English 「ウクレレ・デュオ」
オータサン(ハーブ・オオタ)&ライル・リッツ
ビクターVICG-60452(2001年6月21日発売)

ukulele duo CD ややもするとオモチャ扱いをされたりハワイ音楽の伴奏用としてのイメージしか持たなかったウクレレという楽器を、立派なソロ楽器としてしかもハワイ音楽のみならずあらゆるジャンルの楽器と対等に活躍する楽器としての地位 に持ち上げた功労者は何と言ってもオータサン(ハーブ・オオタ)であり、さらにはオータサンほど注目はされませんでしたがジャズ・ウクレレというジャンルを確立したライル・リッツのふたりであると言っても過言ではないでしょう。

 このふたりは、長いことハワイと米本土という別々な場所で演奏活動をしており、特にライル・リッツはジャズ・ウクレレのアルバムを2枚リリースした後は本業のベースで活躍していたためお互いの接点はありませんでした。ところが1990年代に本業から「引退」して米本土からハワイに移住してきたライル・リッツが、ある日オータサンの毎晩演奏していたレストランにベース持参で登場し一緒に演奏したことでふたりはすぐに意気投合し、それ以後のオータサンのレコーディングにはライル・リッツが必ずベースを弾くという付き合いになり、これが現在までも続いております。ohta&ritz

 私たちが仲間と一緒に音楽を楽しむときの最小単位は一人が伴奏して他の人が唄うという形が多いのですが、もしもウクレレ愛好者同志の場合ですと、一人が伴奏しもう一人がソロを弾くということになります。オータサンとライル・リッツのふたりもプライベートの場ではこのような楽しみかたをしておりましたが、このふたりの素晴らしいところはお互いにソロをとり、しかも延々とアドリブを交換することができることで、この素晴らしさをウクレレ愛好者のみならずぜひ多くの音楽ファンに知っていただきたいという主旨で今回のアルバムが企画されました。

 過去にも1枚のアルバム中にウクレレ・デュオの演奏の曲が含まれている盤はありましたが、今回の盤のようにすべての曲がウクレレ・デュオによる演奏というアルバムは世界で初めての企画と思います。収録されている10曲はいずれもスタンダード・ジャズおよびボサノヴァの名曲ばかりですので、大変親しみやすいアレンジとあいまって聴く人の心をリラックスさせてくれるアルバムになっております。そしてスタンダード・ウクレレを弾くオータサンの張り詰めた音の立ち上がりと、テナー・ウクレレを弾くライル・リッツの厚みのあるまろやかな音の対比は、ウクレレという楽器の可能性の広さも示していて、ほかの楽器がなにひとつ加わっていないにもかかわらずコンボやビッグバンドの雰囲気さえも醸し出しているのには驚かされます。

 ウクレレ愛好者の皆様は是非このふたりの演奏する雰囲気のコピーに挑戦してみてください。必ずしもテナー・ウクレレが必要なわけではなく、2本ともスタンダード・ウクレレでもこの雰囲気はコピーできると思います。

ステージネーム「オータサン」の誕生秘話

 オータサンの音楽経歴はこれまでかなり詳しく紹介されていますので、ここでは彼のステージ・ネームである「オータサン」(英語で書く場合はOhta-San)の由来についてご紹介いたしましょう。

 1934年10月生まれのオータサンは子供のころからウクレレ演奏に熱中していました。そして12歳のときに当時最高のウクレレ奏者であったエディー・カマエと浜辺で偶然知り合ったのがきっかけとなって彼に師事したのですが、すぐに師をして「もう彼には教えるものが何も無くなった」と嘆かせるほどの腕前になったそうです。

 そのエディー・カマエが来日した際、エディー・カマエと親交のあった灰田有紀彦に「私の弟子で素晴らしいウクレレ・プレイヤーがいる」と紹介したのがオータサンでした。そしてたまたま彼が海兵隊の通 訳で日本に駐留していたこともあり、その後オータサンの在日中は日本ビクターでのオータサンのソロ・アルバム録音の橋渡しをしたり、日本ウクレレ協会(NUA)で彼の演奏を聴く会を開催するなど灰田有紀彦がいろいろと彼の面 倒をみておりました。

 1963年に除隊してハワイへ戻ったオータサンはいろいろな職業を模索した挙げ句ウクレレ・プレイヤーとしての道を進むことを決心し、フラ・レコードのダン・マクダミアド・シニアのプロデュースで翌1964年にサーフサイド・レーベルからシングル・デビューをすることとなりました。日本ビクターで録音した2枚のLPそして日本グラモフォンからリリースされた1枚のLP等における演奏者名としては「ハーバート太田(正確には大田)」が使われていましたので、当時から彼を知っている友人達は彼のことを今でも「ハーバート」と呼んでいますが、ハワイ・デビューにあたってダン・マクダミアド・シニアは彼のステージ・ネームを「Ohta-San」とすることにしました。これはハワイ人のあいだでは「〜さん」という呼びかけは大変敬意をもった言葉として受け入れられていることと、「ハーブ」や「ハーバート」とちがってこんな短い単語で固有の人物を指すことができることをねらったもので、その後「オータサン」はダン・マクダミアド・シニアのもくろみどおり大変ポピュラーになりました。もっともこのためにオータサンがサーフサイド・レーベルも,しくはその後のデッカ・レーベルとの契約中にほかのレーベルに出るときには止むを得ず「Poki-San」などという覆面 名(すぐバレますが)を用いたこともありました。

 デビュー・シングルに取り上げられた曲は日本で世話になった灰田有紀彦の作品「鈴懸の径」と「森の小径」でしたが、これまたダン・マクダミアド・シニアのアイディアにより、当時ビルボードの1位 をキープしていた坂本九の「Sukiyaki(上を向いて歩こう)」に便乗して、前者を「Sushi」後者を「Bonsai」とまったく無関係なタイトルにしてしまいました。しかしこのデビュー・シングルの大ヒットによりウクレレ奏者としてのオータサンの地位 は不動なものとなり、現在に至っております。

ライル・リッツ/ウクレレと無縁だった30年

 1930年1月生まれのライル・リッツは、学生時代にロサンゼルスの楽器店でアルバイトをしていました。彼の仕事はお客さんに店の楽器を弾いて見せるというものでした。もともと彼は子供の頃からバイオリンを勉強していたのですが、どんなに努力しても学校のバンドの第2バイオリンにやっと加えて貰える程度の腕前にしかならず、バイオリンを専門とすることをあきらめていました。ところがある日アルバイト先の楽器店でウクレレを見つけ弾いてみたところ、その音色の素晴らしさに魅了されてしまいました。そこで彼はすぐに自分用のウクレレを購入して毎日のように弾きこむことでウクレレ独特のコード・ワークに習熟していきました。このウクレレが1958年にリリースした「How About Uke?」(Verve V-2087)と翌年リリースされた「50th State Jazz、邦題:ウクレレでジャズを(Verve VL-1045)日本発売1962年」の録音に使われたカット・ウェイ形(次項をご参照ください)のギブソンのテナー・ウクレレだったのです。当時の彼は現在のように太ってはいませんでしたが、大柄な体型でしたのでスタンダード・ウクレレではなく彼言,うところの「マイ・サイズ」のテナー・ウクレレを選んだようです。

 学校を出たライル・リッツはAランクのスタジオ・ミュージシャンとしてアップライトおよびエレキのベースを弾き、5000曲を越える録音をしてきました。彼がバックをつとめたミュージシャンはフランク・シナトラ、リンダ・ロンシュタット、ライチャウス・ブラザース、ビーチ・ボーイズ、レイ・チャールス、ティナ・ターナー、ジョニイ・マチスその他有名歌手、グループが枚挙のいとまもないほどです。

 先ほどの2枚のウクレレ・ソロ・アルバムはこのスタジオ・ミュージシャンとしての活動の合間に仲間と録音したものがヴァーヴ・レコードに認められてリリースされたもので、それ以降30年以上というものはウクレレは彼の「趣味」としての楽器にとどまっておりました。プロ・ミュージシャンを1990年代のはじめに「引退」したライル・リッツは、住み慣れたロサンゼルスをあとにウクレレの故郷であるハワイ・オアフ島のカイルアに妻とお嬢さんと一緒に移住してきました。そしてオータサンやロイ・サクマをはじめとしたハワイの音楽関係者との交流を通 じてふたたびウクレレを弾くようになったのです。さらにロイ・サクマ主宰の「ウクレレ・フェスティバル」では毎年のようにお嬢さんのエメリーを連れてウクレレ・ソロで出演するようになり、ライル・リッツ自身3枚目のソロ・アルバム「Time...」(Roy Sakuma RSCD 5583)もリリースされたことによって、彼の弾くジャズ・ウクレレがふたたび一般 に認知されるようになりました。

ウクレレの種類と調弦(チューニング)

 ウクレレが誕生した19世紀後半から20世紀にかけては、ウクレレのサイズと形状には大きな変化がありませんでした。このサイズと形状をもつウクレレのことを「オリジナル・ウクレレ」もしくは「スタンダード・ウクレレ」と呼ぶようになったのは、それ以後にパイナップル形のウクレレが登場してからのことと思われます。そして、音域を拡張したいという要望から「テナー・ウクレレ」「バリトン・ウクレレ」等の大きなウクレレが誕生し、さらにはテナーとスタンダードの中間のサイズを持つ「コンサート・ウクレレ」等も誕生しました。これら各種ウクレレの登場により、最近では「オリジナル・ウクレレ」もしくは「スタンダード・ウクレレ」のことを「ソプラノ・ウクレレ」と呼ぶ呼び方も定着してきました。

 指板がボディーにつながる部分のフレット数も、当初は弦長の半分に相当する12フレットでしたが、後年ソロのメロディーを弾きやすくする目的で、これを14フレットにしたものが登場しました。さらにはこれがエスカレートし、22フレットというようなウクレレも見受けます。一方ギターでよく採用される形状の、ボディーのサイズを変えないでその一部を切り欠いたことにより1弦の高音部を弾きやすくした「カット・ウェイ形」のウクレレもあります。ライル・リッツが最初の2枚のLP録音に使用したウクレレもギブソンのカット・ウェイ仕様のテナー・ウクレレでした。

 ウクレレの4本の弦を、ウクレレをかかえた状態での上の弦すなわち4弦(こちらを1弦と呼ぶ人も居ますが・・)からG−C−E−A(開放弦を弾いたときのコードがC6になります)と調弦するのが現在では一般 的ですが、ウクレレが米本土に渡り、広くボードビルの世界で使われていた時代の1930年代における調弦はA−D−F#−B(開放弦のコードがD6)が主流でした。ある時期このふたつの調弦が存在していたため、前者を「ハワイアン・チューニング」後者を「アメリカン・チューニング」と呼んでいました。オータサンが1950年代に弾いていたウクレレの調弦もアメリカン・チューニングのほうでした。 ウクレレ調弦の大きな特徴として、1弦、2弦、3弦とピッチ(音の高さ)が順番に低くなっていき、4弦でもう一度高くなるという構成があります。もともと1弦から4弦までのそれぞれの弦の音程関係は音の高さこそ異なりますがギターのそれと全く同じになっています。この音程関係を誰がそのように決めたかは不明ですが、これによりギターを弾くかたが比較的容易にウクレレの世界に入れるようになっているとも言えます。そして当時の人が4弦のピッチを1オクターブ高く設定したというのは、ウクレレを伴奏楽器として位 置づけ、ストラム(コードをまとめてジャランと弾く)の方向が上からでも下からでも似たような音色が得られるように考えたのかも知れません。もっと単純に想像すると、当時の技術では低いピッチを実現するためには弦のゲージ(太さ)を極端に大きくする必要があり、ウクレレのような弦長の短い楽器に使える実用的な弦が作れなかったのかも知れません。

 いずれにしてもウクレレの調弦として、この4弦が高いピッチをもつスタイルが定着し、ウクレレ・ソロを志す演奏家もこの調弦で演奏し、この調弦独特のテクニックも数多く誕生しました。オータサンの調弦も当初はこの「4弦が高い」ものでしたが、広範囲のジャンルの音楽を演奏する場合にこの調弦のもつ「音域の狭さ」により制約が生じるため、テナー・ウクレレの3弦用に開発されていた金属巻き弦をスタンダード・ウクレレの4弦に張ることで「先祖帰り」ではないのですがギターと同様に4弦が3弦より低くなるという音程を持たせたウクレレを誕生させました。この4弦を低く調弦することを「ローG調弦」と呼んで従来の調弦と区別 しているのですが、最近ではこの従来の調弦のことを「ハイG調弦」と呼ぶ人も多く、やがては「ソプラノ・ウクレレ」同様に定着してしまうかも知れません。とりあえずここでは従来の調弦を「レギュラー・チューニング」と呼んでおくことにいたします。

 よく、「オータサンはローGしか弾かない」という話を聞きますがこれは完全な誤解です。現在でもレギュラー・チューニングのウクレレをよく弾いていますし、レギュラー・チューニングの良さを生かした録音も考慮しているようですのでご期待ください。

 テナー・ウクレレの調弦がまた混乱しています。他の楽器たとえばサキソフォンのような場合ではソプラノ、アルト、テナー、バリトン、バスと楽器のサイズが大きくなるに従って全体の音程がそれぞれ4度もしくは5度ずつ下がって行くのに対して、ウクレレの場合はボディーのサイズが大きくなることでその共鳴するピッチが低くなるにもかかわらず、そのことよりも演奏者の演奏しやすさから音程を決めることがおこなわれています。テナー・ウクレレの場合がそれであり、楽器メーカーとしては折角大きなサイズのボディーを持っている楽器なので、スタンダード・ウクレレより4度低いD−G−B−Eの調弦で弾くことを前提に製作していると思われますが、演奏者のほうでこれをG−C−E−Aと変更して使うことがかなり一般 的に行われています。ウクレレの名工のひとりであるカヴィカ・ハード氏の計算によるとテナー・ウクレレの最低共振(共鳴)周波数(ピッチ)はほぼ低いG音とのことですのでテナー・ウクレレをD−G−B−Eで調弦した場合の3弦もG−C−E−Aで調弦した場合のローGの4弦も同じピッチとなるので設計の趣旨には合致しているかも知れません,。逆に考えるとスタンダード・ウクレレにローG弦を張ってもボディーは共鳴してくれないということが分かり、この欠点はマイクやピックアップで電気的に補ってやるしか方法はありません。オータサンがピックアップ内蔵のウクレレを使用している秘密もこのあたりにありそうです。

 ご存じのかたも多いと思いますが、ライル・リッツの使用しているテナー・ウクレレの調弦は4弦が高いD−G−B−Eになっておりますので、ここではこの調弦のことを「テナー・チューニング」と呼ぶことにいたします。


曲目と演奏

 使用した楽器はオータサンはすべてマーティンのスタンダード・ウクレレですが、ライル・リッツのほうは2、4、5、6、7、10の6曲をマーティンのテナー・ウクレレで弾き、残りの4曲をコオラウのテナー・ウクレレで弾いています。 また、曲目の解説には出口一也氏の調査結果を、そして演奏解説には小林健博氏からのコメントを参考にさせていただきました。  

  1. シューフライ・パイ・アンド・アップル・パン・ダウディー
     
    この何とも長いタイトルはアメリカの田舎で好まれているシューフライ・パイとアップル・パン・ダウディーというふたつの食べ物(おやつ)を表わしています。曲自体はダイナ・ショアが1946年に唄ってヒットしたのですが、続いてジューン・クリスティー&スタン・ケントン楽団、ガイ・ロンバード楽団、フランク・シナトラ等いくつかの歌手やグループがカバーしたレコードも次々にヒットしました。
      この演奏をちょっと聴くだけでウクレレ・デュオ・アルバムの素晴らしさがあふれ出てくるのがお分かりになると思います。オータサンとライル・リッツが楽しそうに弾いている姿が目に浮かぶようではありませんか。オータサンの鋭いタッチの音とライル・リッツのソフトなタッチの音というそれぞれ個性ある音色、それでいてよどみない音の流れはアルバムのトップを飾るにふさわしい名演と言えましょう。

  2. サヴォイでストンプ
      サヴォイというのはニューヨークのハーレム地区にあったダンスホール(ボールルーム)の名前で、1930年代には最も有名なホールでした。ダンス好きの人達はこのホールでストンプ(足を踏み鳴らすという意味から転じて「踊る」こと)をするのを好みました。この曲はこのホールにも出演していたベニー・グッドマン楽団により1936年に大ヒットをし、1955年のユニバーサル映画「ベニー・グッドマン物語」でも使われました。
      この演奏ではライル・リッツの特長であるテナー・ウクレレのコード奏法がふんだんに登場します。1音1音のメロディーに対するコード・ワークの巧みさと単音弾きをしたときの彼のマイルドで透明度の高いサウンドには、ライル・リッツ・ファンならずとも魅了されること間違いありません。

  3. トリステ(悲しみ)
     ボサノヴァの生みの親アントニオ・カルロス・ジョビンは、フランク・シナトラとのレコーディングのために1966年8月にロサンゼルスに来たものの、シナトラの都合で翌年1月末までレコーディングが延期され5ヶ月も足止めを食いました。この期間に彼は「ウェーブ」とこの「トリステ」の2曲を作曲し、自分のアルバム「ウェーブ」に収めましたが、2曲ともその後数多くのミュージシャンに演奏されています。
     オータサンとライル・リッツはメロディーとバックを交互に担当しながら演奏しているのですが、あたかも伴奏を一人の演奏家が受け持っているかのようなスムーズな流れの中で、オータサンとライル・リッツそれぞれの特長あるアドリブと特長あるバックのコード・ワークがきこえてきます。

  4. 枯葉
      もともとジャック・プレヴェール作詞、ジョセフ・コスマ作曲、ジュリエット・グレコの唄で1947年にヒットしたシャンソンの不朽の名作でしたが、その後ジョニー・マーサーの付けた英語の歌詞により数多くの歌手(たとえば1956年コロムビア映画「オータム・リーブス」の中でのナット・キング・コール)が唄い、さらにはマイルス・デイヴィスが演奏したことによりポピュラーの名曲としての地位 を不動なものとしました。
      演奏はまずライル・リッツの無伴奏ソロではじまり、そのまま彼が2コーラス演奏してオータサンにバトン・タッチ、最後はふたたび彼の演奏へ戻るという構成ですが、ふたりの単音弾きのアドリブとライル・リッツのコード弾きのメロディー、そしてふたりの正確なバック演奏がこの曲の素晴らしさを一層盛り上げています。

  5. ティーチ・ミー・トゥナイト
      サミー・カーンとジーン・ドゥ・ポールによって1953年に作られた「今夜は貴方から教えてもらう絶好のときだから、ABCからXYZまでのすべてを教えてちょうだい!でも先生がこんなに間近にいてもいいのかしら?」というちょっとユーモラスなラブ・ソング。最初に吹き込んだジャネット・ブレイスの唄はヒットしませんでしたが、その後これをカバーした何人かの歌手やグループの吹き込みでヒットしました。
      ライル・リッツもオータサンも「ジョーク大好き人間」ですので、このふたりがジョークを交わす場面 では爆笑の渦が巻き起こります。この曲を録音した際、このセクシーな曲名をいかにもまじめな調子でライル・リッツが言ったため、ややあってオータサンがこらえきれず吹き出した様子が収録されています。

  6. サンバドウロ
      かつてセルジオ・メンデスとブラジル66のリーダーとして絶大な人気を誇ったセルジオ・メンデスが1992年に発表したアルバム「Brasileiro(ブラジル人)」は、それまでの彼の作品の背景にあるブラジル音楽に焦点をあてたアルバムで、ブラジル音楽のもつ広範囲の可能性を何人かの作曲者によるオリジナルで表現しました。この曲はその中でもっともブラジル66時代の音楽に近い雰囲気を持っていると彼自身が述べています。
      この曲は以前のオータサンのアルバムにも収録されていますが、そのときの演奏はオータサンが単にコンボの一員としてアドリブを弾くというスタイルでした。今回の録音はオータサンの無伴奏ソロにはじまりライル・リッツの多彩 なコードによる伴奏が加わり、ふたりのアドリブへと展開する、まさに「これがウクレレ・デュオ!」という演奏です。  

  7. ルルズ・バック・イン・タウン
     ハリー・ウォレン作曲、アル・デュービン作詞で作られたこの曲は1935年のワーナー映画「ブロードウェイ・ゴンドリヤー」でディック・パウエルとミルス・ブラザースによって紹介され、ヒット・チャートには同じく1935年にファッツ・ウォーラーの盤が10週間入っていましたが、最高ランクは8位 でした。しかしディック・パウエルの登場するラジオ番組では長いあいだ最も多くリクエストされた曲だったのです。
     ライル・リッツと言えばこの曲を思い出すほど彼の「十八番(おはこ)中の十八番」の曲ですが、この録音では彼の特長であるコードを使ったソロに加えて単音弾きによるアドリブ、そしてオータサンのソロが登場し最後にふたたび彼のソロに戻るという構成によりこの曲のイメージを一新しています。  

  8. アイ・ウォント・ダンス
      ジェローム・カーン作曲、オットー・ハーバック、オスカー・ハマーシュタイン2世の作詞で1934年のミュージカル「スリー・シスターズ」の主題歌として発表されたこの曲は、翌1935年のRKO映画「ロバータ」でドロシー・フィールズの作詞をフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが唄い有名になり、さらにリュー・シャーウッドがこの年に吹き込んだ盤は14週間ものあいだヒット・チャートに入っていました。
      今回のアルバム中で最も演奏時間の長い録音ですが、オータサンのコードを付けながらのソロ演奏に引き続き、相手のしゃれたコード・ワークの伴奏に乗って両者それぞれの単音弾きのアドリブが交互に楽しく流れて行くという構成により、長さを全く感じさせません。

  9. ブルーセット(木陰にて)
      ブルーセットというのはポピュラー音楽の1分野である「ブルース」に「小さい、かわいい」といった感じを表わす接尾語「〜ette」をつけたもので、ブルースという音楽を擬人化しています。この曲は1936年にハーモニカ奏者、ギタリストとして有名であったジーン・トゥーツ・スィールマンズによって作曲されたインスツルメンタル曲でしたが、1964年にノーマン・ギンベルによってタイトルにふさわしい歌詞が付けられました。
      オータサンが以前この曲を録音したときは、オリジナルのハーモニカ中心の演奏をイメージしたピアニカが演奏の主役という感がありましたが、今回の録音は作曲者の本職であるギターを意識しての演奏となっています。ライル・リッツお得意の終止コードを交えたフレーズとオータサンの単音弾きソロの融合が絶品です。

  10. ドリーム   
      上記4「枯葉」の英詞をつくったジョニー・マーサーの作詞・作曲により1944年につくられたこの曲は、翌年公開されたMGM映画「夢のひととき」および1955年のフォックス映画「足ながおじさん」に使用されましたが、特に後者の映画自体のヒットによりスタンダード曲としての地位 を確保しました。この曲はオータサンの青春時代の思い出の曲で、当時のビーチボーイ達は4パートのコーラスで楽しんだものです。
      この曲はオータサンとライル・リッツのコンビによって何度も何度も演奏されてきましたので、お互いの「出番」と「役割」を十分過ぎるほどわきまえた演奏です。そしてライル・リッツの素晴らしいコード・ワークとオータサンのコードを交えた単音弾きのソロは、このアルバムを締めくくるにふさわしい名演になっています。  

日本ウクレレ協会 小 林 正 巳


Jam Selections