MastersJacket.jpgJVC VICG-60404(平成12年7月26日発売)
「ウクレレ・マスターズ」解説
灰田有紀彦の奔走で実現したウクレレ・ソロの名演奏集

ハーブ・オオタの日本初録音を含むLPとエディー・カマエの「幻の名盤」が1枚のCDとして復刻されました。
 今回の日本ビクター原盤による日本の洋盤復刻シリーズ「ハワイアン・イン・ジャパン」の中心的存在である灰田晴彦(有紀彦)のところへ、当時ハワイで有名なウクレレ奏者であり灰田とは旧知の間柄であったエディー・カマエが夫人とともに訪問したのは1959年のことでした。灰田は早速友人達を集めてエディーを囲む集いを開いたのですが、この催しがその年発足した日本ウクレレ協会(NUA)の最初の会合となりました。 そして、かねてより日本にもっとウクレレを普及させたいと願っていた灰田は、彼が作曲家として在籍していた日本ビクターに対し、エディー・カマエのウクレレ・ソロ・アルバムを作成するという企画を提案、自らアレンジを担当して10インチ(25センチ)LPによるアルバム「南海のウクレレ・ムード」(ビクターLV-116)のリリースを実現しました。 エディーのアルバムとしてはサンズ・オブ・ハワイを中心としたLPはたくさん出ていますが、純粋にウクレレ・ソロのみのアルバムは「Heart of Ukulele(MAHALO M-3002)」以外には見当たらないので、エディーが日本で録音したこのアルバムは以前から復刻を切望されていました。 特に後述のように若き日のハーブ・オオタがその演奏の素晴らしさにショックを受け、エディーに教えを請うきっかけとなった「マラゲーニャ」も収録されていますので、その面 からも貴重な資料と言えましょう。
Kamae&HaidaS.jpg  灰田有紀彦とウクレレの話をしている中で、エディ・カマエが「私の弟子で自分より遥かに優れたウクレレの名手がいる」と名前を出したのがハーブ・オオタで、翌年ハーブはエディーの紹介状を持って灰田の所を訪問、爾来1964年にハワイへ戻るまでのあいだ、ハーブ・オオタは灰田有紀彦に公私ともに大変お世話になったとのことでした。
(写真左:NUA例会のエディー・カマエ夫妻と灰田有紀彦)
  エディーの言うとおり、ハーブの演奏は一段と洗練されたもので、当時から数千曲といわれるレパートリーと多彩 な演奏技法を持っておりました。灰田はエディーの時と同様、ハーブの演奏によるアルバム作成を提案し、2枚のLP「南の夜のウクレレ・ムード」(ビクターLV-207)と「ウクレレ・ラテン・ムード」(ビクターLV-321/SLV-34)をリリースいたしました。 この2枚のうち特に「南の夜のウクレレ・ムード」はハーブ・オオタとして初めて録音したアルバムであり、この2枚ともハーブ・オオタがハワイへ帰国するにあたって録音した「レジェンダリー・ウクレレ」よりも早い時期の録音です。
  少し前にハーブ・オオタとエディー・カマエが組んで演奏するアルバムの企画が持ち上がったことがありました。この企画は当初ふたりの賛同も得てすすめていたのですが、途中でエディーの側から辞退の連絡が入り、折角の企画はボツとなってしまいました。その意味からも、今回の「ウクレレ・マスターズ」は貴重なカップリングと言うことができましょう。

二人の横顔
エディー・カマエ
1927年8月4日ホノルル生まれ。本名エドワード・レイラニ・カマエ。13歳ごろからウクレレに親しんだのですが、音楽理論の裏付けが必要であると感じ、ハワイ大学のバーバラ・スミス教授の指導を受けました。21歳のときにウクレレ中心のデュオ「ウクレレ・ラスカルズ」を結成してプロ・デビュー、続いてレイ・キニーのバンドに加わって米本土への演奏旅行等を行ったのち、一時プロ活動を休止してウクレレ演奏技術のレベル・アップに専念した時期もありました。 その後プロ活動を再開し、ギャビー・パヒヌイ、ジョー・マーシャル、デイヴィッド・ロジャースと組んで栄光のグループ「サンズ・オブ・ハワイ」を結成、数々のヒットを重ねました。彼の作曲した「モーニング・デュー」はハワイアン音楽のスタンダード曲としての地位 を確保しております。

ハーブ・オオタ:1934年10月21日ホノルル生まれ。本名ハーバート・イチロウ・オオタ。小さい頃からウクレレ奏法に興味を持ち、たくさんの先人の演奏を取り入れた上でハーブ・オオタ・スタイルと呼ばれる彼独自のスタイルを構築しました。彼が大きな影響を受けた先輩としてペリー・バトキンSrやエディー・カマエがおり、特にエディー・カマエには直接師事していろいろなテクニックを学びました。 もっともあまりにも理解が早く、すぐに「免許皆伝」になった話は有名です。彼も音楽理論の必要性を痛感し、エディー同様ハワイ大学のバーバラ・スミス教授に師事いたしました。ハーブは1950年に勃発した朝鮮動乱の終結も近づいた1953年に米海兵隊に徴兵されましたが、「死にたくない(笑)」ので、当時あまり日本語が達者では無かったにもかかわらず志願して士官付きの通 訳となりました。 朝鮮戦争終結後も1963年まで日本の基地で通訳としての勤務を続けており、この時期にエディー・カマエの紹介で灰田有紀彦と知り合うようになったのです。

OhtaPlay.jpg演奏曲目の紹介(括弧 内はキー:調子を示します)
1)から10)は25センチLP「南の夜のウクレレ・ムード/ハーバート大田とハワイアン・オーケストラ」に収録された全曲を復刻したものですが、オリジナル盤はモノーラル録音であったのに対し、この復刻盤は嬉しいことに当時盛んであった「擬似ステレオ」ではなく「本当の?ステレオ録音」になっています。
(写真右:NUAで演奏するハーブ・オータ)

1) ピーナッツ・ベンダー(G)
原題名をEl Maniceroという1928年に作曲されたラテン音楽の名曲のひとつ。ワーナー映画「スタァ誕生(A Star Is Born)」でも使われました。曲全体がGとD7という二つのコードのみで構成されるというユニークな作品ですが、ハーブ・オオタはボンゴやコンガなどのラテン・パーカッションとベースをバックに華麗に演奏しています。

2) カルア(E)
20世紀初頭の米本土では、ハワイに憧れて作られた数多くの「ハワイ音楽」が誕生しましたが、この曲もそのひとつで、ミュージカル「Good Morning Dearie」の主題歌として大作曲家ジェローム・カーンが作曲しました。20世紀フォックス映画「南海の劫火(Bird Of Paradise)」主題歌の「カルアの恋唄(Love Song Of Kalua)」も「カルア」と呼ばれるため、よく混同されています。

3) マナクーラの月(G)
オリジナルのLPでのタイトルは「マウイの月」となっていましたが、「マナクーラの月」であることは明らかです。この曲はユナイト映画「ハリケーン(The Hurricane)」の主題歌として1937年にアルフレッド・ニューマンが作曲しました。灰田有紀彦のスチール・ギターとハーブ・オオタの素朴なウクレレ・ソロで交互にメロディーを受け持っています。

4) 恋人よ、アロハ(D)
ハワイの大作曲家、バンド・リーダーであったハリー・オーウェンス1935年の作品です。パーティーの終わりやレコード・アルバムの終わりにふさわしいタイトルのために、よく演奏されています。この曲も灰田有紀彦とハーブ・オオタの掛け合いで演奏されますが、単純なメロディー演奏の中でハーブが時折みせる親指だけの3連トレモロがいかにも彼らしい弾き方と言えましょう。

OhtaPlay.jpg5)スィート・レイラニ・メドレー(D)
「スィート・レイラニ(Sweet Leilani)」、「ホロホロ・カァ(Holoholo Kaa)」そして「カウラナ・オ・ヒロ・ハナカヒ(Kaulana O Hilo Hanakahi)」の3曲がメドレーで演奏されます。「スィート・レイラニ」はハリー・オーウェンスが愛娘レイラニに贈った曲で、ビング・クロスビーがパラマウント映画「ワイキキの結婚(Waikiki Wedding)」の主題歌として取り上げ1937年度アカデミー音楽賞を受賞しました。「ホロホロ・カァ」は盲目の作曲家ジョニー・アルメイダがジョニー・ノーブルと共作した曲で、自動車(カァ)で散歩をする(ホロホロ)すなわちドライブを楽しむというフラ・ソングです。この部分のバックに聞こえるリズム楽器はフラに使われるプーイリという竹製の楽器です。「カウラナ・オ・ヒロ・ハナカヒ」は女性歌手・作曲家であったレナ・マシャードの作品で、ヒロに住んでいた有名(カウラナ)な首長ハナカヒを唄った曲です。

6)森の小径(G)
今回の「ハワイアン・イン・ジャパン」のシリーズの1枚「南国の夜」の中で灰田勝彦が唄っている曲で、兄の灰田晴彦(有紀彦)の作品です。また、灰田有紀彦が創設した日本ウクレレ協会の協会歌としても制定されています。ハーブ・オオタはこの曲を何度も録音していますが、その都度「Bonsai」、「Little Tree」と英語のタイトルを変えています。

7) ロンリィ・ワン(Am)
ナット・キング・コールの歌で大ヒットをしたラテンの名曲で、RヘラーとLハンブロのコンビによって1956年に作られました。という事は、このアルバム録音時にはまだ新しい曲だったのですね。この曲ではハーブ・オオタがふたたびラテン・パーカッションとベースをバックにメロディーを受け持っています。

8) ポインシアーナ(D)
ナット・サイモンが1936年に作った曲で「Song Of The Tree」という英語のタイトルが付いていますが、このタイトルはほとんど使われていません。このアルバムの発売された当時は、ある程度「ハワイアン音楽」が収録されていないと売りにくかったのかも知れませんが、この曲を弾くハーブ・オオタはハワイアン音楽を弾いているときとは違って生き生きと演奏しています。

9) ジェラシー(Em)
ヤコブ・ゲイドが1926年に作ったコンチネンタル・タンゴの名曲ですが、ここではラテン・リズムで演奏されます。1945年のMGM映画「錨を上げて(Anchors Aweigh)」および1951年ワーナー映画「Painting The Clouds With Sunshine」にも使われています。ハーブ・オオタは前半の無伴奏の部分で二重録音に頼らずメロディーとコードを同時に弾いています。

10) 南国の夜(Bm)
アグスティン・ララとネッド・ワシントンが作った「ベラクルスの夜(Noche De Veracruz)」が原曲ですが、1938年にパラマウント映画「セニョリータ(Tropic Holiday)」主題歌として我が国に登場し、さらに日本語の歌詞が付けられたことで、日本における「ハワイアン音楽」のジャンルでの名曲に数えられるようになりました。ハーブ・オオタが後半でみせる単弦弾きのトレモロは、録音当時に大変注目されたとのことです。

11)から14)は25センチのステレオLP「ウクレレ・ラテン・ムード/ハーバート太田(正しくは大田)のウクレレとラテン・コンボ」に収録された6曲の中から、ハーブ・オオタ自身の選曲になる4曲を収録いたしました。

11) ベサメ・ムーチョ(Gm/Dm)
メキシコの作曲家コンシエロ・ヴェラスクェスが1941年に作詞作曲をした曲で、サニー・スカイラーの英語歌詞によるタイトルは「Kiss Me Much」です。我が国ではトリオ・ロス・パンチョスの唄で知られているだけでなく、当時のハワイアン・バンドの多くがこの曲をレパートリーとしておりました。ハーブ・オオタの演奏は、GmからDmへと転調してそれぞれのキーでメロディーを弾いています。

12) ムーン・イズ・イェロー(Dm)
フレッド・E・アーラ―トの1934年作、原題は「The Moon Was Yellow (And The Night Was Young) 」です。ハーブ・オオタの演奏は親指だけの3連トレモロを含む力強い単音弾きに始まり、中間は二つの弦を交互に弾くトレモロでバッキングをおこない、そして最後の部分では親指による単弦トレモロに、と多彩 なテクニックで聴かせてくれます。ハーブのこれらの各種トレモロテクニックはいずれも我が国に初めて紹介されたもので、ウクレレ・ソロを目指していた演奏家たちに良いお手本になったようです。

13) イェスタデイズ(Dm)
ミュージカル「Roberta」の主題歌として、1933年にジェローム・カーンが作曲したもので、RKO映画でこのミュージカルが映画化された際にも主題歌として使用され、1952年のMGM映画「Lovely To Look At」にも採用されました。しかし、今ではその後登場したビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビによる類似タイトルの「Yesterday」のほうが遥かに有名な曲となってしまいました。

14) クマーナ(Dm)
ハロルド・スピナ、ロック・ヒルマン、バークレイ・アレンの3名で作詞作曲をしたサンバの名曲。大変速い曲のため、ウクレレで弾きこなすのは至難のわざといえましょう。この録音の中間部においてボンゴのソロが大活躍をしていますが、このボンゴとハーブのウクレレ・ソロの掛け合いがこの曲を大変華やかなものに仕上げています。

15)と16)は上記「ウクレレ・ラテン・ムード」から2曲を削除し、代わりにこちらを是非加えたいとハーブ・オオタ自身が選んだ曲です。 この2曲は、ハーブ・オオタがハワイへ帰国する直前に録音されたもので、アレンジャーとしてはジャズのサックスとフルートの名手で、現在もニューヨークを中心に活躍しているマリシオ・スミス(ハーブ・オオタのCD「Cool, Tropical Ukulele」で共演しています)が担当したため、他の曲とは異なる雰囲気を持っています。なお、15)以降の曲はすべてモノーラル録音になっています。

15) エンジェル・アイズ(Dm)
アール・ブレントとマット・デニスが作ったハーブ・オオタの好きな曲のひとつ。彼のCD「I Wish You Love」にも収録されています。マリシオ・スミスの哀調をおびたフルートのメロディーに始まり、サビ(中間)部分をハーブのアドリブでつなぎ、ふたたびフルートへ、そして2コーラスめは前半がウクレレで後半からフルートという見事なアレンジで聴かせてくれます。

16) 鈴懸の径(Dm)
上記「森の小径」同様、ハーブ・オオタが日本滞在中大変お世話になった灰田有紀彦の作品であり、ハーブ・オオタが帰国後一躍有名となったきっかけをもたらした曲でもあります。ハーブがハワイでデビューしたときの演奏とはまたひと味違ったパターンを持つマリシオ・スミスのアレンジとフルートが冴えています。

17)から26)までがハーブ・オオタの師匠であったエディー・カマエの演奏で、1960年発売の25センチLP「南海のウクレレ・ムード」からの全曲を収録してあります。彼はハワイではウクレレ・ソロLPを1枚しかリリースしていないため、日本で録音したLPの復刻盤が長いあいだ待ち望まれていました。

17) 珊瑚礁の彼方(F)
ピアニストで作曲家のジャック・ピットマンが1949年に作ったヒット曲のひとつ。我が国でも演奏回数の上位 を常に保っている曲です。この曲は持続音によるメロディーが多く含まれており、音を持続させるためにはトレモロを多用する必要があります。エディーのトレモロはラストの部分だけはフル・コードのトレモロですが、それ以外の部分は2弦を交互に弾くトレモロで演奏しています。

18) マラゲーニャ(Fm)
エルネスト・レクォーナが1928年に発表した「アンダルシア組曲(Andalucia)」の中の一曲で、最も有名な曲です。若き日のハーブ・オオタがエディーの弾くこの曲を聴いてショックを受け、入門するきっかけとなった名演奏なのです。この演奏を聴くと、単弦のトレモロ奏法やコードを鳴らしながらメロディーも弾くという奏法等々、ハーブ・オオタが師匠のこれらの奏法をマスターしたことがうかがえます。

19) 愛の誓い(F)
ドイツ映画「朝な夕なに」の主題歌で「真夜中のブルース」がトランペットで朗々と奏でられましたが、この曲も同じコンセプトの曲としてカール・シグマンとチャールス・ダンヴァースによって1957年に作られた、録音当時としては最新のヒット曲でした。エディー・カマエは高音域での2弦トレモロを駆使して美しく演奏しています。

20) 鈴懸の径(B♭m)
今度はエディー・カマエの演奏による「鈴懸の径」です。同じ曲でもアレンジの違い(こちらは灰田有紀彦)で曲の雰囲気も変わってしまう見本といえましょう。エディー・カマエはこのワルツの曲を単弦トレモロでまず演奏し、後半ではシンフォニック・ソロとも呼ばれるフル・コードのトレモロで曲を盛り上げています。

21) ケ・カリ・ネイ・アウ(D)
このメロディーを聴いたかたは即座に「ハワイの結婚の唄」であると認識される筈ですが、このLPが録音された1960年当時は「結婚の唄」であるという認識はまだ定着しておらず、ハワイ語のタイトルのみで扱われていました。もともとチャールスEキングが1925年にオペレッタ「Prince of Hawaii」の挿入歌としてこの曲を作った時はデュエット曲のひとつに過ぎず、1958年にアル・ホフマンとディック・マニングのコンビが「Hawaiian Wedding Song」というタイトルとともに新規に英語の歌詞を付け、アンディー・ウィリアムスとエルビス・プレスリーがその歌詞を唄ったことにより、はじめて「結婚の唄」と認知されるようになったのです。

22) シー・ブリーズ(G)
アームガード・ファーデン・アルリがマウイ島ラハイナにあったファーデン家の「我が家」のことを唄った「プアマナ(Puamana)」というフラ・ソングを1946年に作曲しましたが、その後上記ケ・カリ・ネイ・アウを「ハワイの結婚の唄」に変えたアル・ホフマン、ディック・マニングのコンビが8小節のブリッジ部分を加え、全編英語の歌詞の曲に作り上げたのがこの「シー・ブリーズ」です。

23) 愛の調べ(C)
クラシック音楽の中で美しいメロディーを持つ主題をアダプトしてポピュラー音楽とする試みは古くから行われていますが、この曲もそのひとつでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18の第3楽章からその第2主題をアダプトしたものです。エディー・カマエは無伴奏でありながらいろいろな演奏技法を駆使して演奏しています。

24) サマータイム(Am)
歌劇「ポーギーとベス(Porgy and Bess)」の劇中歌のひとつとして、ジョージ・ガーシュウィンが1935年に作曲した曲で、独立したスタンダード・ナンバーとして多くの歌手に唄われています。他の曲と異なり、この曲ではサックスとエレキ・ギターがバックを務めるなか、エディーの2弦トレモロ奏法が美しく流れます。

25) 荒城の月(Cm/C♯m)
滝廉太郎の作曲したこの名曲をエディーはコードを連続して弾きながらメロディーも弾くという大変高度のテクニックで演奏しています。私たちはハーブ・オオタの演奏によるこの弾き方を知っていましたが、師匠のエディー・カマエ自身がこの弾き方で演奏しているということはハーブ・オオタが師匠のテクニックをマスターしたと理解すべきでしょう。

26) アロハ・オエ(A)
1930年代にホノルルのアロハ・タワー近くの埠頭から出航する観光船をブラスバンドがアロハ・オエで別 れを告げる・・といういかにも「古き良き時代のハワイ」を彷彿させるように、電子オルガンとスチール・ギターの音色をバックにエディー・カマエはフル・コードのトレモロ(シンフォニック・ソロ)でこの曲を弾いています。ハーブ・オオタとエディー・カマエの師弟共演がはじめて実現したことに拍手を送ってこのアルバムを閉じたいと思います。

日本ウクレレ協会 小 林 正 巳


Jam Selections