名なハワイアン音楽グループ「フアパラ・ミュージック・トループ」の全 米演奏旅行に音楽ディレクターとして参加していました。そしてイリノイ州やミシガン州という特に寒い地方を巡業しているときに、強烈なハワイへの 郷愁を覚えてこの曲をつくりあげたのです。「愛するワイキキよ、どんなに離れていても私の心は貴方の元にいる、貴方のいない人生は虚しいもの だ。」と、まるで恋人に語りかけるような歌詞が綿々と続きます。
この曲はヴァース(主題のメロディーを暗示する部分)をもっています。そしてヴァースを持ちながらその部分の演奏が省略される曲が多いなかで、 比較的よくヴァースも演奏される曲と言えます。オータサンも半分ではありますがヴァースから演奏を開始しています。そしてこの曲はオータサンのソロが大半ですが、単音弾きと単弦のトレモロを交えて美しいメロディーを際だたせています。
- ワイコロア
よく「ワイカロア」という曲と混同されますが、あちらはフラ・ソングでこちらのほうはジェイミー・ホープ作詞、オータサン作曲で、その地区(ハワイ島ワ イコロア地区)のホテルを讃えるというコンセプトをもつ1988年につくられた曲なのです。「ワイコロアには貴方の夢が叶うパラダイスが待っている、こ こへ来ると山から海までの織りなすハーモニーが見つかるだろう、そしてワイコロアでは風が貴方の耳元でささやき、世界は止まり魔法が始まる。」と いう素晴らしい歌詞がつけられています。ジャズ風のコード進行になっているためにこの曲はアド・リブがしやすいようで、ボブの華麗なアド・リブに続 いてブルースのベース・ソロが入り、最後にはオータサンのメロディーで締めくくっています。
- ハワイ・コールズ
ウェーブリー・エドワーズのプロデュースによって1935年に誕生したラジオ番組「ハワイ・コールズ」は、最終的に40年間も続くという記録をうち立てましたが、ハワイ音楽には余り詳しくなかったウェーブリーをサポートする「音楽監督 」という役割が設けられ、ハリー・オウエンスが最初の2年を、そしてその後1967年まではアル・ケアロハ・ペリーが、そしてそれから最後までをベニー・カラマが務めました。ハリーが音楽監督であった当時、彼はビ ング・クロスビーのプロデュースによる映画「ワイキキの結婚」の音楽も担当し、この映画の主題歌「スイート・レイラニ」で彼はアカデミー主題歌賞を獲得いたしました。一方ラジオ番組「ハワイ・コールズ」の人気にあやかった映画「ハワイ・コールズ」も企画され、その主題歌として彼が1937年に書いたのがこの曲「ハワイ・コールズ」であり、もちろんラジオ番組の「ハワイ・コールズ」でもこの曲は使われました。
オータサンのメロディーとダニーのアド・リブによりスイング・テンポで軽快に演奏されます。
- プア・マエオレ
ハリー・オウエンスが愛嬢レイラニのことを「可愛い娘レイラニ、天の花!」といとしんでアカデミー受賞曲となった名曲「スイート・レイラニ」を作ったと 同様に、ジョン・スキーズ・カマナ(スキーズは綽名)が自分の愛嬢レオーネ・カナニプアマエオレ・カマナを愛する心持ちで1949年に作った曲です。ここで「カ」は定冠詞、「ナニ」は美しい、「プア」は花、「マエ」は消え去る、「オ レ」は否定形、即ち彼女のミドル・ネームは「いつまでも萎れることのない 美しい花」となります。そしてこの名前をタイトルにして愛嬢がいつまでも美しくあれと願う気持ちで作られました。メロディーもタイトルにふさわしく大変 美しいもので、中間の転調気味の部分への展開、そしてメインテーマに戻るパターンが曲の雰囲気を豊かにしています。オータサンのソロにはじまって、ダニーとボブのアド・リブ、続いてオータサンのソロと、この曲を十分に盛り上げる構成になっています。
- アン・アイランド・スペシャル・トゥ・ミー
アルバムの最後のナンバーはふたたびジェイミー・ホープ作詞、オータサン作曲の曲で「私に付いておいで、私にとって特別な島を貴方に見せてあ げよう。そこでは山々が空に舞い、海はうなり声を上げている場所だ、貴方もそこでなぜそこがスペシャルかが分かるだろう。花は7月から6月まで (つまり一年中)咲き乱れ、香りに満ちている。マウイ島の、カアナパリにある岩がその場所なんだ。」という歌詞がついています。この曲でもボブとブ ルースによる張り切ったアド・リブとオータサンのウクレレの見事なタッチを十分に 堪能しつつ、アルバムはフィナーレとなります。日本ウクレレ協会々員 小 林 正 巳